03 君の笑顔と赤い花畑


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 布団の中に押し込められている幸村は、いまだに見えないままの視界で天井を見上げていた。
 長い間――幼い頃からずっと耐えていた闇を発露した次の日、爆発してしまった感情の波に身体がついてこられなかったせいか、幸村は微熱を出した。
 動けないほど悪いわけではないので大丈夫だと言った幸村に、元就は少し怒ったような口振りで寝ていろと命じている。
 それが気遣いだと知っている幸村は、思わず微笑んでしまい彼の機嫌を損ねたりもした。
 馬鹿馬鹿しいほど平凡な日々。
 その一つ一つが、幸村にとって――元就にとっても、いつの間にか大事な記憶となって降り積もっている。
 誰にも必要とされなくなって世界から切り離された二人が、それでも繋いだ掌の冷たさは、小さくとも確かに温かくなり始めていた。

「幸村、起きられるか」

 夕焼けに染まった空を背に、障子を開いた元就が寝所へと足を入れた。その手には、調律したての琵琶が大事そうに抱えられている。
 微熱だが元気はある幸村が暇そうに布団の上で横になっている姿を見て、流石に不憫になったのか持って来てくれたのだろう。
 幸村は自分の名を呼ばれ、嬉しそうにぱっと起き上がった。

「日頼殿、某はもう平気でござる。せめて寺の中くらいは自由に歩かせて下され」
「多少とはいえ熱は熱だろう。もう秋も終わりだ。また寝込むぞ」

 琵琶を受け渡しながら元就は溜息交じりで答えた。
 季節の変わり目と聞き、幸村はそういえばと鼻を鳴らした。
 空気が乾燥しはじめている。落ちた紅葉が腐葉土になったのか、独特の匂いも外から風で微かに流されてきた。
 既に晩秋なのだろう。暦を数えるものは寺の中に無いため、元就に尋ねても今がいつなのかは分からない。
 最後に覚えているのは長篠で戦った日。たしか梅雨の季節だったろうか。
 ならば此処で一つの季節を過ごしたになり、元就との生活は三ヶ月以上にも及ぶものとなっているのだと幸村は気付く。
 短くも思えたが、たった二人で暮らすには十分濃密な時間だ。

「って俺は何を考えているのだ!」

 慌てたように首を振った相手を怪訝そうに見ていた元就は、隣の部屋からもう一枚掛け布団を持ってきて幸村にかけた。

「こんなに宜しいのですか? 日頼殿の分は」
「ああ、暫くはお前が使っていて良い」

 元就の声が微かに揺れたことに幸村は気付いたが、彼が今どんな顔をしているのか分からず、言葉を紡ぐことに戸惑った。
 このようなやり取りは初めてではなく、幸村はその度に自分の目が使えないことに苛立ちを感じていた。
 彼の顔が見たい。彼の瞳が見たい。どんな表情をしているのか、どんな風に自分を見ているのか――。
 胸の奥の痞えが少しだけ取り除かれた幸村は、前よりも強く望むようになった。
 他の誰でもない幸村の名前を呼んでくれた彼の、せめて笑顔だけでも見たい。抱き締めてくれる時の優しい気配も、素直じゃない気位の高そうな口調も、分かるのに。
 彼の姿を、自分は知らない。
 最初で最後にこの目に映った、白い手の持ち主。それは幸村の想像の中にしかなく、いつも手探りで存在を確かめてばかり。彼だけがいればもう何も要らないと思っているというのに、あの手をもう一度見ることさえ叶わないという残酷な現実が悔しかった。
 ――もう夢想ばかりでは、心が満たされない。

「幸村。聞いているのか」
「あ、は、はい、何でござろうか」

 元就に肩を揺らされ、幸村は途端に顔を赤く染めた。
 疚しい気持ちがあるわけでもないのに、身体が飛び跳ねる。触れられた所が酷く熱く感じるのは、熱のせいだろうか。

「さっきから変な奴だ。もう一度言うぞ?」

 大きく溜息を吐いた元就は、先程話していた内容をもう一度聞かせた。
 明日の夜に来客が来るのだという。その客は身分が高い武家の者なので、もしかすると幸村の顔を知っているかもしれない。だから絶対に会わないようにと、元就は念を押す。
 そのため明日の朝は本堂の方で寝るよう、気配を醸す真似も控えろと言った。
 向こうは隙間風が吹き込むので、寒くならないよう布団を一枚増やしてくれたのだろうと察しがつく。
 しかし滑舌が良いはずの元就の、妙な歯切れの悪さが気になる。だが理由が分からないままでは尋ねることも憚られ、幸村はとりあえず頷いた。

「その方は長く此処におられるのですか?」
「三日もいないはずだ。その間だけ……すまない」

 幸村は瞠目した。
 元就が簡単に謝罪を口にすることは滅多にない。その上、謝るような内容が今の会話の中にはあったとは思えなかった。追われているこの身に対しての気遣いに、有難味さえ感じている。
 だが不思議そうな顔をしている幸村に対し、元就は力ない笑みを浮かべるだけでこれ以上何も言おうとはしなかった。

 琵琶を受け取った幸村は、音の具合を確かめるべく音色を弾く。
 元就はそれを側で見ながら、調節した弦がきちんとしているか確認していく。
 一通りの前奏を弾き終えて撥を放した幸村は、少し鮮明になった音に満足気に笑った。古い物を譲って貰った為に本体そのものはくたびれたままだが、元就が弦を丁寧に張り直してくれたのだろう。
 そう考え、幸村はふと首を傾げる。
 楽は嗜んでいたという元就は、勝一や幸村が弾いていた曲をきちんと理解していたからその言葉に偽りはないはずだ。
 しかし、彼が普段から琵琶や琴を弾いている様子は全くなかった。勝一とは寺に来る前に会ってからの久方ぶりに再会した様子だったため、幸村のように貰ったような形跡も無かった。
 ならば何故、この寺に張り直しできる弦が存在するのか。
 勿論、幸村は視界が利かなくなってから寺に居候している。自分が見ていないだけで、或いは元就が弾いていないだけで、この場所には何かしらの楽器があるのかもしれない。
 それでも一度浮かんでしまった違和感は拭えない。
 僧だと偽るために幸村が着ている袈裟は、無人となった古寺に残されていた物だと元就は言った。そして彼が着ている衣やここに敷かれている布団は、寺に入る際に持ち込まれたのだろうと予想は付く。天気の良い日には元就が干していることも、幸村は音で知っていた。
 だが、消耗品はどうやって補っているのだろう。
 細々ながらも毎日二食、元就と幸村は食卓を共にしている。一人分を二人で無理やり分けているから少ないのだと、元就は以前零していた。だがどう足掻いてやりくりしたとしても、底はいつか必ず尽きる。
 なのに元就が山を降りることは一切無かった。
 流石に寺の敷地から出ることもあるが、人里へ訪れている気配は全く無い。幸村が元就を探せば、長くとも半刻ほどで見つかるのだ。佐助に連れられて見た山中はそんな短時間で降りられる生易しい道程ではなかったはずだ。
 そこから考えると、誰かが定期的に元就へ物品を運んでいるのではないだろうか。食料は山の中でも補えなくも無いが、弦の件はそう考えると自然だ。
 幸村が毎日弾いて消耗しているそれを見とめ、元就が誰かに用意させたのかもしれない。
 ちらつく他人の影が、幸村の内側を小さく脅かす。
 ――元就の側に、自分以外の誰かが存在しているのだろうか。
 そこまで考えが及び、幸村は愕然とした。痛みだした頭を抱え、奥歯を噛み締める。
 誰よりも信じなくてはいけない人に疑念を抱き、あまつさえ第三者の存在を考えるだけで頭を殴られたような衝撃を覚える。
 相変わらず自分勝手な考え方に幸村は酷く苛立った。
 彼の一番が自分だったら良いのにと、勝手に望んで。彼のせいでは無いのに、勝手に沈んで。誰かの代わりになんて誰もなれないのだと元就は言っていたというのに、見たこともない彼の息子に感じた微かな羨望と似たような感情が、止め処なく湧き上っては理性を追い立てていく。

「幸村? 今日は何か可笑しいぞ。熱が上がっているのではないか?」

 冷えた手がふいに額を掠り、幸村の肩が跳ねた。
 温度差のせいか、むず痒いような感触に思わず鳥肌が立つ。この低体温がいつもは心地良くて溜まらないのに、元就が何かを隠しているかもしれないと浮かんだ疑念のせいか、それとも自分が惨めな男だと再度自覚をしたせいか、少しだけ腰が退けた。
 自分の顔が紅潮しているのか青褪めているのか、幸村は心配になった。
 元就の表情は見えない。彼の声が、気配が、僅かでも饒舌でなければ、相手がどう思って黙り込んだのか分からなくて不安になる。
 視界は今も薄暗い。
 どうしてこの目は見えないのだろう。せめて見えるのなら、こんなちっぽけな不安も、考えたくもない疑念も覚えずにすむだろうのに。
 苦しくて吐き出した息が熱い。脆弱になった心が情けなくて、ずっと弛んだままの涙腺から涙が浮かぶことが分かった。
 元就の手は幸村の熱を測り、着崩れていた上着を静かに掛け直してくれた。

「これでは本堂で寝起きするのは無理か」

 零された独り言。幸村は目の前が赤く染まることを感じた。
 まるで幸村がいると邪魔だと聞こえる台詞に、先程から沈みかけていた幸村はいとも簡単に闇へと蹴落とされた。

 ――此処にいては、いけない?
 ――貴方の側じゃないと、呼吸も出来ない自分を?
 ――自分ジャナイ誰カトハ会ウノニ?

 気が付けば元就の手を弾き、先程よりも大きく後ろへ身体を下げていた。唖然とした相手の様子を感じられたが、幸村自身も明確な拒絶をした自分に驚く。
 もう他に何も無い自分が、唯一の拠り所である元就を拒否した――身勝手な憶測だけで。
 そんなこと、あってはいけないことだったのに。

「あ、あの、日頼殿っ!」
「我は、邪魔になるな。とにかく養生していろ……」

 慌てて謝ろうとするものの、ふらりと力なく立ち上がった元就には届かない。
 弱々しい声が伝えたのは、さっきまで絶望していた幸村が感じたものと同種の感情。今度は幸村が与えてしまった、空虚な哀しみ。
 そんなことを言わせたいわけではなかった。我侭なのは自分の方だというのに、今、部屋から去ろうとしているのは元就だ。
 行かせたくなかった。このまま失うことなんて、到底できなかった。
 唐突に朧げだった視界が光を取り戻し、虚ろな背中が見える。掴む場所を失った白い手が、所在無く揺れていた。
 あの手を掴んだのは自分なのに、その手を裏切ろうとしているのは自分だ。
 離れてしまう。
 彼の手に、二度と触れられなくなる――。

「お待ち下され!!」

 幸村は無我夢中で、立ち去ろうとした元就の手を掴み寄せた。
 空いていたもう片方の手で彼の身体を反転させ、正面から力の限り抱き締める。抵抗するように元就は暴れたが、幸村は決して放すまいと細い肢体を腕の中に捕らえ、そして形の良い頤を一気にすくい上げると距離を完全に無くした。
 琥珀色の瞳が大きく見開かれた。
 突然の行為に朱の立ち上っている頬は、元の肌の白さとの対比が甘美に映る。
 間近でそれを見た幸村は、身体の奥が轟く感覚を覚えた。

「駄目だ、放せ幸村!」

 幸村に強要されたそれが、口付けだということをようやく理解した元就は、渾身の力を込めて彼の身体を引き剥がした。
 嫌悪感からなのか、上気していたはずの元就の顔は真っ青だ。
 震えている唇を見た幸村は、彼を怯えさせてしまったのだと思った。自分が何をしでかしたのか思い返して、とてつもない後悔が押し寄せてくる。
 元就は蒼白となったまま、逃げるようにして部屋から走り去って行った。
 遠ざかっていく足音を、幸村はただ呆然と聞いていた。
 触れた唇の熱さは鮮明に思い出せる。彼の浮かべていた綺麗な面差しも、脳裏にまざまざと焼き付いている。
 ――激情に駆られて拒絶した上、何て馬鹿な真似をしたのだろう。
 どうして抱擁では飽き足らず、口付けなんてしてしまったのだろう。これでは逃げられるに決まっているではないか。
 ようやく彼の顔を見られたというのに。彼の姿を見て、嫌な感情は全く浮かばなかったのに――。
 幸村はあの時すっぽりと自分の腕の中に入った元就の姿を思い返し、苦しげに両手で顔を覆った。
 甘くて苦しい想いが、全身を駆け巡る。
 冷静になってみれば、見知らぬ誰かに感じていた複雑な想いが嫉妬心だと理解できた。
 そして彼に触れられなくなると思って恐怖したのは、また一人になることが怖かっただけではない。
 何故、これほどまでに彼に想いが傾くのか。
 その感情の本当の意味に、ようやく幸村は気が付く。
 自分が元就に依存していることは身を持って知っている。己で紡いだ仮定にさえ、これほど傷付くほどに戻れない場所に立っていることにも。
 けれど守ってもらえるからではなく、失くした人々の穴埋めとしてでもなく、彼一人が存在する小さな世界でも幸村は本当に幸せだと感じてしまったのだ。
 ただ傍らにいて欲しいと願い、彼の助けになりたいと考えるたびに、何もできない事がもどかしい。失うことが耐え難くて、見ることの叶わぬ姿に夢を見て、その体温を感じるたびに泣きたくなるほど切なくなる。
 孤独から拾ってもらい、二人きりで過ごしてきた。
 自然の檻の中で惹かれることは必然であり、この想いは錯覚なのかもしれないけれど。
 それでも、自分は。

「お慕いしております日頼殿……否」

 許される想いではないとしても。彼を好いてしまったという現実が消せないくらい、大きくなっている。
 かつての仲間が見れば、自分を糾弾するだろうか。信玄や佐助が、或いは兄が、不甲斐無いと落胆するかもしれない。
 それでも、それでも――。

「お許し下さい、毛利殿」

 貴方を慕ってしまった罪深き己を、どうか。



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(2007/12/07)



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