03 君の笑顔と赤い花畑
- 6 -
まどろみから覚めて初めに感じるのは、いつも身体の痛みだった。
見上げる天井から視線を這わせると、すぐに探していた男が見つかる。――本当に探したい相手は、見当たらなかった。
「貴様、気付いていたな」
着替えを済ませた半兵衛が振り返り、愛想笑いを元就へ返す。
半兵衛は近付いてきた幸村の気配に気付き、睦言交じりで元就が隠そうとしていた事実を彼に突き付けたのだ。
あの時の言葉を失った幸村の姿は、脳裏に焼き付いている。
驚愕を通り越して呆然としていた眼差し。
幸村の目は、確かに見えていた。
自分が何者か知られて、たとえ嫌われたとしても構わなかったというのに。よりによって最も知られたくない姿を、あの清廉とした瞳は映し出してしまった。
心身ともに穢れきった己を知って、彼は何を思っただろうか。
――答えなんて分かりきっている。
次の瞬間、憤怒の業火で歪んだ幸村の目を見た。この生活を始めてから、柔らかな感情か或いは怯えた表情しか向けてこなかった彼が見せた、明らかな殺意の一片。
侮蔑されるのは当然だ。
あの場に太刀があったのならば、斬られていたかもしれない。
それくらい自分は、幸村を傷付けた。
一人になることをあんなにも怖がっていた子供を、手酷い形で裏切ったのだから。
「隠居暮らしに感化され過ぎたのかな。気配がまるで消せていなかったよ。あれじゃ、戦場に立てば死ぬかもね」
詰め寄る元就に、半兵衛は仮面を付けながらまだ身を起こせない彼の側へと座り直す。節々が痛むだろう相手へ労わるように手を伸ばす。
それもすぐさま振り払われて、半兵衛は苦笑した。
「元就君。僕が昨夜言ったことは事実でしかない。君の傍にいると、彼はいつか死ぬよ。そして僕も、自分の所有物を横から勝手に攫っていく者にそれほど寛容じゃない」
分かっているだろう、と尋ねるように半兵衛は元就と視線を合わせた。
有無を言わせないような双眸を、元就は黙って受け止める。
半兵衛の言葉は彼の言うとおり真実だ。現実を目の当たりにしている元就には、反論の術さえ残されていない。
「真田幸村が戦場に出ないと選ぶなら、僕は彼を殺すよ。それが僕なりの武士としての情けだ」
「竹中……」
棘の含まれぬ戸惑いのない声音を聞くのは久しぶりだ。半兵衛の純粋たる決意を垣間見るたびに、狂気に彩られながら儘ならない世界を恨む彼が、それでも諦めようとしない夢の欠片を大事に抱いているのだと突き付けられる。
幸村の奥底で今も消えてはいない、本来ならば眩しいほどの焔と同じように。
口を閉ざしたままの元就に、珍しく穏やかな微笑みを投げ掛けながら半兵衛は長く伸びた彼の前髪をそっと撫ぜる。
今度は振り払われなかった。
「少し喋り過ぎたね。……ねぇ、君自身はどうしたい?」
困ったように眉を下げて首を微かに振った半兵衛は、決して叶えられないだろう元就の望みをあえて尋ねた。
一瞬だけ言葉に詰まった元就は、自分の両手を見下ろす。
綺麗な手ではない。
誰かの血で汚れて、自分の血で汚れて、冷たい者ばかりに触れてきた手。真っ赤だった色は酸化して黒ずんで、どれだけ洗ったとしても剥がれはしない。
こんな手を掴もうとするのは、地獄へ手招く死者ばかりだと思っていた。目の前にいる男のように、何処までも深い場所へ引き摺り落とそう伸ばしてくるのだと。
生きたいからと無我夢中で掴まれた彼の手は、どうだっただろう。
熱さも冷たさも分からないほど曖昧な温度で伸ばされた、幸村の手は自分にとって――。
「我が何を思おうが、奴はもう戻らぬ。我が毛利元就だと、貴様如きに明け渡す浅ましき身だと知られたからにはな」
浮かんだ彼の笑顔が霞んでいく。
押し殺した自嘲を浮かべた元就は、黙々と見繕いを始める。
半兵衛は嗤わない。口を閉ざしたまま、触れていた彼の髪から指を外した。
奪った者と奪われた者という相対する立場にいる二人にしては、やけに静かな空気が流れていった。
元就がようやく帯を締めて袂をきちんと合わせた頃、不意に部屋の前に誰かが立っている気配がした。
何者かなんて問わずにも分かってしまう。それはまさしく昨晩と同じ光景だったのだから。
ゆっくりと開かれた戸の向こう側にいるのは、帰ってこないはずの男。
朝露に濡れた髪をそのままに、幸村が佇んでいた。
一晩中外にいただろう幸村は、今まで何を考えていたのだろうか。
これから紡ぎ出されるだろう離別の言葉を待ちながら、元就は彼を凝視することしか出来なかった。
「竹中半兵衛殿」
堅く閉ざされていた口元から、擦れた声音が吐き出された。
鬼気迫る目で睨まれていることに気付いている半兵衛は、余裕の態度を崩すことなく相手の言葉を待った。
「貴殿の提案を敢えて受け入れる」
だが、と幸村は続けた。
俯き加減の元就へと視線を這わせ、それから再び半兵衛を見下ろす。
武田軍の中で戦っていた頃は朗々と響いていただろう幸村の声は、かつてとは比べ物にならないほど低く押し殺されている。感情を隠すことさえも知らない幼い男だと感じていたのが嘘のように、彼の口調は淡々と抑揚がない。見上げる若い面差しもまた、無表情に程近い。
けれど半兵衛は自分の背に、冷たい汗が流れていったことを感じていた。
昨夜よりも一層強い威圧感。
再び粟立った肌を手袋の下に隠し、半兵衛はひっそりと唇で弧を描いた。
自分が求めているのは、人を確かに殺すことのできる鋭い輝きを放つ刀。怯えて隠れて、役目を果たせない錆びた刃だと思ったのはやはり間違いだったらしい。
視線だけで相手を燃やし尽くすようなこの猛々しい炎こそが、理想を叶えるために必要な礎となるのだ。
「この御方に、二度と触れるな」
幸村の目には揺ぎ無い決意と共に、昨夜と同じ暗い色が宿っている。
半兵衛はこくりと喉を上下させ、そして嘲笑うように口元を大きく歪ませた。自分の望みどおりに揃った布石を満足するかのように。
「良いだろう。豊臣に誓って約束するよ。君が従軍している間は、何もしないでいてあげよう」
醜い笑みを仮面で隠しながら、半兵衛はすっと立ち上がる。
揚げ足を取るような台詞をわざと投げたが、幸村の佇まいはぶれない。だが寒気のするような彼の眼差しが、更にきつく半兵衛を睨んだ。
無言の圧力の意図を正確に察し、半兵衛は込み上げてくる笑いを耐える。
「その後は君の努力次第。君の刃がちゃんと斬れるかどうか、見極めてからだよ」
両手をひらりと振り、半兵衛は部屋を出て行く。
横目でじっと挙動を見つめている幸村の隣を横切り、振り返ることなく廊下を歩き出した。
「部下に具足と武器を届けさせよう。迎えに来るまでに昔の感覚を取り戻しておいて欲しい。萎えた身体じゃ使い物にならないからね」
そう言って二人の前から去った半兵衛は、寺の階段を下りながら自分の右手を握りこむ。
数々の死線を潜ってきた彼が、本能的な恐怖を感じたのは久しぶりだった。同時に、こんなにも高揚感を抱くのもいつの日ぶりだろうか。
「虎の巣を突付いた気分だね……」
思わず漏れてしまった独り言に苦笑しながら、半兵衛は山を降っていった。
手の震えは、いまだ止まる様子を見せない。
「貴様、何故戻ってきた! 何故あのようなことを言った!」
二人の会話を絶句したまま聞いていた元就は、部屋に残された沈黙に耐え切れず幸村に掴みかかった。
彼の選択に憤ったのではない。
視力が治ったというのに、自分が毛利元就だと知ったというのに、この場所へ戻ってきてしまった幸村。戦場へ帰るというのなら、全て失くした彼の身がせめて自由であれば良いのにと願っていた。
なのに。
幸村はよりにもよって最も忌々しく思っていた元就という枷をつけて、他人の覇道を築く舞台へと操り人形の如く上がることを選んでしまった。
幸村が何を選ぼうと、意見できる立場ではないとずっと己に言い聞かせていた。
だがそうして現れた答えは、一番見たくない現実。
耐えていた物が噴き出すように、元就は幸村へととうとう詰め寄ってしまった。
「昨夜の事で分かったのだろう? 我は貴様とは所詮相容れぬ者だ。黙ってあのまま何処ぞへ去れば、茶番劇になぞ付き合わなくとも貴様は自由になれたというのに」
「――承知しておりました」
冷たかったはずの幸村の声は、穏やかだった。
早口で半ば叫ぶように捲くし立てていた元就は、やけにはっきりと彼の言葉を耳にして顔を上げる。
昨晩放っていた殺気など微塵も感じられない優しげな面差しを浮かべながら、幸村が少し哀しげに微笑んでいた。
「貴方が毛利元就だと知りながら、某は貴方を慕う心を捨てられなかったのです」
嘘だと呟きながら震えた元就の身体を、幸村はきつく抱き締める。
しっとりと濡れた布越しに触れるその体温は、記憶にある感触と微塵も違わなくて。自分の知っている幸村と、何も変わらなくて。
元就は、つんと込み上げる熱い何かの感覚を知った。
Next→
(2008/03/12)
←Back