03 君の笑顔と赤い花畑


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 幸村の様子を見る限り、少なくとも半兵衛の抉るような言葉は聞こえていたのだろう。
 冷や汗で体温が下がった幸村の手を一度だけ握り締め、元就は項垂れるように自室へと引き返していた。
 不安定な状態の幸村を本堂に残すことは、正直言って憚られた。あのまま眠りに付けば悪夢がぶり返すだろう。その時傍に居てやらねば、視力の弱くなった大きな瞳はきっと虚ろに涙を流す。頼りない声音で、自分の偽りの名を呼ぶはずだ。
 だが、今は共にはいられない。
 幸村が生きていたことに半兵衛は気付いてしまった。そして少なくとも、他人に執着を殆ど持たないはずの元就が、単に迷い込んできただけであるはずの彼の事を匿っていると知られたはずだ。
 夜にまた来ると狡猾な仮面の男は宣言したが、先程のように不意打ちを仕掛けてくるかもしれない。
 幸村はきっとまた自分を責めてしまうだろう。
 廊下の木目を見下ろしながら黙々と歩を進めていた元就は、痛ましいその情景を思い出して唇を噛み締めた。

 戦場で一度だけ見たことのある力強い笑顔を失った幸村は、それでも自分に対して控え目ながらも無邪気な笑みを見せてくれる。
 敵対していた血みどろの自分に――嫌悪しているだろう対象であった毛利元就に、だ。
 この奇妙な関係は、庇護した者への依存と闇に覆われた視界があるから存在している。
 元就が幸村の敵だったと分かってしまえば、毛利を滅ぼさぬために身体を半兵衛に売るような真似をしていることが知れたら、脆くも崩れ去るだろう儚い土台の上に成り立っているのだ。
 これは貴方の涙だと言って泣きながら浮かべた微笑みも。貴方の傍にいて良いのかと、不安そうに抱き締めてきた温い腕も。放すことにも離れることにも怯えて縋るように交わされた口付けも――。
 真実を知った後では、全てが偽りのものとなる。
 ならば、知られる前に突き放してしまう方が最良ではないだろうか。
 本来ならばあるべき場所へ、幸村を戻せば。本当の彼が必要とされている世界へと手放せば。
 その時が訪れた瞬間よりも、互いの傷が浅く済むはずだ。
 ――二人でいるからこそ、違えた時の寂しさがより一層深くなるのだから。

「……所詮、自己満足よな」

 元就は自嘲を浮かべ、ちっぽけな己の両手を眺める。
 満身創痍であった幸村を如何にこれ以上傷付けず、自分という厄介者から切り離すか。予測と想像だけでしかない思考の中、そればかりを考えてしまう。
 だが幸村が本当にそれを望んでいるのか、自分がその選択をしてしまった時に本当に傷付くことが少ないのか、それは幸村自身にしか分からないことだ。
 幸村の正確な気持ちを、元就は知らない。
 元就もまた、幸村に対する自身の想いが分からない。
 弱さを曝け出すことは強さだと語った彼の、刀身のような真っ直ぐな輝きに惹かれて。地に堕ちてさえ消えない灯火を抱く幸村の温度が、人形だった自分にもう一度命を吹き込んだような気さえしていた。
 けれど何故と問われてしまうと答えが出ない。依存か、必然的にか。確かに言えるのは、歪な現状が生んだ滑稽な関係だということだろう。
 だからこそ、元就は迷い続ける。小さな火の傍にいたいと思いながらも、それは錯覚からではないかと疑っているから。嘘で作られた世界の中で掻き消える前に、彼の種火を炎の元へと返さねばならないと薄々気付いているから。

「相変わらず未練がましいな、我も」

 開いていた掌を握り締め、元就は部屋に敷かれた布団を睨み付けた。
 今宵行なわれるだろう忌むべき行為は、尋問めいているはずだ。先程半兵衛は笑っていたが、内心では元就に対して鬱憤を溜めていたことだろう。
 執念深い半兵衛に知られてしまった事実が横たわる今、幸村を庇い立て続けることは不可能だ。
 あれほど何重にも固めていた決意は瀬戸内での悪夢のように一瞬で粉々にされてしまったが、それでも無力な自分が出来るせめてものことを幸村にしてやりたかった。
 誰も必要としなくなった毛利元就を――呼ぶ名は偽りのものだとしても、凍らせ続けた自分という人格を必要だと手を伸ばした、たった一人のために。


 呆気なく日は暮れ、重苦しい夜の帳が徐々に落とされていく。
 再び現れた半兵衛は、一応出迎えた元就をいつも通り母屋の部屋へと連れ込んで行為に及んだ。繰り返し響く殴打の音と耐え切れずに吐き出された忌々しい嬌声が、幸村のいる本堂まで聞こえないことを祈りながら、元就はひたすら責め苦が通りすぎる時を待ち続けた。

「随分強情になったね。この間会った時はされるがままだったのに。真田幸村のせいかい?」

 耐えるように口を閉ざし続ける元就が気に入らないのだろう。半兵衛は舌打ちをして何度目かの質問を繰り返す。
 答えずに元就が皮肉めいた笑みを見せると、愛撫交じりに薄い皮膚を噛み付かれた。
 元就は歯を食い縛って、痛みと否応がなく感じされられている快楽の波をやり過ごす。生理的に浮かんだ自分の涙に、反吐が出そうになった。
 幸村が笑って流していたものはとても綺麗だったのに。
 自分の物は、やはりこうも薄汚れているのだと哂いたくなった。

「ねぇ、元就君」

 何かに気付いたのか、半兵衛が急に口の端をつり上げた。
 仮面を外している彼の露わとなった美貌と相成り、いつもの薄笑いに凄味が増す。
 良くないことを思い付いた時の顔だ。
 元就はぼんやりと見上げた。反論しようが意見しようが、元より所有物でしかない自分の指図を受ける男ではないと分かっている。

「君は一人ぼっちのくせに、周りを煽るのが本当に巧いよね」
「……何の、話だ」

 口の端を歪めて笑い声を上げる半兵衛を半眼で睨みながら、元就は背筋に冷たいものが通り過ぎていった。
 褥で語るそれが性的な意味合いを含んでいることは分かっている。
 だが半兵衛が口にしている話題は、ずっと幸村に関して。彼は元就に、幸村とも関係を持ったのかと暗に問い質しているのだ。
 そんな馬鹿なと一蹴できれば、先程と同じようにやり過ごすだけで良かった。
 けれど――。
 幸村は元就に触れてきた。抱き締め合って慰め合うだけだった触れ合いが、たった数秒の出来事だったとしても接吻という形で途端に密となった。
 あの接触に性的な意味合いがあったのか、それとも親を求める子供のような類だったのか元就には分からない。だが拒んだ自分に幸村が傷付いて、その顔を見た元就もまた傷付いた。幸村が元就を突き放し、それにより彼自身が怯えたように。
 そうやって互いを想うことが諸刃の剣となっても、側に居続けるればもっと求め合ってしまうのかもしれない。
 そんな可能性を半兵衛に見透かされたような気がして、元就は僅かに震えた。

「知らないふりを装っているの? それとも本当に無自覚? 僕に抱かれながらすぐに別の人間を惹き込むなんて、傾国傾城っていうのも頷けるかな」

 一人で結論付けながら半兵衛は、褥へと縫い止めた元就の耳元へ唇を落とす。
 そして、囁くように彼に毒を吹き込んだ。


「君といると、彼――死んじゃうんだよ?」


 その、たった一言で。元就は瞳を見開き、全身を強張らせた。
 喉が焼け付いたように乾く。微かに開いていた唇から漏れる吐息は、か細く頼りない音を漏らした。瞬きも忘れ去ったまま、元就は半兵衛の恐ろしい笑顔を凝視する。
 けして半兵衛の背中に回ることのない手が、必死に敷布を握り締める。まるで何かに――此処にはいない、誰かに縋るように。
 弱々しくも抵抗をしていた身体が突然糸切れた人形のように動かなくなり、半兵衛は満足そうに笑みを深くした。
 ようやく自分の元に堕ちた獲物。隠し切れない歓喜が彼の中に湧き上がっていく。

「もうすぐ君は僕と同じ場所に行く。血生臭い真っ暗な深淵に、君は彼も連れて行きたいのかい?」

 戦慄く肌に舌を這わせながら、一層の愉悦に半兵衛は浸る。楽しくてしょうがないのか、くぐもった忍び笑いが褥の闇に響き渡った。
 濃厚となっていく室内の空気を感じながらも、元就はただ呆然と天井を見上げることしか出来なかった。裏切りの瞬間に味わったような虚無感だけが、胸の空洞を通り抜ける。幸村に捧げられた優しい火の光さえも、掻き消えていくような寒さが広がっていった。

「君はどうなんだい、真田幸村。武田の敵であった男とまだ一緒にいるつもり?」

 自分の身体を貪りながら目の前の男が紡いだ言葉に、元就は青褪めた顔を上げた。少しだけ開いた障子の向こう側へと半兵衛が笑いかけている。
 辿った先で、瞠目している焦げ茶色の瞳と視線が交わった。



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(2008/02/24)



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