03 君の笑顔と赤い花畑


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 自分の不安な気持ちばかりをぶつけても、元就はいつもと同じだった。
 そう装おうと彼もまた必死だったのだろう。最後に握ってくれた薄い掌が緊張していたのか、普段よりも冷たく感じられた。
 あのまま無言で離れて行った背中は、幸村に隠れているようにと切に願うもので。
 薄々気付いていたが、やはり夜に来るはずだった客人は竹中半兵衛であったのだと確信する。
 そして己の存在が、彼の負担になっていることもはっきりと分かってしまった。

 幸村は元就を見送った後、本堂へは戻らなかった。
 古寺を囲む壊れかけの塀の隙間から抜け出し、自分が拾われただろう森の中を当ても無く歩き続ける。
 鬱蒼と生い茂っていたはずの木々は既に暮れ色に染まり、やがて全ての葉が朽ちていくだろう。幸村が歩を進めるたびに、足元で乾いた音がした。
 まるで、彼と自分の関係のようだ。
 光を求めてもがいた後は、こうして地に落ちるだけ。朽ち葉は根を覆い、冬の間に眠る木を養い守るのだと昔教わった。
 だとすれば、身を呈して枝と別れを告げる葉は一体どちらなのだろう。そして一人残されて冬を越していかなければならない広葉樹は、彼なのか、自分なのか。
 脳裏に掠めた雪原に佇む誰かの姿を、掻き消すように幸村は首を振った。
 先程抱き締めて確認したはずの彼の体温は、幻ではなかった。元就は生きている。生きて、自分の側にいてくれる。
 ――今は、まだ。
 ぶり返してくる恐慌を無理やりにでも引き剥がし、幸村は立ち止まりかけていた足を再び動かし始める。
 考えなくてはいけないことは、元就の事ばかりではないのだ。
 ずっと今まで見ないふりをし続けていた、沢山の人達から託されたもの。それを清算しなければならない時期が来た。
 武田の虎和子、真田の遺児。
 どちらの名も幸村にとっては大切な物を、彼の中に大きく残している。
 いまだに幸村を蝕む暗い記憶や、癒えない傷痕だけではない。信玄から教えられた炎の意志も、信幸に託された願いも、佐助がくれた存在の証明も――大勢の仲間達から与えられた居場所も、紙一重の愛憎のように重苦しい呪縛と同じく鮮やかに刻まれている。
 生きろと言った彼らは、山に引き篭もりただ一人に縋って現実を直視しようとしない自分をどう思うだろうか。
 確かに命はここにある。けれど彼らがそれぞれ呼んだ幸村という男が、はたして生きていると言えるのか。

「そう考えるからには、某自身感じておるのであろうな」

 浮かんだ疑問に、幸村は自嘲した。
 今の己が、あれほど執着していた“真田幸村”から程遠いと分かっている。
 それでもここにいる幸村は他の誰でもない。伝心月叟と名を改めても、決して今までの自分を消し去ることはできないのだから。
 やがて視界が開け、白い海が広がった。
 呆気に取られた幸村は、思わず何度か目を瞬く。
 一面の花畑はこの世のものでは無いように思える。まるで常世へ渡る川の先にあるという、美しき花の楽園のようだ。
 群生しているこの花は何処かで見た気がするが、戦ばかりに駆り出されていた毎日の中で草花を愛でる機会は極端に減っていたためか、いまいち思い出せなかった。
 花畑に気を取られていた幸村は、そこでようやく森が途切れたことを知り慌てて後ろを振り返る。
 どうやら山頂に辿り着いてしまったようだ。色とりどりに染まる木々の間に、普段暮らしている古寺の屋根が微かに見えた。
 帰路の目印を見失わなかったことにほっとして、幸村は開けた場所へと視線を戻す。
 昼でも少し薄暗い森の中とは異なり、花畑には陽光が惜しみなく注がれている。身を寄せ合っている花弁が秋風に揺られていたが、奇妙なことに花の葉は見当たらない。
 奥は崖になっているのか、空が広がっている。太陽が少しだけ傾いている様子が目に入った。
 白い海の中央では、枯れているのか既に葉の無い低めの木が所在無さそうに佇んでいる。
 それは、先程浮かんでいた光景によく似ていて。
 僅かに目を細めた幸村は、自然とその木に近付いて行った。
 白に囲まれた老木を見上げていると、元就と出会った霧深い戦場を思い出す。
 珍しく兄と共に攻めることを許された幸村は、信玄を貶めた敵大将を許せずに直接相対を望んだ。
 佐助の術に紛れながら戦ったその人は、痛烈な台詞を吐き出しながら鋭い刃物のように凛とした眼差しで幸村を射抜いた。
 恒星の如き輝き纏う彼は、眩しすぎて。日の光を浴びることが許されながらも背後に大きな影を背負っている自分など、近付くだけで焼かれてしまうのではないかと感じたことを覚えている。

「このような形で再びお会いするなんて、あの頃は考えられなかったでござる」

 幸村は自分の掌を見下ろした。肉刺が幾重も潰れた痕の残った手を握っても、そこには何も無い。
 時折少しぼやけるが、視力は確かに回復している。鏡に映る惨めな自身の顔も、世界を拒否していたこの目は捉えられるようになった。
 なのに愚かな自分は恋い慕うあまりの衝動で、彼へと不用意な口付けをしてしまった。
 元就の青褪めた顔は、今も鮮明に覚えている。

「――……毛利殿」

 背中を老木に預けて座り込んだ幸村は、呼んではならぬと一旦は封じ込めた彼の名を紡ぐ。
 自分の視力が戻ったことを知れば、元就は自分を手放すだろうか。
 自尊心の高い彼にあのような無礼を働いたというのに、よそよそしい空気が漂っていてもなお、元就は幸村に対して明確な拒絶を示すことがない。
 よく考えてみれば、最初から彼は自分を受け入れてくれた。自分をかつて敵対していた男、真田幸村だと分かっていながらも。
 夜な夜な惨めに泣き叫び、自分を見て欲しいと我侭を言って、勝手に裏切られたと勘違いして、距離を置こうとする相手に今度は縋り求めて。そんな醜態を晒している自分の傍らに、元就はずっと居てくれたのだ。
 それが同情か、助けた義理からなのか、単なる庇護欲だったのか――本当は一人が寂しかったからなのかもしれないとしても。

「あ……」

 膝を抱えて蹲ろうとした幸村は、懐の膨らみに気付く。
 袂に手を差し込むと、今朝元就から渡された包みが入っていた。半兵衛の来訪によるどさくさで、懐に入れたまま忘れていた。
 三日分にも満たない食事の量は少なくも思えるが、毎日の質素な暮らしから考えれば適量だ。中に小分けで入っている包みのうち、一番上の物が今日の分なのだろうか、保存にはあまり適さない握り飯が一つだけ入っていた。
 幸村は無言のままそれを掴み、一口食べる。
 まだほんの少し温かい握り飯は、何の味も付いていなかった。形だって歪で、お世辞にも綺麗とは言えない。
 けれど美味しかった。
 日頼が――元就が幸村のためだけに作ってくれた握り飯は、拾われてからずっと食べてきた彼の食事と同じく、優しい何かが胸に染み渡らせる。
 知らない内に浮かんできた涙を拭いながら幸村は、慎ましやかながらも幸せだったと言える日々を思い返す。
 幸村の名を呼んでくれたのも、笑ってくれと言ってくれたのも。
 共に同じ長さの月日を歩んできたのは、たとえ名が偽りだとしても紛れもなく元就自身だった。
 まやかしの感情であったとしても。自身が錯覚を起こしていようとも。――幸村にとって、それは事実でしかない。
 同時に自分が彼に対して見せてきた全てもまた、真実なのだ。
 元就に嘘は言わないと誓った。
 偽りの自分は最早必要なく、そして何より彼にだけは本当の自分を認めて欲しかったから。何の役にも立たない自分でも良いのだと、抱き締めてくれた穏やかな腕を裏切りたくなかったから。

 ――本当のことを言おう。
 視力が治ったことも、恋慕にも近い想いを抱いてしまったことも、元就に告げようと幸村は決意した。
 これ以上彼に黙っていることに耐えられない。
 嫌われても構わない。今の関係が崩れ去ったとしても、平穏な暮らしが壊れてしまったとしても、後悔はしないだろう。
 半兵衛との対話で、元就の状況は何となく察している。彼は最早毛利の者ではなく、虜囚の身のようだ。でなければこのような場所で、静かに隠遁生活を送るような人ではない。
 そんな彼が拾った自分は厄介者でしかなくて、元就の立場を更に悪くさせる一因であることは明白だ。
 元就が何を思いながら半兵衛と対峙したかは分からないが、知らぬ存ぜぬを通した彼は結果的に幸村を庇った。自分の存在を完全に察知している半兵衛は、きっと元就を傷付けるだろう。
 そうなる前に、嫌われて手放された方がましだ。
 嫌ってくれれば元就は、きっと寂しいと思わないはずだから。
 戦地に赴くかは、本当の事を告げた後で決めれば良い。
 元就の手を放さなければならないとしたら、彼と離れよう。元就を脅かす一番の要因は自分なのだから。
 そしてもしも在るがままの自分さえも受け入れられたとしたら、その時は――。
 夕焼けに色付いていく空の下で、幸村は立ち上がった。
 どれ位の時間を過ごしていたのか検討は付かないが、迷い続けていた感情がようやく整理されて少しだけ晴れやかな気持ちになれた。
 瞼を開くと、西日に色付く花畑が目に入る。眩しい陽光を受けて、白は橙から徐々に赤く染まっていた。
 白から赤へと変わっていく花弁を見て、ようやく幸村は花の名を思い出す。
 色が変化してもそれは同じ花だった。外見や名を変えたとしても、本質は変えられない人間のように。

「この花……彼岸花、だったのか」


 美しくも物悲しい光景をしばらく眺めていた幸村は、やがて花畑から踵を返した。
 日没までに元就の所へ向かわなくて、半兵衛がやって来てしまう。残されている時間は少ない。太陽の光を背に受け、幸村は歩いてきた道を駆け足で戻り始める。
 裏の勝手口から母屋へと入った幸村は、元就の自室へと急いだ。
 自分の心を落ち着かせるように、なるべく静かに廊下を進んでいく。角を曲がると、すぐに部屋の障子が見えてきた。
 逸る鼓動は、漏れてきた声によって一気に心拍数を上げる。だが微かに赤らんでいた幸村の顔色は、血の気が引いたように真っ青になっていた。
 僅かに開いている隙間は、どこか作為的で。明らかに可笑しい声音が指し示す行為を知らぬほど、幸村は子供ではない。
 そして見てしまったのだ。
 行きたくないと心は否定するのに、誰かに背中を押されたかのよう部屋の前に立っていた。震える喉が、こくりと上下する。
 隙間から覗く薄暗い褥。微かに残っている夕闇の中、ぼんやりと映し出されているのは二人の男。

「君はどうなんだい、真田幸村。武田の敵であった男とまだ一緒にいるつもり?」

 見開いた瞳が捉えたものに、幸村は呆然とする。
 先程から一方的に交わされている会話の矛先が、突然自分への問い掛け変わったが答えることなど出来ない。
 からからになった舌が口内に貼り付き、呼吸をしているかも分からなかった。
 だがそれも一瞬で終わる。幸村と元就の視線が絡んだのだ。
 頬を張られたのか殴られた痕の残る、青褪めた肌。乱れた衣を纏ったまま、強張っている白い裸体。弱さを曝け出すことを厭う瞳に宿っていたのは、絶望の二文字。
 何が起きているのか、何故そうなっているのか、幸村は瞬時に察した。
 刹那、己の内に膨れ上がる感情に動かされ、彼は元就を組み敷いている男を睨む。
 そのまま幸村は踵を返して去って行った。

「ふふ、怖いね。殺されるかと思ったよ」
「貴様っ!」

 静かに流れた数秒の空白の後、半兵衛が口の端を上げて行為を再開する。
 固まっていた元就が激昂して拳を振り上げたが、手首を簡単に取られて封じられる。睨み付けた先の半兵衛の冷たい双眸は、これ以上の抵抗を元就に許さない。
 唇を噛み締めた元就の浮き上がった腕は再び敷布へ沈み、耐えるように拳が握られた。


 自らの鼓動の音が妙に大きく聞こえる。大した距離を走ったわけでもないのに、寺から少し離れた木の幹に手をついた時には呼吸が荒く整えることも忘れていた。
 嫌な汗が額を伝っていく。突然の全力疾走で、四肢が妙に重かった。
 元就が、あの男に抱かれている。
 その事実だけで、幸村の内部に蟠っていたどす黒い焔を暴れ出しそうになった。
 そして、自分はやはり元就を本気で好いているのだと理解した。誰にも渡したくないと思う気持ちは、全てを失ったことが反動しているのかもしれない。だが彼へと向けられる欲望は、それだけでは片付けられない。
 己の中にこんなにも穢れた感情があったことに愕然としながらも、幸村は自覚した想いを否定したくはなかった。
 今晩は、寺に戻れない。
 こんな凶暴な感情を露わにしたまま元就の前に立てば、全てを喰らい殺してしまいそうだ。

「くそおっ!!」

 幸村は何度も木に拳を叩きつけながら泣き続けた。
 元就を助けることも、半兵衛を止めることもできずに逃げ出して、自分勝手に傷付いて、同意の上ではないのだということはすぐに分かったのに裏切られた気分になって。
 何よりもあんな状態の元就に劣情を催した自分自身が、とても汚らわしい人間のように思えて酷く惨めだった。



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(2008/03/06)



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