03 君の笑顔と赤い花畑
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足早に幸村の部屋から立ち去った元就は、土間の水瓶に自らの顔を勢いよく突っ込んだ。晩秋の空気に冷やされた水は、肌に刺すような痛みをもたらす。微かに冷静を取り戻した頭を上げ、荒いままの呼吸を何とか整えようとした。
だがそうしていても思い返すのは先程の、幸村の泣き出しそうだった表情。
そして触れてしまった唇の感触。
「くそっ!」
今度は手で水をすくい取り、記憶ごと消すかのように己の唇を乱暴に洗った。
ひりつく皮膚の鈍痛は、愚かな自身への戒めだと胸に刻み付けた。
――あの接触は、絶対にあってはならないことだった。二度目は無いと肝に銘じろ。
不意打ちで流されかけてしまったのは、幸村の行動に動揺した自分自身に対して驚いていたからだった。
拒否されても今更何も感じないだろうと、幸村がこの可笑しな関係に疑いを持ったのならばすぐに手を放してやろうと、ゆっくりと続いてく日々の中で少なからず考えてはいた。
だからその時が来ても大丈夫だと信じていた。
信じて、いたのに――。
己の手をいざ振り払われてしまった時、元就は全てを失ったあの日の喪失感とよく似た感覚に囚われた。
そして知ってしまった。
幸村が自分の中で失った毛利と同等になるほど、大きな存在となっていることを。空虚感が襲い来る前に感じた、目の奥が熱くなるような奇妙な現象を。
「……寂しいのは、我の方か」
自嘲を浮かべた元就は、自身の両の手を見下ろす。
手を振り払われた時、一人にしないでと雨の中で泣いていた幸村の声が、自分のものとなって響いて聞こえた。
その直後に、死んでしまうのではないかと思うくらい青褪めていた幸村を見て、彼の行動が意に添わぬものだったのだということを知った。
密やかな安堵が込み上げて来て、必死に手を伸ばしてきてくれた幸村がこの空っぽな掌を掴み取ったことで、響いた自分の声は止んでいた。
あれが、寂しさが拭えた瞬間だったのだろう。
自分も、幸村も。
完全なる孤独を埋めるように、幸村と抱き締め合ったことは何度もある。
今でも他人との熱の共有が嫌で仕方が無いというのに、彼との接触に嫌悪感が浮かぶことはなかった。それは火種を失って消えそうな灯火である幸村と、光から見放されて堕ちた己の持つ温度が似ているからなのか、元就には分からない。
けれど先程も――奇妙な幸村の体温を間近で感じて多少の気恥ずかしさはあったが、放されてしまうのではないかと思った直後だったためか――震えていた心が鎮まっていく感覚が芽生えていた。
そう。嫌ではなかったのだ。
抱き締められても。触れられても。予想もしていなかった、突然の口付けでさえも。
「駄目だ」
感触を思い出し口元を覆った元就は、決意を何度も何度も自身へと言い聞かせた。
今ならば、何もかも無かったことにしてしまえるから。
溢れ出てきそうな感情を制し、本心が表に出て行かないように元就は必死に装った。少しでも隙を見せるわけにはいかないのだ。
明日は、あの男がやって来る。
絶対に幸村の存在を悟られるわけにはいかない。ましてや、彼と自分がお互いに依存し合っていることに気付かれたのなら。そしてもしも――。
「っ……けほっ……」
ぞっと全身が粟立つ。喉元からつい咳が零れた。
最悪の事態ばかりが脳裏を過ぎり、足元に力が入らなくなる。土間の土が付着することにも頓着せず、元就はその場に崩れ落ちた。
こんなことじゃ隠せないというのに。想像するだけで容易く折れかける弱い自制に、怒りよりも虚しさが込み上げた。
「幸村、我は――」
咳混じりの言葉は嗚咽しているかのようにか細くなり、最後まで紡げなかった。
幸村は嘘を付かないと約束してくれたというのに、自分は何て歪な虚言で構成されているのだろう。
一つが決壊すれば全てが終わってしまうなんて、奈落の谷に掛かる吊り橋のよう。
それでもせめて、あの男と密事を交わしていることだけは知られたくないと、願う事は我侭なのだろうか。
自分が毛利元就だと知られて、たとえ嫌われようとも。偽りだらけのこの日々を捨てて、幸村が出て行ってしまうのだとしても。
これ以上、醜い己を彼の前に晒してしまいたくなかった。
+ + + + +
次の朝、元就は気まずい思いを抱えながら幸村の部屋へと向かった。
緩慢な動作で戸を開けてみれば、幸村は既に起きている。視線が一瞬交わるが、逸らしたのは元就の方だった。
幸村はすまなそうに目を伏せたが、黙って片付けた布団を持ち上げる。本堂へ行こうと呟いた幸村に元就は頷き、彼の袖を掴んで踵を返した。
元就の背中を哀しげに幸村は眺めていた。視力がほぼ治っていることを、元就は知らない。知らないからこそ、あんな行為を強要してしまった後でもこうして気遣ってくれているのだと思っている。
彼が隠していることを、自分が暴いていいのだろうか。
そうすることで離別を口にされでもしたら、自分はどうしたら良いのだろう。
昨日離れていってしまう恐怖を感じた幸村は、止まらない背筋の震えに怯えていた。
「幸村、これを」
本堂に荷物を運び終えた二人は、入り口の階段で遅い朝食を取った。
膳を片付けて戻ってきた元就は、台所から持ってきた包みを幸村に差し出した。早朝から作っておいた食事だ。目の見えない幸村が一人でも食べられるような物をと、手掴み出来る物ばかりが入っている。
兵糧を作っている気分だったな、と元就は一人で苦笑を浮かべた。
戦にばかり関連付けてしまう自分を嘲りたい。もう既に戦場になど到底立てる身ではないことを承知しているというのに、ふとした時にいまだ考えてしまう。
幸村はそれを横でじっと見て、それからいつものように振舞おうと明るい声を出した。
「お弁当でございますか。大事に頂きます!」
震えている身体を叱咤して、幸村は精一杯に笑ってみせる。
痛々しい笑顔に気付きながら、元就は何も言えず微笑む。
緊張していた空気が僅かだが和らいだような気がして、二人は自然と互いの手を繋がれた。それぞれの恐怖と戦いながらも、必死に今という最上の形にしがみ付こうと足掻いているように、堅く――。
しかしそれも長くは続かなかった。
事態にいち早く気付いた元就は、慌てて背後にあった本堂の観音開きの扉を開けた。幸村と自分の身体を内側へ捻じ込み、素早く扉を閉める。
突然の事に驚いていた幸村だったが、元就が木材の僅かな隙間から外を窺っていることに気付く。
その視線は先程まで幸村を見ていた穏やかなものとはまるで違い、敵を見据える鷲のように鋭い。やはり戦場で見かけた彼なのだと、幸村は落胆なのか期待なのか分からない高揚感を感じた。
一方の元就は、じわりと冷や汗が噴き出すことを自覚した。
まだ午前中だ。まさかこんな時間に来るなんて予想していなかった。己の浅はかさに舌打ちした元就は、幸村へと顔を向ける。
「よいか幸村。気配は成る丈断っておれ。人が来るようであれば外へ出ろ。我が戻るまで、守れるな」
「日頼殿っ!」
幸村の追い縋る声音が響いたが、振り切るように元就は母屋に続く廊下へと向かっていった。
「元気そうで何よりだよ」
「黙れ。貴様の声は虫唾が走る」
母屋から回って寺の門の前へとやって来た元就を迎えたのは、夕刻に訪れるはずの客であった。
憎しみを隠さない元就の睨みも深い笑みでかわした彼は、辺りをじっと見回す。
何かを探すような行為に、元就の握っていた拳に力が篭った。
「日が高いうちから何用だ。それとも豊臣はよほど暇なのか」
「心外だね。仕事で近くまで来たんだけど、ちょっと時間が掛かるみたいだから寄っただけだよ」
両手を挙げて苦笑した男の目は、仮面の奥で笑っていない。
言葉通りに受け取れば、夜になったら泊まるためもう一度此処に来るということだ。しかし元就は、仕事という台詞に引っ掛かりを感じた。
この寺がある山が何処なのか、正確なことは元就も知らない。だが麓の里は、目の前の男、竹中半兵衛の領地だということは分かっている。村人として生活している半兵衛の部下が、定期的に食料等を寺の近くの山小屋まで運んでくるのだ。
寺にまでは監視の目が無いとはいえ、人里に出たらすぐに半兵衛には伝わる。辛うじて生き永らえている毛利は、知らせが届いた瞬間に絶えるだろう。
元就にそう教えたのは半兵衛自身であるから、虚言からの脅しだとは聞き流すことができなかった。
故にこの辺りは半兵衛の息が掛かった地域なのだとすぐに察したが、仮にも彼は豊臣の軍師である。付近が戦場となる、或いは築城や軍備に関係することがなくては自らが動くこともないはずだ。
訝しげに睨む元就を尻目に、依然として半兵衛は探るような目付きで境内を見ている。
勝一との会合が悟られているとしたら、単刀直入に聞いてくるはずだ。半兵衛の様子から見る限り、それには気付かれていないように思える。
元就が楽を嗜むことを半兵衛は知っているため、新しい弦を持ってくるよう彼の部下に言ったことは伝わっているだろうが怪しまれるほどではないだろう。
ならば何故だ。
元就は汗で濡れた掌を開けては握った。
その様子に気付いた半兵衛は笑みを深くして、顔を元就へと近づけた。
「君の直感にはいつも脱帽させられるなぁ。当たりだよ」
今度こそ楽しそうに笑った半兵衛に、元就は隠しきれない恐怖を感じた。
あれほど自分に言い聞かせたというのに、いざその時が訪れると身体が勝手に震えてしまう。
かつては隠しきれていたというのに。
纏わせた氷の面さえも要らないものだと捨てられた時だって、半兵衛の闇に蹂躙される行為に慣れてしまった日にだって、内側で上げた悲鳴の声を押し殺せたというのに。
幸村の僅かな炎に触れた時から――封じようとする感情が、隙間から漏れてしまうことがどうしても止められない。
それが弱さだと嗤った元就に、強さにもなるのだと幸村は言ってくれたけれど。
今は、何もできない非力な自分に反吐が出そうになった。
「真田幸村は此処にいるのだろう?」
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(2007/12/24)
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