04 さよならはいえなくて
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もうすぐ暦上での冬を迎える山々は紅に色づき、葉の命が燃え尽きるように散っていく。
元就は部屋の中から森を眺め、嘆息を一つ吐き出す。
自分達の暮らす古寺も例外なく、時折吹き込む隙間風が随分と肌寒くなっている。季節柄か雨もよく降り、幸村と出会った雨期のある日を思い起こさせた。
今朝から天候は冴えないが、山中に広がる独特の雨の気配は感じられなかった。もしかすると夕方から夜にかけて晴れるのかもしれない。
木々から目を放した元就は、庭先で鍛練を続けている幸村へと視線を滑らせた。
半兵衛の部下から届けられた具足を身に付け、朝から晩まで幸村は修行を積んでいる。最初の頃は萎えた身体が武具の重さで悲鳴を上げていたものの、今ではようやく以前と同じくらいには動けるようになった。
だが、一度は敗走している織田と戦うには前以上に腕を磨かなくてはならないと、幸村は決めていた。武田の残党を率いて真田の遺児として戦場に立つ以上、幸村の戦いは元就のためだけではない。仇を必ず取らなければならないのだから、負けることは決して許されないのだ。
(だが幸村には……)
元就は風を切る音に目を細めながら、幸村の手元を見る。
無心で同じ動きを繰り返すその手には、馴染み深い彼の愛槍が握られていた。
身に付けているのは以前とは違う白と赤を基調とした具足だったが、届けられた武器は半兵衛自身が長篠へ出向いた際に偶然見つけたという、正真正銘幸村の使っていた槍だった。
至近距離で打ち合いしたからなのか、元就は良く覚えている。
それが、二つで一つだったということも。
険しい表情で槍を振るう幸村に、元就は苦い思いが広がることを感じる。
二つで対となり幸村と共に数多の戦場を駆けてきた槍は、唯一無二の片割れを失っていた。
まるで生き残った幸村と、影武者として死んだ信幸を暗に示しているようだ。どうしても見つからなかったらしいと具足を運んできた者が教えてくれた時、幸村は何とも言いがたい顔をしたまま、槍を受け取った手を堅く握って立ち尽くした。
彼の兄はこの槍を持って大軍と対峙している。見つからない片方は、今も信幸の亡骸の側で共に眠っているのだろうか。
受け取った時は揺らいでいた幸村だが、今ではこうして真剣な目付きで精神を全て槍に注いでいる。二槍流の戦い方に慣れ親しんでいた彼にとって、片側が欠けただけでも攻守の均衡は崩れてしまう。二つを用いることで使えた戦法の幅も、大きく狭まっているだろう。
かつて輪刀を扱っていた元就には、その差の違いがよく分かる。
片方だけ戻ってきた兄の形見にも近い槍で、仇を討つため、自分を半兵衛から解放するため、昔よりも強くならなければいけないと誓った幸村。
圧し掛かる重圧は決して軽くないというのに、幸村は決して弱音を一切吐かなかった。
ある意味機械的にこなされる鍛錬を見ていれば、彼にとって戦いに関する事柄は全て、鼓動を刻むように自然な事なのだと嫌でも気付かされる。寧ろ、それらと触れ合っていなかった今までの日々の方こそが不自然だったのだ。
鼓動が止んでしまえば、命の灯火は消える。
幸村から戦いを剥奪してしまえば、きっと文字通り彼は死ぬのではないだろうか。
彼が自分の側にいたいと真に願っていることを知っているというのに、元就にはそう思えて仕方がなかった。
居所が知れてしまったため、元就の分だけ運ばれていた食料は予想通り二人分に増やされ、幸村は朝昼晩と良く食べ夜が訪れるとすぐに寝る生活を送っている。一刻も早く、以前と同じかそれ以上の体力を取り戻したいのだろう。
幸村は己の活動時間の殆どをこれからの戦のために注いでいる。彼自身は意図しているわけではないのだろうが、他愛の無い会話をしていた時間が極端に減ったことに元就は気付いていた。
別にその事に対して何か思うわけではない。
けれども自分と同じように病的だった肌の色が、彼本来が持つ生気の漲るものへと変化していく様を見て、何度も考えてしまう。
幸村は、紛れも無く戦場で生きる男だ。
この混乱した時代に生れ落ちた戦国の申し子であるのだと、否応もなく元就にそれを突き付ける。
彼にとって武器を握るのは、呼吸をしていることと同意義。
己が策を講じて暗躍を重ね、国を守ってきたことと同じように。
――誰かのために生きていかなければ、死んでいるのと同じ事だというように。
浮かんできた暗い思いを掻き消すように首を振った元就は、止まったままの写経を一瞥して立ち上がる。庭先ばかりに気を捉えていてはやっても意味が無い。
開きっ放しの戸から縁側に出て、いつの間にか槍から脇差に持ち替えていた幸村を見やる。
彼が刀を使う所はあまり見た覚えがなく、新鮮に映った。二本の槍をあれほど巧みに使っていたのだから、獲物が変わっても幸村の動きは滞ることはない。いつもより短い間合いを想像しながら、彼は滑るように脇差を振りかざした。
幸村の動きは日毎に精錬されて、一種の芸術品の完成を待つような心持ちにさせられる。
この時も、元就は思わずかけようとした声を一瞬失いかけていた。
「幸村、そろそろ夕餉だ。休め」
元就は幸村が大きく息を吐き出したことに気付き、ようやく声をかける。
根を詰めすぎても失った体力だけは早々戻らないのだが、気が急いている幸村はこうして声をかけない限り休もうとしない。誰に言われたわけでもないのだが、こうして元就は頃合を見計らい休憩を促していた。
呼びかけに気付いた幸村は、屈託の無い笑みを浮かべて武器を納めた。
真剣に集中している時の彼の横顔は時々別人のように感じてしまうが、自分の声に反応して表情を変える様子を改めて見るたびに、ここにいるのは幸村なのだと無様なほど安堵する己を元就は知っている。
何処に行こうと何処へ還ろうと、自分の中の幸村はきっと変わらない。
花畑で幸村がくれた真実が確かに存在する限り、元就の抱えた彼への想いもまた消えないだろうと信じてしまえたから。今まで誰も信頼なんてしたことがなかったというのに、決して偽らないと誓った幸村を、信じたいと思ってしまったから――。
一通りの鍛錬を終えた幸村は、裏手の井戸で汗ばんだ身体を拭いていた。
暦上では既に冬へと差し掛かりかけている。寒風に晒されて風邪でもひいては堪らない為、鍛錬後には必ずここで着替えることにしている。
傍にいつもいた忍には特に口煩く言われていたから、武田にいた頃からの習慣にもなっていた。
ふとした拍子に思い出す栄光の時代を懐かしむように、幸村は目を細めてじっと水面に映りこんだ自分の顔を見下ろす。
信玄や佐助と共に、誰よりも付かず離れずの場所で自分を見守ってくれていた兄と同じ造形。しかしどれだけ似ていようとも、自分達は同一の存在ではない。無理やり笑いかけてみても、そこにあるのは兄とは全く違う人間の荒んだ笑みのみ。
――どちらもが誰からも褒め称えられていた“真田幸村”であったのに、自分は彼のように優しくなんてなれない。
存在を喰らって生きてきた罪悪感が幸村の中にあるように、信幸もまた幸村へ存在を奪われた憎しみがあったはずだ。
けれども最後の別れの際、兄は確かに言った。
源二郎、と変わらない穏やかな声音で呼びかけて笑ってくれた。
守らなくてはならない大切な人だったというのに、ずっと傷付けて自分の居場所にしがみつくのが精一杯だった己などよりもずっと強い彼は、確かに兄という存在だったのだ。
今ならばきっと、他の誰が何と言おうとも真っ直ぐに言い返せる。
真田信幸は自分のたった一人の兄上なのだと。
「幸村?」
ぼんやりと井戸を見つめていたことを不審に思ったのだろう。夕食の膳を部屋へと運んでいた元就が、濡縁から声をかけてきた。
はっとして顔を上げた幸村は何でもないと首を振り、肌蹴ていた上半身を慌てて繕った。
戦装束から袈裟に着替えると、幸村は井戸に立てかけてあった槍と刀を拾い上げる。一振りとなってしまった双槍の片割れに哀惜の念を馳せながらも、振り切るように幸村は自分を呼ぶ人の元へと駆けて行った。
二人きりの夕食の席でいつものように言葉少ないながらも会話をしていると、元就は幸村が先程から歯切れの悪い返答ばかりしていることに気付いた。
思わず眉を寄せてしまうと、怒らせたのかと勘違いした幸村が焦ったように謝罪する。
だが元就は別に謝罪が聞きたいわけではない。言い難そうに視線をうろつかせる幸村のじれったさに溜息を付いた。
「よい、詮索はせぬ。どうせまた詮無き事を考えておるのだろう」
少しだけ呆れたような口振りに、幸村はさらに焦ってしまった。
言いたくないわけではない。元就へと隠し事をするのは絶対にできないと幸村は自分自身で分かっている。
それでも中々口にできないのは、元就にこの話題を話して良いものか迷うからである。
元就は幸村に強いることがない。だから自分から話さなければ彼は無理に聞こうとはしないだろう。幸村が望もうと望まずとも、それが元就なりの気遣いだった。
始めの内はその上でただ甘やかされてきたばかりだったが、幸村は一人で我儘を貫くことを決めた。
――元就の側にいたい、彼が何処となりへでも行けと言うのならば此処にいたい。
だからこそ武器を手に取り、半ば怯えていた戦場への復帰も躊躇なく決意した。元就を守りたいと願うのは自分自身の勝手な欲求に従っているだけだ。様々なことを隠したまま元就の言葉の上に胡坐を掻いて逃げるだけなんて、もう嫌だったから。
傷付けることを恐れていて聞かないままにしていても、いつかその因果が巡ってくるだけだ。言葉を闇に葬れども、自分の中に生まれてしまったものは消せない必ず居座るのだから。
一度深呼吸をした幸村は、箸を置いて元就の方へと向き直った。
毛利殿には、と前置きを呟いてから僅かに逡巡を見せるものの、決心したように逸らしていた目を上げる。
「兄上が、おられたのですよね」
「……突然どうした」
恐々と紡がれたものに瞠目した元就は、手に持っていた器を膳へと下ろして幸村を見る。
幸村には一度だけ話したきりだが――元就はあまりその時の事を思い出したくなかった。肉体的にも精神的にも最悪だったあの日は、幸村との間にあった妙な距離間を失くすためには必要な時間だったのだろうと今ならば思えるが、それにしても自分の状態は酷かった。
他人に汚された身体を幸村に拭ってもらい、あまつさえその腕の中で泣いた。溜まりに溜まってきた自分の闇を、寂しいといって喚いていた幼き男に抱き締められて吐露するなど、かつての自分であれば許すはずもなかっただろうに。
夕焼けに染まる花畑の中で、一度きり吐き出したものを幸村は大切に覚えているのだろう。彼はそういう男なのだ。
「稽古をして槍を握っていると、不意に武田での日々や兄上を思い出すのです。けれど兄上がどんな御顔をなさっておられたのかは覚えているというのに、自分がどうだったか……」
困ったように幸村は笑う。この顔とて自嘲じみた歪な笑みだろうと、映す物がなくとも分かる。
幸せだったけれど何処か滑稽で歪んでいたあの頃、真田幸村として日の下に出ていた自分はどう笑っていただろう。騒がしくて優しい毎日の中に溺れて、自分の影へと視線を投げるものの手を伸ばすことはできなかった。
そして面と向かって分かり合うことがないまま、幸村は地獄を味わった。
哀しみはすれども、元就と出会えた偶然に対して後悔はない。
けれどこの十文字槍が現世を生きていた幸村の証拠となる以上、もう片方を持ったままいなくなってしまった兄を忘れる事なぞあってはならないのだ。
幸村はもう自分自身の足で進むことを選んだが、それでも信幸がいたからこそ此処にいるのだから。
「信幸殿は笑っていたか」
口を閉ざしてしまった幸村はこくりと頭を上下させる。
元就はふっと息を付き、遠い日の思い出を手繰り寄せるように目を細めた。
「ならばきっと、幸村が笑っていたからだろう」
「……そういうものでございましょうか」
珍しく断定的に言う元就に驚き、幸村は小首を傾げる。
元就は意味深に小さく微笑み、自然な仕草で幸村の頭を軽く撫でた。
子供に対するようなそれに慌てて困惑したような声を上げた幸村だったが、相手の面差しが酷く穏やかで哀しいくらいに優美に映り、何も言えないまま噤むことしかできなかった。
そういえば自分の髪の色は元就と似ている。彼の縁者を彷彿とさせる起因くらいにはなるのだろう。身代わりとして見ているわけではないとは分かっていたが、自分を通して元就が違う世界を思い浮かべていると考えてしまうと暗い気持ちが過ぎる。
沈んだ顔になってしまったことに気付いたのだろう。
幸村の頭からそっと手を外した元就は、逸らされていた彼の目をじっと見つめた。
「馬鹿なことをまた考えているな」
槍を構えている時は獰猛な獣の面差しをしているというのに、泣くのを耐えている子供のように顔を歪ませている幸村に元就は思わず失笑する。
自覚があるのか無いのか。
寂しさを紛らわすよう戯れにも似た衝動から拾っただけの無力な己に、それでも精一杯くれた眩しいものが幸村にはあるというのに。こんな闇ばかりが続く血に汚れた檻の中を灯してくれた小さな炎を彼は持っているというのに。
――彼自身が気付かぬまま与えてくれたものだったからこそ、自分は惹かれてしまったのだろうが。
「幸村、笑っていろと申したはずだ。信幸殿もそれを好ましく思っていたからこそ、最期の瞬間までそなたを憎まずにいられたのだろう」
あ、と呟いた幸村が大きな瞳をさらに見開かせた。
彼の中で合点がいったことを確認すると、元就は食事を再開した。隣で質素な皿を見下ろしていた幸村はむず痒い喜びと悔いても最早どうにもならない喪失感を噛み締めているのだろう。膝の上に置かれていた拳が少しだけ震えていた。
箸を動かしながら元就は自分の兄を思い浮かべた。
本当に幼かった頃しか遊んだ記憶は無い。それでも遠く離れた場所にいた兄からの手紙は、とても大事な物だった気がする。だが当時から自分のことで精一杯だった元就は兄が父と同じく酒害にかかっていた事に気付けなかった。
ほんの時々顔を合わせれば、兄はいつも元就を気遣って笑っていたから家臣からの知らせを聞くまで全く知らなかった。知らせを聞いた時はもう手遅れで、ようやく迎えに行けた元就は兄の遺骸と再会することとなった。
あの時の無念さは、今でも重苦しく元就の中に居座っている。
もっと話ができれば助けられたのかもしれない。自分が不甲斐無ければ、毛利を支えられる器量があれば――。
自分の時はあの日から止まっているのだろうか。兄の身代わりにならなければいけないと半ば強迫観念に駆られて、毛利の駒として必死に演じ続けていた。
だがそんな毛利元就≠ヘ結局不要となった。
毛利家そのものに裏切られた元就の中に残ったのは絶望感と、それを上回る虚無感のみ。生きる意味を失くした人形はただ螺旋が止まる日を待つだけで、何の感情も浮かばないまま閉じ込められるだけだった。
――幸村の温かさと触れ合うまでは。
「毛利殿」
「なんだ」
不安げだった幸村の声に芯が戻る。
元就は最後の一口を飲み下して椀を置いた。
「今宵は一曲、聞いて頂きとうございます」
「ああ、構わぬ。今日はそんなことで良いのか?」
幸村の部屋に立てかけられている琵琶を眺め、元就は頷いた。
日に一度、幸村にして欲しい願いを尋ねるようにしていたが、弾いて欲しいではなく聞いて欲しいとは、彼らしい選択だと忍び笑いを漏らす。
一度は弾かなくなった楽を幸村が率先して練習したのは元就への慰めだった。以前は敵同士で接点など皆無であった二人にとって共通の話題などそれくらいしかなく、ましてや盲目だった幸村が家事を手伝えるわけがなく、必死で自分のできることを探した結果がこれだった。
今となっては守られているのは元就の方で、無力な自分から目を逸らすために幸村にしてやれることを毎日探している。
これではどちらがどちらのためにやっているか分からないではないか。
複雑な顔をした元就の手を取り、幸村は立ち上がった。
「毛利殿だから聞いて欲しいのです。貴方が笑っているだけで某は幸せでございます」
琵琶を掴んだ幸村が振り向き様に微笑んだ。
それは、元就が誰よりも望んだ太陽のような笑顔だった。
その温かな光によって引き出された小さな微笑もまた、幸村にとっては掛け替えの無い道標にも等しいものであるのだが、元就にその自覚は薄いらしい。
救われているのはお互いだというのに、真実を貫く理由を見つけ出した幸村と違って元就は何か急かされるように自分のできることを探し続けていた。
そうして今日も、元就は幸村に尋ねる。
「何かして欲しいことはないか?」
「ですから、毛利殿……某には多く望む物などありませぬ。こうして貴方と共にあればそれで構わない」
困ったように頬を掻いた幸村は、縁側に腰掛けた元就の隣に座った。
目が見えるようになったことが分かってから――互いの本心をぶつけ合ってから、元就はこうして毎日一度幸村に尋ねるのが日課だった。
ずっと幸村の世話をしていたため手持ち無沙汰であるのも理由の一つだが、自分を守るために戦へ出向く彼への小さな反発でもある。
一方的に守られるなんて、微かに残る自尊心が震えて仕方ないのだ。
けれど毎日返ってくる第一声はほぼ決まっており、出会ったばかりの頃からずっと変わらない望みだけ。思わず眉を顰めると不満げに見えたのか、幸村がますます困ったように首を傾ける。
多くを望もうとしない幸村はそれでも、やがて来る一時の別れを惜しむかのように元就の問いに対して小さな願いを求めてくれた。手を繋ぎたいとか髪を触りたいだとか、それは本当に些細なものだったけれど――幸村は知らないが、元就にとっては重要な儀式だった。
強制的に言わせているわけではないが、迫った訊き方をすれば幸村は必ず答えてくれると確信している時点で自分は何て愚かなのだろうと元就は心の中で自嘲する。
貪欲なのは、寧ろ自分。
目を瞑って考えている幸村の顔を見つめながら、元就は胸元を握り込んだ。
焦っているという自覚はあった。やることがないから、自尊心の問題があるからなんて。所詮言い訳にしか過ぎない。
幸村に繋がる記憶が、彼と同じ時間を共有していた事実が、ただ欲しいだけなのだ。
こうして隣にいられる日も残り少ない。いつか会えると夢見ることの出来る未来さえも、自分には――。
元就は相手に気付かれぬよう深呼吸をしてみた。冷たくなった空気が喉の粘膜を逆撫で、小さく咳き込む。季節の流れをその身で感じながら、元就は瞼を伏せた。
時間が止まれば良いだなんて高慢にはなれない。
それでも未練がましい想いに引き摺られてしまうのは、自分もまた壊れた世界で出会ってしまった彼の手を。放したくないと奥底で喚いているからだ。
貴方だからこそ側にいたいと初めて望んでくれた幸村の傍らに、自分こそがまだ立っていたいのだと気付いてしまったから。
一瞬でも長く、幸村の笑顔を焼き付けていたいのだと。
元就は閉じかけていた瞳を開き、隣に座る幸村へと視線を戻す。微かに紅潮した幸村が、恥ずかしそうに俯いていた。
「あの、最近は疲れていて夢も見ないのですが、そのぅ……」
「また一緒に寝たいのか?」
口を開閉しながら逡巡している幸村の言葉の続きを言ってみれば、案の定彼はさらに俯いた。耳まで赤くなっている。
忍び笑いを漏らしながら元就が了承の意を示せば、幸村は喜びや照れを混ぜたような笑顔を浮かべ、逃げるように再び庭先へと行ってしまった。
それを元就は、眩しげに見つめる。
胸元を押さえていた拳が無意識の内に、一層強く握られていた。
繋いだ幸村の手は緊張しているのか、ひんやりと冷たい。
そういえば彼の視界が戻ってから同じ部屋で寝るのは初めてだ。元就は明かりを消した部屋で横になってから気が付いた。
最初のうちは嬉しそうにしていた幸村も、今は布団の中で心底困った様子でこちらを見ている。
暗がりの中で見つめ合うのも何だか馬鹿らしい。
元就は溜息を吐き出して、布団と布団の間で互いに握られたまま硬直していた手をゆっくりと畳へ下ろす。力を抜いていくと幸村も少しだけ握力を和らげた。
「何だか変な感じでござる」
「前と同じだろう?」
はにかむ幸村の瞳を覗き込めば、忍び笑いを漏らす自身の顔と目が合った。
表情の豊かな茶色の虹彩にはこんな風に自分が映されているのだろうかと、くすぐったいような奇妙な感覚に陥る。
自分を懸想していると彼に告げられたからか。真っ直ぐと見つめていてくれることを知ったからか。それとも今の己の瞳に“真田幸村”だけが映っている事実に、自覚という形で気付いてしまったからだろうか。
幸村の目が治ることに恐れながらも、どうしてだか自分を見て欲しいと思う心があったほんの少し前が遠い日のように思える。
まどろんでいく意識の中、元就は祈るように瞼を下ろした。
不安や焦燥は様々に浮かぶものの、今はとても幸せなのだろう。至福の時というものが自分にはよく分からないけれど、きっと寂しさが理解できたこの胸はそう感じているはずだ。
幸村と出会えたからこそ知った、彼の事も自分の事も――奈落の底で繋いだ手の温かさも忘れたくない。
心震えた瞬間を、抱き締めあった感触を覚えていたかった。
だからこそ、不思議と怖いとは感じなかったのかもしれない。
静まり返った深夜。
誰の視線に気付いてふと目が覚めた元就は、はっきりと覚醒しないまま薄目を開いた。
狭い視界が捉えたのは、こちらをじっと眺めている双眸。耐えるように歪んだ表情を浮かべながら、じっとりと絡みつく重苦しい視線が隣の布団の影から送られている。
その意味を、元就は瞬時に理解できた。
こんな目で見られたことが一度や二度ではないのだ。嫌悪と屈辱に塗れた恐怖を伴う責め苦の中で、何度も焼き焦がされるように見つめられた。
情欲に濡れた瞳。相手を奪い尽くすような剣呑な色を灯しながら、思いつめたような泣き出しそうな顔をしていて。
――幸村が、行為を強いる時のあの男と同じ目をしている。
予想していなかったわけではない。赤い海での告白を聞いた際にはっきりとは言われなかったが、幸村は自分を抱きたいのだと薄々感じていた。芽生えた恋情が本来ならば男女間で交わされるものだと、気付いてしまったから。
だからといって一方的に犯されることに慣れてしまった心身は、自分の心境とは別次元で拒否反応を示すだろうと思っていた。
けれど背筋が僅かに震えたのは恐れなどではなく、歓喜にも近い感情。湧き上がるのは、ほんの少しの悲しさと浅ましい想い。自己嫌悪するよりも先に、求めてしまう愚かな願いだった。
余す所無く彼と触れ合えば、ずっと忘れないでいられる。最期の瞬間まできっと、幸村の感触を覚えていられるはずだ。
そして、幸村も自分の事を少しでも長く覚えていてくれるのかもしれない。
たとえ二度と会える事がなくとも。
(……竹中と同じなのは、我の方か)
口付けを拒まなくてはならなかったように、本来ならばこれ以上触れ合ってしまえばやがては破滅だけが待っている。
駄目だと何度も言い聞かせていた。あってはいけないことなのだと、堅く心に鍵をかけた。
だから、分かっていたはずなのに。
それでも求めようと足掻いてしまうなんて無様だと、せせら笑えた以前の自分はもう何処にもいない。無理やり含まされた毒の痛みを知ってしまったから。知りたくもなかったあの男の気持ちが、少しだけ理解出来てしまったから――。
忘却こそが一番怖いと笑っていた仮面の男の後姿が、脳裏に過ぎって消えていった。
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(2008/04/24)
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