03 君の笑顔と赤い花畑


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 己が名を紡いだその男を、幸村は知っている。
 若き天才軍師と讃えられる彼は、武田軍の中では亡くなった幸村の父とよく比較されていた。
 天下統一の先まで見通している仮面の男――竹中半兵衛。
 豊臣に属する彼が何故ここに来たのか、幸村は知らない。元就の言っていた客というのが半兵衛なのかも、正直分からない。
 ただ、壁板の隙間から覗く光景に、胸を掻き毟りたくなるような感覚が過ぎるばかりだ。

 含み笑いを浮かべている半兵衛と何かを交わし、怯えるように凍り付いた元就の細い背中が見える。彼を脅かすものから遠ざけたいと思うのに、庇うようにして隠された自分が飛び出すわけにはいかないと理性が促した。
 幸村はくたびれた袈裟の袂を強く握り締め、元就に言われたとおり息を潜め続けるしかなかった。
 門の前にいる元就は、張り詰めた横顔のままで半兵衛を睨み付けていた。
 それが虚勢でしかないと分かっているのか、相手は笑いながら一歩足を進めた。元就は退こうとはしなかったが、微かに背筋が強張っていた。
 それ以上彼に近づくなと叫び出したい欲求に駆られる。
 以前の、武田にいた頃の自分ならばきっとそうしていたはずだ。けれども今の幸村にはそれができない。
 自分が出た所で事態が好転するわけではない。一度全てを零してしまった幸村は、寧ろ逆に元就を脅かすような結果になってしまうのではないかと、臆病な自分を知ってしまったから。変化をもたらすことで失う代償の大きさを思い、怯えを感じてしまったから。
 荒れ狂った感情が胸の中を過ぎっても、まるで床と縫われたように足が動かなかった。
 忘れかけていた死臭を纏うあの男は、何処かで幸村の知っていた誰かを殺したのかもしれない。武田が総崩れになったことを聞き、嬉々としながら嗤ったのかもしれない。
 もしもという考えの中を行き交うだけで、決してそれが真実ではないことは分かっている。それでも幸村は震える肩を抱き締めることしかできず、兄を喪った日のことをぶり返して自己嫌悪の波に囚われた。

「真田幸村? 何の事だ」

 元就は緊迫した空気の中、半兵衛の双眸に晒されていた。植え付けられた怯えを封じながら、頑なに睨むことができるのは背後に隠している幸村の存在があるからだ。
 先程自身に言い聞かせた言葉を刻み付け、元就はじっと男から視線を逸らさない。
 半兵衛は予想通り幸村を探しに来た。
 幸村から、織田の忍に追われていたということは聞いている。その全てを佐助が相手にすることで深追いだけは避けられたものの、幸村がこの付近で消息を絶ったのは敵に知られているだろう。
 だがあれだけの深手を負った者が、このような山奥の広大な森の中で生き続けることは不可能に近い。万が一助かっていたとしても、必ず人里に降りているだろうと普通は考える。人は人の手を借りねば生きていけない生き物だ。
 だからこそ元就は、この場所に幽閉されているのだが。

「おや、僕の読み違えかなぁ? 折角幸村君に仇討ちの機会を与えてあげようっていうのに」

 ――仇討ち。
 長篠での武田壊滅の報が、男の耳に入っていないはずがない。
 元就は唇を噛み締め、無言で半兵衛に続きを促した。

「豊臣は将来織田を潰すよ。これは予想じゃなくて事実だ。けれど大義名分が付いた方が兵士達は沢山集まるし、よく動く。毛利も随分頑張ってくれているのだけれどね、数だけはどうにもならない」
「ゆ……っ真田を持ち上げ、武田の残党を誘き寄せるためか。それとも武田が豊臣の下だと世間に知らしめる為か」

 相手から発せられた挑発には乗らなかったものの、自然と幸村の名を紡ぎそうになった元就は気付かれぬよう言い回しを変えて、相手が考えていそうなことを嫌そうに述べてみた。
 すると半兵衛は嬉しそうに笑みを浮かべ、軽く手を叩く。
 馬鹿にされているような、掌の上で遊ばれているような居心地がして、元就はますます眉間の皺を深めた。

「流石だね、どちらも正解。ついでに主君の敵討ちっていう大儀でこの戦が美化されれば、後の世に対する印象も随分と良いだろうしね」

 先を見据えて紡がれる発言に、元就は嘲笑う。
 時間が無い男が何をほざく、と声にならない台詞を胸の内で吐き捨てた。
 半兵衛はそれを見つけて一瞬だけ無表情になるものの、再び口の端をゆっくりとつり上げる。

「悪い話じゃないんだと思うけどな。日の本一と謳われた男が、このまま古寺の中で埋没しちゃう方が馬鹿らしくないかい? それとも君にとっての最愛のお館様は、仇討ちもしてやれないほどちっぽけな男だったのかな、幸村君?」

 元就から視線を逸らした半兵衛は、その肩口の奥にある本堂の扉を見やった。
 ぞっと背筋に嫌なものが通り過ぎたよが、元就は振り向くことができない。そちらを向けば、幸村が居ることを肯定してしまう。肌が粟立つような感覚を持て余しつつ、素知らぬ顔を取り繕い続けることしかできなかった。
 せめてこの声が幸村に届いてなければいいのに、と元就は唇を噛み締めた。
 何の反応も無い本堂をしばらく見つめていた半兵衛は、興味を失くしたかのように突然踵を返した。

「まあいいや。また後でね。大人しく待っているんだよ?」

 翻った紫暗色の背が見えなくなるまで、元就はその場を動けなかった。


 会話を聞いていた幸村は青褪めるばかりで、声を漏らすこともできずにいた。唾を飲み込み、耐えるように袖ごと拳を握り締める。
 半兵衛の無慈悲な言葉に、芯から凍っていくような寒さが押し寄せた。
 父よりも身近であった師の名を聞き、あの日に託された信玄からの伝言を思い出す。兄から聞いた継ぐべき意志を絶やす気は無いが、けれども戦場に出ることを恐れている今の自分にそれが果たせるとは決して思えなかった。
 だが、生きているのは幸村だけ。
 虎の意志も熱き魂も、全てが消えたわけではないのだ。自分の身の内に、哀しくも愛しい真田の血脈が流れていることも真実でしかなく。
 一人生き残った己に出来る事は、地獄にて死した人々の御霊のために祈るだけではないことだと分かってはいるのだ。
 半兵衛の言い分は、武士として生きる者ならば最もだろう。
 主家に対する忠義を貫くため、掛け替えの無い肉親の仇のため、幸村自身の手で織田を討たなくてはならない。
 生きて欲しいと笑って逝った人達は、望んでいないかもしれないけれど。
 武人である真田幸村の生き方をこの先も選ぶというのならば、まず戦い抜くことを考えるだろう。それは自身が一番良く分かっている。

 けれど自分には。

 冷や汗を掻きながら顔を上げた幸村の視線の先には、必死で男と相対していた元就がいる。
 闇の底から引き上げてくれて、何も聞かずに抱き締めた腕。失った視力の中でも、ただひたすら追い求めた彼がいるのだ。
 責めてくる悪夢よりも。兄の姿をした己の罵倒よりも。課せられた使命の重さよりも。
 元就から離れなくてはいけないことの方が、ずっとずっと怖い。
 もしも彼までをも失ってしまったら。
 自分のせいで、殺してしまったら。
 ――はたして、これ以上生きていけるのだろうか。
 想像するだけで吐き気が込み上げる。
 小刻みだった震えは一層大きくなり、幸村は膝を折って冷たい床に手を付いた。指先からにじり寄って来る冷気は、自分を地の底へと引き摺り落とそうとする亡者の群れの温度に似ていて。
 視力を取り戻したばかりの視界は、焦点を合わせることがうまくできない。ぼやけた世界は現実味が無く、静まり返った辺りの空気に耳鳴りがする。
 今、何をしていたのだろう。此処は、何処だっただろう。自分は、誰だっただろうか。
 まだ“真田幸村”として、生きているのだろうか――。

「っ日頼殿っ!!」

 幸村は耐え切れず、本堂を飛び出した。
 驚愕した元就に気付かず、混乱する頭で必死に彼の白い手を握り締める。外気に長く触れていたため低くなった体温が恐ろしく、空いていた逆の手で自分に押し付けるように抱き寄せた。
 あまりの衝撃に目元からはいつの間にか涙が零れて、元就の胸元を微かに濡らす。
 全身から伝わる元就の熱を知覚するまで、幸村は強張ったその手を離そうとはしなかった。

 ――役立たず、お前は誰だ、偽物、身の程知らず、お前がいなければ、何故生きている――。

 自分を責める様々な声が闇の中で鳴り響く。
 彼の傍にいたいのに、そのために元就を失ってしまうのではと疑念を一瞬抱いただけで、穏やかになっていたはずの内なる暗黒が瞬く間に噴き出た。
 幸村はそれが本当に起こってしまうかもしれない現実なのだと、身を持って知っている。
 彼を取り巻いていた世界は、そうして一度壊れてしまったのだから。

「幸村、どうしたのだ?」

 半兵衛との会話が聞こえていなかったことを前提として、困惑しながらも元就はそっと尋ねてきた。卑怯な聞き方だと彼は思ったが、幸村の口から答えを聞くにはまだ覚悟が足らないと自覚しているからだ。
 だが幸村はそんなこと、今はどうでも良かった。
 触れている元就の鼓動の音色と、温く伝わる体温。抜け殻になってしまった自分を、拒絶しないで受け入れてくれる彼がここにいる。
 確かにこの腕の中で、生きている。

「……某はまだ、貴方の傍にいても良いのでしょうか」

 恐怖に慄きながらもくぐもった声音で呟いた幸村を、元就はただ静かに見下ろす。
 ごめんなさい、と見えない誰かに向かって泣き叫んでいた頃の幸村を思い出しながら、元就はそっとその旋毛に手を置いた。

「お前が選ぶことだ。好きにしろ」

 淡々とした口調が上から聞こえる。普段と同じ、不器用で優しい彼だ。
 幸村は瞼をぐっと閉じて、音を立てて近付いてくる現実から元就を守るように、強く抱き締めた。もしかすると、そうやって再び一人になるかもしれない自分自身を守りたいだけなのかもしれない。
 物言わぬ二人の抱擁はしばらく続き、やがて離れる。不安そうな空気を漂わせながら、彼らは寺の中へと消えた。

 ――それを、朽ちた門の柱の影から仮面の男が見ていた。



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(2008/02/17)



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