02 二人ぼっちの森の中
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今目の前で流れている涙は、これまで彼が流したものの中で最も綺麗だと元就は無意識の内に感じていた。
自分を責めることで流していたものではなく、貴方の代わりに流したのだと笑いながら告げた幸村。
それを信じられないもののように、元就はただ見上げていた。
ぽつぽつと頬に降り注ぐ温かな雫。自責の念から流していたものと構成物は同一であるというのに、全く別物のようだ。
泣きながらも、陰りの無い笑顔を浮かべているせいだろうか。自身の闇を形にする決意をしたせいだろうか。
――長篠で垣間見た地獄。
彼が語り出したのは、元就が瀬戸内の海で見てきた絶望の光景そのものであった。
信じていた全てが一瞬で崩れ落ちた、あの日。
足元がおぼつかなくなるような紛れも無い現実は、裏切りという言葉で飾られている。
それが自分に対するものか、他人に対するものか。矛先に違いがあれども自身の基盤である存在理由そのものに、消えることの無い傷痕を刻んだことには変わりない。
「俺は、守るべき者達のために生きていたのに。だから強くなりたかったのに。お館様も、兄上も、佐助さえも助けられずにただ無力であった……」
口の端を強く噛み締めながら、ともすれば掠れそうになる声音を幸村は必死に紡ぎ続けた。
互いに抱き締めあった状態のまま、背中に回された少年の手は強く掴んで放そうとしない。親とはぐれる事に怯えている子供のようだ。
話を静かに聞いている元就は、触れ合う感触に何の嫌悪も抱くことは無かった。寧ろ自然とあやすような手付きになっている己に気付き、相手に分からないよう苦笑を浮かべた。
自分より背が高いのに、幸村は小さく見える。戦場ではあんなに真っ直ぐで、大きな光が魂の底から立ち上っていたというのに。
あの眩しい輝きに、元就は少しだけ羨ましさを感じていた。
あれが虎の焔かと、自らの力で輝いているわけではない自分が矮小な生き物だと思い知った。だからこそ苛立ち、躊躇無く刃を向けた。
元就はかつて毛利と戦った武田軍を、記憶の中で追いかける。
甲斐の虎自らが出陣していたあの戦に、はたして幸村の兄はいただろうかと疑念が湧いたのだ。
遥か西の地である中国まで伝わるほどの名声がある幸村に対して、その兄の情報は殆ど皆無に近い。以前に一時相対したことのある元就であっても、真田の家中については耳にはしなかった。
真田の忍は有名であるから、持ち帰ることのできる情報は少ないのだろうと当時の元就は割り切っていたのだが――。
「……日頼殿は“真田幸村”を見たことがあるのでござろう?」
「あ、ああ。確かに」
不思議な心持ちにさせられている元就に気付いたのか、幸村は微かに笑んで俯いた。
悔恨して項垂れているようにも見えた。
「幸村の兄の名は、信幸。父上が亡くなった時から、当主になられた真田家の長男……」
「真、田?」
幸村の言い回しが少し可笑しい。元就は怪訝そうに眉を顰め、彼の顔を覗き込んだ。
ぎくり、と背筋が強張る。
伸びた前髪の間から覗く大きな瞳は、真っ黒い闇に覆われている。亡霊のような、生きた屍のような――。
そんな目をしながら、幸村は笑っている。
「知っておりますか? 信幸と幸村はそっくりで、年子だと言われておりますがどちらが兄か弟なのか、真実を知る者はいないのですよ」
震えるように眦を歪めた幸村は、吼えるように叫んだ。
ずっと喉の奥に引っ掛かっていたつっかえを、ようやく許されて吐き出すように。
幼い慟哭に、元就は瞬きを忘れた。
「俺は弟として兄の影になるよう、父と母に言われ続けました! なのに、俺がお館様に認めてもらえたことから、父上は兄上を俺の影とするように命じられたのです!」
幸村の放った言葉に元就は息を呑む。
霧深い戦場で、見かけなかった幸村の兄。
元就は確かに“信幸”と会うことはなかった。何故ならあの時、信幸は――“幸村”だったのだから。
最後に一騎打ちで戦った相手は技量を見る限り、確かに幸村自身のはずだ。峻烈な魂の気配は、たとえ兄弟でも似せられるものではない。
しかし霧の晴れる前、騎馬隊が次々と突進してきた混乱の中で何度か出会い頭に打ち合ったのはどちらだろう。冷静な眼差しで元就を睨み付けた男は、幸村だったか信幸だったか。
嫡子である信幸が弟の影武者をするなぞ、本来ならば有り得ない。だが、幸村の名が一人歩きしている。武勇名高き若き虎は、日の本一の兵とまで畏怖されるような存在となった。
父親に兄の影となるべく命じられ続けてきた子供の武の才を、主君である信玄は見抜いたのだろう。
主の気に入りで武芸のある子と、嫡子ではあるが日の目を見ない子。奸計を好んだと言われる幸村の父が選ぶとすれば、どちらなのかは明白だ。
それに幸村の純朴な部分を見る限り、家族から完全に冷遇されてきたわけではないだろう。簡単に兄の影武者から引き立てられたことを思えば、本当は信幸よりも幸村の方が父親に気に入られていたのかもしれない。
ともかくそうして、幸村は幸村と生きることを許され、信幸は幸村として生きなければならない道を見せられた。
それがどれほどの虚無感をもたらすのか、元就は知っている。
――身代わり。
根深く残された身体の奥の傷が、酷く疼いたような気がした。
死んだ兄の身代わりにされた果てに捨てられた自分と、死んだ兄を身代わりにして屍のように生きる幸村。
より罪深いのはどちらだろうか。
「望まれていないことがどれだけ哀しいことか、幼い頃から俺は知っていたのに、俺は他の誰でもない“真田幸村”でいたかった。だから、兄上が俺のこと恨んでいてもいいから守るって、ずっと決めたのに……」
引き攣るような声は嗚咽交じりになっている。
元就は涙声になっていく幸村の背を摩りながら、かたかたと動くその身体をじっと抱き留め続けた。
それしか、今自分ができる事は何も無い。
「なのに兄上は、迷いもせずに俺の身代わりになられた。俺ばかりがお館様や皆に認められて羨ましかったって、悔しかったって言いながら、笑って――」
何かを思い出したのか、語尾が完全に涙で滲んだ。
そうまでしても信玄も助けることができず、最後まで側にいた佐助でさえも失った幸村は、雨の中で元就の手を掴んだ。
空っぽになってしまった炎の燃え滓と、肉体という器が惰性のように生きている人形の、滑稽な出会いを思い出した元就は目を細める。
幸村は溢れてくるものに耐え切れず、とうとう元就の肩口を熱い雫で濡らしている。感情の発露によって涙腺が弛んでいるのだろう。
夜の発作に似ている。察した元就は口を閉ざしたまま、おもむろに幸村の手を握る。空いた片手で、咽びながら身を震わせる身体をゆっくりと撫でた。
真田家は毛利家と同じく、かつては周りを有力な大名に囲まれていたと聞く。
幸村と信幸は幼き頃から人質として、各地を転々としていただろう。幸村の父は時折揶揄を込めて、主君を定めぬ卑しき者だと今でも暫し陰口を叩かれることがある。
戦乱の世だ。生き延びるためには自尊心なぞ安いもので、自国を守り栄えさせるためにはそうせざるおえない。元就もそうして生き残ってきた。
たとえどんなことを思われても、それが元就に与えられた使命だったから。
幸村が楽を学んだのは、きっとその頃――断定できるのは死んだ息子の気に入っていた都の楽こそ、かつて人質にやっていた頃に覚えてきたものだからだ。
人質に行った先で武芸を嗜むことを許す者は多い。気に入っている相手であれば、自ら教える将も少なくはない。
けれど幸村や信幸は、いつ牙を向くかも分からない男の息子だった。いつかあの子供が寝首を掻きに来るのではないかと、一瞬でも考えない者がはたして何人いるだろうか。
そして同時に、殺されるかもしれない不安に怯えないでいられた人質が何人いただろうか。
「……真田」
いまだに顔を上げることが出来ず、泣いている彼の名を呼ぶ。
幸村は歯を食い縛って、愚図るように首を微かに振るばかりで返事はなかった。
人質生活から解放された先で、死ぬために生まれてきたのだと親に告げられた子供は、どれだけの恐怖に駆られたか。
少なくとも幸村は、悪夢を見て狂い掛けるほどの精神負荷を感じた。それがたとえ自責の念から来るものだとしても、根底には幼児期に背負った暗闇が確かに存在する。
結果としてそこにいる幸村を見ていると、息が詰まりそうになる。元就がしていたことの行く末が、はっきりと目の前に提示されているようで。
虚ろに笑む姿は、自分の子等や部下達と重なった。
国を守るためにと敵地に置き去りにされ、己の影になれと――暗に死ねと命じていた自分に、彼等は何を思っていただろう。
確かに策として必要であり、或いはそうしなければならない場面も多々あった。それでも前に進まなくてはいけなかった。だからそうしてきたのに。
――その先にあった答えは、裏切りという形で元就に返された。
思考を巡らせる度に、冷たい氷が背筋を這い上がる。
おぞましい寒さに奥歯を噛み締めた元就は、襲ってくる恐れを抑え付けながら幸村の手を放した。そして両手で改めて、彼の背中に腕を回す。
震えているのははたして幸村なのか、自分なのか。量りかねながらも、元就は彼との間を密にした。
「真田」
一人は寂しい、と困ったように笑んでいたあの時の幸村が瞼の裏に浮かんだ。
一人じゃ自分が誰なのか分からなくなるから。寂しいことを知らないければ、嬉しいことも分からないからと、あの時幸村はお互いの影を演じていた哀れな自分達兄弟を思いながら言ったのだろう。どちらがどちらなのか混ざり合い半ば同化しつつあった兄と弟が、それでも確立した一人の人間として存在したいと願っているのだと、少ない言葉で語っていたのだ。
そして。
貴方がいればもう何も要らない、と。
欲しがったために全てを失ったと思っている幸村が、それでも最後に望んだものは。
「……笑ってくれ、幸村」
幸村は閉ざしていた瞼を少しだけ開けた。
暗かった闇が少しだけ明るくなり、ぼんやりとした何かを捉えた。それが本当に元就だと確認するように、幸村は慎重な動作で細めの身体の輪郭を探る。
たどたどしい動きをする掌には、肉刺の潰れた痕が幾つも残っていた。拾った時は堅かったその肌も、物を殆ど持たなくなったためか僅かに柔らかくなっていた。
目の見えぬ大きな子供の体温を感じながら、元就は彼の手に示されている流れた月日を思い返した。
自分達は何をやっているのだろうと訴える疑問が何度も、今でさえも浮かぶというのに、結局答えは出ないまま――いや、敢えて出せないままだけれど。
「もっと」
赤子のように舌足らずな声で、幸村は強請った。
「もっと、呼んで下され」
縋るように心臓の上に手を置きながら、明るい茶色の双眸で元就だけを見つめながら何度もせがむ。
虹彩の開いた瞳に自分の顔が映し込まれた。なのに幸村には分からないのだと思うと妙に歯痒く、同時に安堵と恐怖が芽生えてくる。
「ゆき、むら」
「日頼殿……」
泣き腫らした顔だったけれど、もう幸村の頬に新たな雫は伝っていない。小さくても温かな笑顔が浮かんでいた。
それを見届けた元就は切なくなる気持ちを封じながら、己の額と幸村の額を合わせて目を伏せた。
重ねられた幸村の声を、聞こえないふりをして。
「貴方の御顔が見たいです……」
――お前の目に映りたいのは、自分も同じなのに。
正体を知った時、幸村は離れていくだろう。
それが今は、とてつもなく怖かった。
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(2007/12/05)
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