04 さよならはいえなくて


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 幸村の修行はいつも、小さな黙祷と懺悔から始まる。
 両手にそれぞれ槍と刀を握っているというのに、その片方だけが奇妙なほど重く感じるのは気のせいではない。
 ここに眠っているのは、現世で死んだはずの“真田幸村”の魂。
 父の願いも己に課した使命も叶わず、掛け替えの無かったはずの師や仲間、家族をも守れず、のうのうと生きている己へ現実を突き付ける。隠遁した生活の中でさえも結局捨てきれずにいた奥底に刻まれている戦場へ憧憬を一瞬で蘇らせたほど、この槍に絡み付いている記憶は幸村そのものだった。

「それが継いだ虎の意志と真田の血の重さ。炎を纏う代償なのでございましょうか、お館様?」

 武器を手に取ると全身に駆け巡る高揚感は、戦いを求めて疼く身体に積もった中毒症状のよう。
 かつてならば、それがどんなに甘くとも毒なのだとは気付きもしなかっただろう。口元を歪めた幸村は、もう自分が昔のように純粋な気持ちで戦に挑めないと知っていた。

「皆の者のために戦えぬ某を……もはやあの方のためにしか武器を取る事も出来ぬ某を、どうかお許し下され」

 祈るように槍の柄に額を当て、幸村はそっと眼を瞑った。
 薄闇に染まっているこの心に住まうのは、たった一人しかいない。彼さえいればもう何も要らなかった。
 必要以上に追いかけていた力も武器も、戦うことで見出していた存在意義さえも、元就の傍らにいることが許されたこの世界の中では、最早無意味に過ぎないと認めてしまったから。
 そう言い切れる自信が、確実な形となって育ちきっていると分かってしまったから。
 押し殺していた元就の素の感情が曝け出されるたびに、幸村の想いも深った日々は二人の間に存在する偽り無き真実でしかない。それさえあれば生きていけると、盲信などではなく理解しているけれど――。
 不相応であっても更なるものを求めてしまうのは、人が人であるための咎なのだろうか。

 久方ぶりに同じ部屋で寝起きした日から幸村は、毎日一度だけ願いを尋ねる元就の言葉に対して身構えるようになった。
 視線を合わせ触れ合うことが何よりの至福だったというのに、それさえもできる自信が無く。今は欲望が溢れぬよう、強く自制するだけで精一杯だった。
 視界の端で元就が目を伏せて俯いた様子が見えたけれど、彼へと手を伸ばすには躊躇する。宙を彷徨った手は、結局拳を強く握るだけに留まった。

(この人を誰よりも守りたいと思うくせに、心の底で俺は何とおこがましい感情を持て余しているのだ)

 元就が半兵衛の腕の中で喘いでいた光景は、互いの想いを打ち明けた後であっても記憶から消えてはくれなかった。あの時同時に感じてしまった欲望も自己嫌悪も、劫火のように自分を支配した嫉妬も、幸村の中には根深く残っている。
 目の前が赤く染まった瞬間は、特に鮮明に覚えていた。
 幸村が他人に対してあれほど純粋な殺意を抱いたのは初めてだった。命を踏み台にして生き残った自分が、誰かを憎む権利なんてないのだとさえ思っていたというのに。
 捻じ曲がった感情に突き動かされてしまえば、簡単に獣へと成り下がれる自身が恐ろしくて堪らなかった。
 奥底から滾る愚かしい衝動は己の内なる凶暴性までをも引き出しそうで、自分が何をしでかすのか予想できない。
 見下ろすこの手が彼を傷付けるのかと考えるだけで、幸村の背中に冷たいものが駆け抜けていく。

(俺は、竹中殿とは違う!)

 微かに首を振った幸村は再び抑制が揺らがぬよう、自身へと強く言い聞かせた。
 自分までもが元就の嫌悪する行為を求めるわけにはいかない。
 だから昨夜だって、小さな触れ合いだけで満足していたのに――しようと、していたというのに。
 理性によって完全に抑え付けられたと信じていたからこそ、目が見えなかったあの頃の距離が恋しくて同じ座敷で眠ることをつい望んでしまったが、所詮己の意志は脆弱だったという証明にしかならなかった。
 越えてはいけない線の瀬戸際の前まで既に来てしまっているのだと、幸村は改めて身に沁みる。
 薄闇の中でじっと見つめていた元就の白い肌に、直接触れてみたいと夜半中考えていた。美しい瞳に自分だけを映させて、あの身体を好きなように蹂躙してしまいたいという欲求が形を成して湧き上がりそうだった。
 真実を垣間見たあの夜に催したような汚らしい劣情を持て余し、理性と本能の間を一進一退していたため、結局は一睡もできずに朝を迎えた。
 元就を恋う感情は確かなのに。
 気持ちが重すぎるが故に根付いた衝動は、当然のことだと言ってしまえば容易い。
 だがそうして自分を正当化したとしても、彼を傷付ける免罪符に成り得るはずはない。
 凶暴な獣が内側に存在していることを自覚してしまってから、元就を抱き締めるこの手がいつか彼を引き裂いてしまうのではないかと想像を止めることが出来なかった。
 側にはいたい。できれば、ずっと。
 だから元就の嫌う行いなんかしたくもない。ましてや彼の支配者であろうとするあの男と同じ行為なんて、彼が全てである今の自分にできるはずがなかった。
 ――だって、あの時。
 耐え切れず衝動に身を任せて彼の唇を奪ってしまった時。
 世界が終わったような顔を浮かべた元就は、自分を突き飛ばして逃げたのだ。あるがままを受け入れてくれた彼が、初めて自発的に拒否したのだ――。

「幸村?」

 困惑したような視線が此方を向いていたが、幸村は小さく微笑むだけで何も言わなかった。
 今浮かべているだろうこの歪んだ表情を、元就は好きじゃないと分かっている。
 それでも幸村にはそうすることしかできなかった。愚かな自分に対して絶望するのには慣れている。いつだってこうして笑って我慢していれば耐えていけた。
 元就を困らせたくない。怯えさせたくない。
 ようやく互いの想いを伝え合えたというのに。みっともないわだかまりを残したまま戦に向かうのは嫌だった。

「今日は、散歩にでも参りましょうか」

 追求を許さない笑顔に元就は口を閉ざし、代わりに少しだけ笑って幸村が伸ばした手を受け取ってくれる。掌から伝わる相手の肌と熱の感触に、幸村は眩暈を覚えながら立ち上がった。
 これ以上の触れ合いを望んではいけないと分かっている。
 だけど一度だけ重ねた感触は生々しく覚えていて、もっと欲しいと強請る我侭な己が今も裏側で理性を唆そうとしていた。


 + + + + +


 獰猛な想いを潜ませつつも微妙な距離を保ったまま数日が経ち、とうとう幸村の出立を明日に控えた。
 幸村は続けていた鍛錬を今日一日取り止めると元就に告げ、あまり触れなくなった彼の身体をそっと抱き締める。

「今日のお願い、聞いていただけますか」
「改まってどうした?」

 やけに真剣な顔付きだったのだろう。元就が苦笑したようだ。
 何だか気恥ずかしくなってきた幸村は、小さく組まれていた元就の手を握って囁くように望みを訴える。
 これから戦地へ向かうのが嘘のようなくらい穏やかな空気に囲まれて、彼に触れていたかった。血生臭い世界へ還っても、彼の冷たい温もりを一時でも忘れたくなかったから。

「今日一日、ずっと貴方の傍らにいとうございます」

 微かに見開かれた瞳が優しげに細められて、元就は頷いた。ほんの少しだけ嬉しそうに口の端を綻ばせた様子を見とめ、長く離れることに恐れていたのは自分だけではないのだと幸村は気付く。
 たったそれだけで浮ついた胸の熱さに、幸村は瞼を強く閉じた。
 二人は決して、明日の話はしない。今まで続けてきたように、同じ毎日が繰り返されるかのように振舞い続けた。
 互いが側にいない日を考えるのが少しだけ怖かったのかもしれない。
 広くはない古寺の中を歩き回り、取り止めのない話を口にする。その話題が思い出話にばかりなってしまうのは、無意識の内に感傷的になっていたからだろうか。雨の季節に出会った場所を眺め、幸村が盛大にぶつかった柱に笑い、最近は弾かなくなっていた琵琶を引っ張り出して、山の上に登った。
 静か過ぎる森を二人で歩いていると、訪問者が幾人か訪れたことも随分昔のことのように感じられる。外の戦乱が嘘のように、この奈落にも等しい世の淵は穏やかで静寂に満ちていた。
 けれど此処がどれほど常世のようだと言っても、現実と同じ時間軸で動く世界の中に囚われている以上は、外部との接触を完全に断つことは叶わない。
 ――だからこそ明朝、この手を放さなくてはならないのだから。
 幸村は無言で元就の手を強く握り込んだ。
 遠く離れていても彼の感触を忘れぬように、きつく。

「不思議なものだ」
「毛利殿?」

 繋いだ手の主へと振り向けば、元就は目を細めて自分を見ている。
 不意打ちのように穏やかな表情と出会ってしまい、幸村は頬を染めてうろたえた。

「そなたと暮らして夏が過ぎ、秋が過ぎ、もうすぐ冬が訪れ――春が過ぎれば一年経つ。この森で出会った時のことはまるで昨日のように思い出せるというのにな」

 心地良い声を聞きながら、幸村は自然と笑みを浮かべた。元就も覚えていてくれていると思うだけで嬉しくなる。
 自分もまた、元就と初めて繋いだ手の温もりは記憶に深く刻まれていた。
 日に当たっていられた頃の戦での出会いよりも、もっと鮮やかに刻まれた思い出。闇に閉ざされた世界の中でただ一人自分の腕を掴んでくれた元就との日々の始まりを、忘れるはずがない。
 照れ臭くて逸らした視線を元の位置に戻した幸村は、予想とは違う元就の表情に虚を衝かれた。
 ずっと彼を見ていた幸村にしか分からないような微笑が確かにそこにあるというのに、元就は何故か哀しげだった。
 自分を誰かと重ねているのとも違う。幸村をしっかりと見ているというのに、心も此処にあるというのに、どうしてだか泣いていた時の顔に似ているような気がする。

「幸村、行こう」

 呆然としていた幸村は、声を掛けられ慌てて歩き出す。
 無意識の内に立ち止まってしまっていた幸村を促した元就は、先程よりもきつめに手を握り返してきた。幸村よりも幾らか細い指先に違和感が伴うのは気のせいだろうか。自分が武器を握るようになったからか、元就の握力が前よりも弱くなっているように感じる。
 痞える疑問の答えは見つからなかったが、元就もまた明日の別れが寂しいのだと知っていたから幸村は何も聞けない。聞いてしまえば、言わせてしまえば、自分もまた泣き叫んでしまうだろうから。
 開けた野原に腰を下ろして頬張ったのは、元就が作ってくれた握り飯。何もついていないのに涙交じりの塩辛い味が沁みていたあの日の決意は、色褪せてなどはいない。
 彼岸の季節も過ぎてしまい、白い海は花が枯れたため以前の姿は見られなくなったが、緑色の草原から覗く絶景もまた変わってなどいなかった。
 元就が言っていたように、すぐに春はやって来る。そうして一年が過ぎて再び秋がやって来た時、二人で美しい紅の世界を眺めることはできるだろうか。
 不安は尽きる無いが、それでも己は元就の傍らにいることを強く望んだ。できるできないの問題を越えて幸村自身がそうしたいのだから。

「此処から臨む空は相変わらず美しゅうございますね。西方十万億土の彼方まで見通せそうだ」
「ふっ、坊主のような物言いだ。だが確かに悪くはない。特に暮れる日輪はそなたのように眩しいよ」

 くすくすと忍び笑いを互いに漏らしながら、寄り添い合う二人は空を見上げた。薄青の空には灰色の雲が所々浮いている。晴天とまではいかない空模様だが、それが気にならないほど広場からの景色は良い。
 夜から天候が変わるだろうと幸村はぼんやり思う。出立の朝はきっと雨か、気温がもっと下がってしまえば雪が降るのかもしれない。どちらにしろ晴れやかな旅立ちとはいかない。
 誂え向きだ。出陣すると決めたのは己だが、決意するまでの過程は心苦しいものばかりだったのだから。
 幸村は唇を微かに噛み締めた。
 少しでも思考を明日へと傾けると、募る不安が何度も鎌首をもたげてくる。
 落ち着かせるように深呼吸した幸村は、抱えていた琵琶を胡坐の上に乗せて草原の上に座り直す。老樹に背を持たれかけ、静かに撥を握った。
 空へと解けていく音色に耳を傾けながら、隣で元就が瞼をそっと下ろした。
 物語を紡ぐ口元から漏れる息は既に白く染まっていた。冬がやって来るのだと、季節の流れは声も無く伝えてくる。冷えていく空気の中で、お互いの温度を分かち合うように寄り添う。触れ合う肩から生まれる熱が何故か痛かった。
 それから、夕暮れが訪れるまで二人はその場を動かなかった。

 落ちる時刻が早まった太陽は真っ赤に薄雲と空を染め上げて、一層強くなった斜光を彼らの頬に投げ掛ける。互いの姿が黄昏に浮かび上がり、背後に長い影を作り上げた。
 見回した世界は、橙色に輝いている。白い彼岸花が消えてしまい、西日に染め抜かれたようなあの赤はもう存在していないのだと改めて示される。
 元就へと視線を戻すと、彼は瞼を伏せて落日に向かい小さく手を合わせていた。
 初めて見る神聖な祈りの形を壊せるはずもなく、幸村は微かに息を呑んで元就をただ黙って見つめていた。

「こうして日輪へと合掌するのは、此処に来てから初めてだ」

 唖然としている幸村に気付いた元就は、太陽に一礼すると顔を上げて笑った。
 燦々と降り注ぐ日差しのせいだろうか。それがあんまりにも綺麗に思えて、幸村はどぎまぎとしながら慌てて顔を逸らしてしまう。
「な、何を祈られたのですか?」
 思わず上擦った声に焦りながら、幸村は尋ねてみた。
 深い意味の無かった問い掛けに起伏の乏しい元就の横顔が僅かに曇ったが、視線を彷徨わせていた幸村は気付かない。
 そんな彼を見つめながら、元就はもう一度小さく――耐えるように笑った。

「別に。昔の、習慣だったから」

 沈む前に一層輝きを放った太陽は、やがて山の向こう側に消えていった。
 元就はそれを横目で睨み付けるように一瞥すると、幸村の二の腕を掴んで自分の元へと引き寄せる。
 突然の事に瞠目した幸村だったが、元就らしくない行動に疑問を覚えて相手の名をおずおずと呼んでみた。

「毛利殿? どうかされましたか?」
「……幸村。そなたが我をどうしたいのか、分かっているつもりだ」

 重苦しく開けられた唇から告げられた言葉に、幸村の背筋は凍った。
 元就の肩を掴もうとしていた手は中途半端な位置で止まり、痙攣するように大きく震えている。
 見るからに強張り青褪めている幸村を見つめながらも、元就は吐き出すことを止めなかった。
 ――止めることなどできなかった。

「我を抱け」

 驚愕に満ちた幸村の顔を見上げてくる眼差しは、真っ直ぐで強い決意を伴っていた。
 それだけで聞き間違いでないのだと理解した幸村は、瞬きも忘れたまま元就を凝視し続ける。自分の反応が予想できていたのだろう、元就は戸惑うことなく視線を受け止めた。

「御自分が仰られている意味を、分かっておりますか」

 喉元からようやく絞り出した声は、案の定固かった。
 相手の真意が分からず困惑の方が先立つ。元就が嫌悪しているはずの情事の誘いを自らかけるなんて、幸村の中ではありえない話だった。
 触れたくて堪らない、でも目の前にあるあからさまな境界を越えてしまえば、安易に崩れ落ちる関係。暗闇の中でようやく手に入れる事の叶った彼の傍らという場所を、それは簡単に剥奪する。
 自分と彼を秤にかければ、無論重いのは元就の方で。だからこそずっと我慢してきたというのに。

「俺が貴方にしたいことだから、叶えようとしているのですか」
「違うっ!」

 強迫観念にも似たような義務感から思っているのならば、跳ね除けたかった。所詮自分が抱いている欲望の矛先は、あの忌むべき男と大差ない。感情の色が違えども、行なう行為は同じでしかないのだから。
 俯いてそんなことを考えた幸村は、すぐさま切り返された否定の声に驚いて顔を上げた。
 目の前の元就はもう冷静な顔をしていなかった。震えている幸村と同じくらいに真っ青になりながら、うまく動かない口を歪めて必死の形相で幸村を見ている。悲痛にも感じる元就の剥き出しの感情に、幸村は言葉を忘れてしまう。
 口付けの時の光景が、幸村の脳裏に過ぎった。
 掴まれたままの細い手はあの時と同じように強張っている。けれども突き放す素振りは見せず、逆に逃がさぬようにと頑なに握り締められていた。

「触れたいのは我の方だ! いつもいつも触れたくて、幸村を焼き付けておきたくて、そなたに問うことで理由を作っていた愚か者は我の方なのだ……っ」

 普段なら絶対に言わないだろう台詞に、幸村は体温が上がることを感じた。
 俯いた元就の震える肩が、寂しい、と喚いていた。いつも触れていた。感じていた。見ていたから、幸村は知っている。
 涙は流れていないけれど、明日の別れが寂しいと元就が泣いているのだ。

「毛利殿……触れたいのは、某も同じでござる。けれど、貴方の傷付けたくなんてない」
「嫌じゃない! そなたならば、幸村なら我は――」

 溢れ出してしまったものを取り戻すことなどできるはずもなく、振り切れた感情のまま元就は叫んだ。
 片方が堰切ってしまえば、もう片方もまた耐えられるはずもなく。
 先程から明日への不安を抱えていた幸村は、晒し出された元就の本音に引き摺られて胸に走った激情のまま彼を抱き締めた。極度に触れる事を禁じていたその身体を、失わぬように強く掻き抱く。

「それ以上仰らないで下さい」
「幸村……何故だ、何故駄目なのだ……」

 肩口に埋まった元就の顔から、微かな感触が伝わる。美しい眦が泣き出しそうに歪められてしまったのだと分かったが、幸村にはこれ以上元就の顔をまともに見ていられる自信はなかった。

「好きです。だから、もう何も言わないで。お願い致します……」

 波のように襲い来る劣情は、もう間際まで近付いている。
 元就に何か言われるだけで内側の魔物は表に出て来てしまいそうだ。
 だから口を開かせぬようきつく抱き締める。彼の匂いも、感触も、吐息の熱さも刻み込むように。どんなに離れていても、忘れないように――。
 黙ったまま動かなくなった元就に安堵し、幸村はほんの少しだけ腕の拘束を解いた。今にも暴れ出しそうな欲を波立てないよう、距離を置こうとしたのだ。
 弛んだ一瞬を付いて、元就は幸村から飛び退くように身体を離した。
 呆気に取られかけた幸村だったが、次の元就の行動には驚きを通り越して戸惑ってしまう。
 元就は幸村を見ることもなく、側に置いてあった荷物から竹で作った水筒を取り出して突然口に含んだ。口内を濯ぐようにした後、水を吐き出す。三度も四度もそれを繰り返し、咽た咳が漏れた。それでも決して止めようとはしない。
 元就の奇怪な行動の意図が読めず、幸村はただ見ていることしかできない。
 自分の水が無くなったらしい元就は、今度は幸村の分の水筒を手にとってやはり同じ事を続けた。我武者羅にも思える行為は狂気じみている。
 ぞっとして、ようやく幸村は元就の手首を掴んで止めさせた。
 だが水筒の中身は既に空となっており、元就は緩慢な動作で幸村に振り返る。
 一瞬思いつめた表情を浮かべた元就だったが、気が触れたかのような行動をしていたというのに真っ直ぐだった目に変わりない。

「毛利殿、一体何を――」

 ある種の不自然さを感じながらも紡がれた幸村の言葉の端は、吸い込まれるように消えていった。
 濡れた冷たい感触が、声を塞いだのだ。
 間違えようも無い。一度味わってしまった甘美な触れ合いは、燻る熱の中にいつだって存在していた。何度でも重ねたいと、幾度叶わぬ願望を抱いたのだろう。
 元就が自ら口付けている。
 拒否されたはずの行為が許されている。
 間近にある事実を本能が理解してしまうと、幸村にはもう自分を止める手立てなど残されていなかった。
 彼を抱かないための最後の砦は、元就自身の手で壊されてしまった。
 だから――もう、無理だ。

 項に手を滑らせ、幸村は元就を引き寄せた。重ねるだけだった唇をより深く繋がれ、呼吸が徐々に荒くなる。水を含んだために冷えていた粘膜を温めるように舌を這わせ、貪欲なまでに彼の内側を絡め取っていく。
 それでも元就は拒まなかった。
 崩れ落ちる理性の音を聞きながら、幸村は元就の身体をその場に傾けていった。

 西の空から漏れていた僅かばかりの光が、薄くなり途絶えていく。風に煽られた雲は夜と共に空を覆い始め、ざわめく森は何かを隠すように身体を揺さぶりって木の葉を撒き散らした。
 そして訪れた未明。
 雪が降り出し、山の季節は本格的に冬を迎える。



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(2008/05/12)



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