02 二人ぼっちの森の中


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 稀な訪問者が去った後、再び二人きりの生活が始まった。単調な日々に大きな変化は無い。同じように日の出と共に起床して、日の入りと共に就寝する。
 あえて違う点は、静まり返っていた森の中に琵琶の音が響き始めたことだろう。たどたどしかったそれは日を追うごとに、少しずつ洗練されていく。
 幸村はその小さな変化が嬉しくて、毎日のように勝一に貰った琵琶を弾いている。
 それを傍で元就が見ていた。瞳に映らなくとも、感じる気配が以前よりも柔らかく自分を見守ってくれていることが幸村にとって何よりもの至福の時であった。
 けれど幸村は、勝一の訪れたあの日から元就が自分の後ろに誰かを重ねているように見つめていると感じていた。
 ここにはいない誰かを見ている遠い眼差し。
 手に入らないと分かっている悲しい瞳。
 注がれる感情の意図を、幸村は知り過ぎているくらいに理解していた。自分の中に自分以外の者を求めている。その事実はいつだって、幸村の自己意識を痛ましいほど否定する。
 自分じゃ駄目なのか。
 やはり自分は、紛い物でしかないのか――。
 形を潜め始めていた闇が、再び噴出してくるような苦い感覚。一人ではないという安心感は、ある種の恐怖観念へと摩り替わっている。
 もう他に誰もいない。元就にすらそんな目で見られてしまえば、幸村に居所はなくなってしまうのだ。
 彼の傍にいることで落ち着いていた自虐的な意思は、夜になると幸村を何度でも狂わせた。
 一時的には治まり掛けていた症状のぶり返しに、抑揚のない元就の声が微かに心配そうに掠れることが幸村は嬉しかった。その瞬間だけは確かに彼は自分を見ているのだと言い切れる。
 けれど同時に、身勝手な己の想いに振り回されている相手へ罪悪感を覚えていた。
 元就の細腕は、夜間に叫びながら目覚める幸村を必ず抱き締めてくれる。だがその度に触れ合う肌から伝わる体温は常に低かった。
 以前出会ったばかりの時に触った手はそれほど冷たく感じなかったことを考えれば、十中八九幸村のせいで変調をきたしているのと言えるだろう。
 彼の体調を崩させているという申し訳なさ、そしてそれが他ならぬ自分のためという優越感に、幸村は軽い嫌悪感に苛まれていた。
 最後の音を弦で弾き終わり、幸村は顔を上げた。
 そうしたって元就の姿が見えるわけではないのだが、会話したい時に相手の顔を見ないことは失礼に当たるだろうと幸村は思っている。
 何より、たとえ瞳に映らなくても幸村の中ではそこに彼が確かに存在するのだ。そこから視線を逸らしてしまえば、側にある温かな気配は本当の幻になってしまう。

「随分と弾き慣れているな。元から習っていたのか」
「戦場に頻繁に立つようになってからは弾いていなかったのですが、楽は一通り。琵琶を弾くのは初めてでござる」

 褒めてくれる優しい口調が照れ臭い。
 微かに赤くなった頬を掻きながら、幸村は苦笑交じりに応えた。裏を返せば、戦いに行かないため弾き始めたということだ。
 自虐的な考えが過ぎった幸村をどう思っているのか、元就は暫し黙り込む。
 妙な空白に居心地が悪くなり、幸村は口を無理やり開いた。

「日頼殿は楽を学ばれたことが?」
「あるぞ。一通り、な」

 くすりと笑んだだろう元就に、幸村はむず痒さを覚えて微笑んだ。
 視覚を失った世界では小さな言葉遊びも無性に楽しい。琵琶を弾いていた間に感じていた暗い思考も今はなく、相手が自分という人間をきちんと見ているのだと実感する。
 幸村の肩から若干力が抜けたことを目聡く気付いた元就は、少しだけ困った顔を浮かべながら相手の手元を見下ろす。
 視線を感じ、幸村が不思議そうに首を傾げた。

「息子が、都の楽を好んでいた。自分でも学んだくせに、我に弾いて欲しいとよくせがんできたものだ」

 全身を凍らせた幸村の手から、琵琶が音を立てて床へと落ちた。
 一瞬にしてこの古寺での出来事が脳裏を駆け巡っていく。
 此処に来てからの思い出はすなわち元就との思い出だ。
 彼から貰ったささやかな存在意義――自分が自分として生きていても良いのだという、ちっぽけでありながらもあの時一番欲しかった許し。
 だが与えられた優しさは自分ではなく、違う人間に注ぎたかったものなのだろうと幸村は察してしまった。琵琶を弾くようになってから感じていた、疑心暗鬼から生まれた違和感は真実であったのだと理解する。
 迫り上がってくる得体の知れない震えに、幸村は嘔吐感さえ覚えた。
 ――また、なのか。

「俺は、その人の、代わりなのですか」

 ぽつりと呟き落とした声をどう受け取ったのか、無意識に元就は嘲笑う。
 怖がっている幸村に対してまるでお門違いだと言わんばかりに、皮肉気に口の端をつり上げた。
 当の本人同士には見えないそれは、深い諦念と虚無を孕んでいた。
 幸村の目が正常であれば気付けただろう。その笑い方が、自分と同じ傷を膿ませていることに。

「誰かの代わりになんてなれるわけが無い」

 絶句した幸村も目に入らない様子で、元就は口を動かした。
 内側に澱みながらも飲み込み続けた暗いものを、ようやく吐き出そうとするように。

「代わりになんて、なれるはずないのだ。我は何処までいっても、所詮自分を捨てきれずにいて……望まれていなかったが、本当は代理品でも構わなかったのに……どうして……」
「日頼殿?」

 異変を感じた幸村は、未だに震える身体を支えながらも顔を上げた。
 別の何かに話しかけているような、歪む元就の声。それは泣くのを我慢している迷子のように頼りなく聞こえた。
 その底の見えない闇が宿る言葉達に、幸村は顔をさっと青褪めさせた。
 今の彼は、自分と同じなのではないだろうかと感じてしまった。
 胸の奥から響いてくる非難の叫びに向かって、ただ謝り続けている自分。もうどうすることも出来なくて。何をすれば許してもらえるのか、贖罪されるのか。有りの侭の自分でいられるのか、存在していていいのかが分からなくて。
 どうして、と。虚しく問うことばかりを繰り返してしまうことしか、できない自分と。
 白い指先が幸村の落とした琵琶を拾い上げ、静かに弾き始める。流れ出したのは哀愁漂う旋律。貴族社会を押し退けて繁栄を極めたと思えば、一転して斜陽の一途を辿る――無常なる世を鮮やかに駆け抜けていった、平家の物語が奏でられた。
 幸村の弾いていたものと同じであるというのに、そこにある音の感情の幅がさらに曲の情緒を浮き出している。
 これは悲しみだ。
 呼吸も忘れかけそうになっていた幸村は、耳に入り込んできた音楽に少しだけ冷静さを取り戻す。
 そうして理解した。
 奏者の内に息衝いているのは、慟哭すらできないほどの深い虚無感。空っぽの自分を改めて知ってしまったからこその、無力な己に苛立ちながらも何もできないことを悟ってしまっているから――。

「もう止めて下されっ!」

 琵琶が膝に当たったが、気にも留めずに幸村は元就を力一杯抱き締めた。微かに強張った身体をそれでも幸村は放せずに、彼が何処かに行ってしまわぬよう必死で繋ぎ止める。
 自分は何て馬鹿なことを聞いてしまったのだろう、と後悔が一気に押し寄せた。
 幸村はまだ自分の事情を話していない。そして元就の事情も尋ねたりはしていない。
 だが己の紡いだ言葉は、その不透明であり不可侵であった領域を土足で冒したのだ。幸村自身ですら、覚悟ができていないからこそ言えずにいる薄暗い事実がある。いくら不安感に煽られたからといって、元就のそれに無遠慮に立ち入って良い筈がない。
 自分がされてしまえばきっと酷く傷付くだろうと、気付いてしまったからこそそう思った。

「俺は最低だ。守られることばかり求めて、貴方をちっとも救えない」
「何を言うのだ真田。我がいつ助けを乞うた?」

 言い淀んだ元就の台詞に、幸村は大きく首を振った。
 彼が表に感情的なものを大きく出すことはないと、これまでの生活の中で知っている。出せないのだと、出す術を知らないのだと分かっている。
 だが、元就からじわりと滲み出る愁いの気配を、この身は常に感じていた。
 元就のためにできることがいつまで経っても見つけられず、誰かに頼らずとも平気だと装う元就自身に対しても、幾度となく苦しい歯痒さが胸の中を焦らせた。

「俺には見える。こんな目だけれど、貴方の泣いているお姿が」

 哀しいくせに。寂しいくせに。
 それを吐き出せないこの人は、これ以上何処へ堕ちていくというのだろうか。

 腕の中の人は、自分にとって只管養い親のように接し続けた。彼の本当の息子は、きっと、死んでしまっているというのにその心中を微塵も漏らすことなく。
 知らなかった己の浅はかさが、愚かで仕方がない。何て軽々しく、馬鹿なことを聞いてしまったのだろうと幸村の中に後悔が一挙として押し寄せる。
 自分を構ってくれることに喜びを感じる前に、何故琵琶を習おうかと考えたのかをもう一度思い出すべきだったのだ。
 気休めでも構わないから、少しでも彼が安らげば良いと。それだけを純粋に願ったあの瞬間を。
 元就は黙り込み、握っていた琵琶からそっと手を放した。
 隔てる物の無くなった隙間を埋めるように、幸村はますます腕に力を込めた。
 何も言わない元就に、幸村もまた何も聞かなかった。ただ泣かないのかと、それだけを問う。
 胸の中の頭が左右に微かに動き、力なく垂れ下がっていた手がゆっくりと幸村の背中へと回された。それは幸村が今思っていることに対しての、肯定でもあった。
 重ねられたのは死者の面影。もう何処にもない幻の情景。
 幸村が自己を否定されることに怯えていたように、元就もまた誰かの代わりになんてなれないことを、痛みと引き換えに知っている。
 だからこそ元就が見ていたものは、身代わりなどではなく憧憬だったのだろう。
 幸村が信玄を見て、亡くした父にもこのように接して貰いたかったと時折意味も無く考えてしまっていたような、ささやかでありながら叶わないと分かっていた事と同様だろう。
 嘆息を吐き出した幸村は、一層頼りなく感じるその身体が消えていかないようにと強く掻き抱いた。
 似通っているが、自分より強くて同じように弱い彼が切ない。

「申し訳ござらぬ。軽率なことを申しました」
「……何故そなたが泣くのだ」

 知らずに涙が頬を勝手に伝っていた。不思議そうに見上げてくる元就に、幸村は笑みを返す。
 虚ろな泣き顔ばかりを見ていた元就は、穏やかなその表情に素直に驚く。
 幸村はそれに気が付き、初めて自分は、自分のためではない涙を流せたのだと知った。

「日頼殿の涙が、この目を通して流れ出しているのでござろう」
「可笑しなことを言う男だ」

 くすくすと転がる笑い声が小さく響く。
 元就が笑ってくれたことに、幸村は幸福感を覚えた。身体の奥に温かさが宿る。
 昔は兄が撫でてくれるたびに感じていた不器用で優しい温もりは、泣いていた幸村の慰めにはなったけれど奥底までを温めてはくれなかった。
 けれど元就の指先は。
 闇の中で狂い掛ける幸村を引き止めるその手は、まるで同じ温度を保って奥まで入り込んでいくように抵抗感がなかった。
 寂しいという名前の付いた冷たい温度。
 それが二つになっただけで反作用したかのように、胸の底にはいつからかひっそりと熱が生まれていた。
 吹き消されてしまえば、すぐにでも消えてしまいそうになる小さな火。けれど二人ならば、十分すぎるほど優しい光。
 幸村は俯かせていた顔を上げて、元就の方に向き直った。掴んだ手に、無意識の内に力が篭る。
 きっと今なら大丈夫。
 この灯火が消えない内は、きっと――。

「日頼殿。話を、聞いて下さらぬか。本来ならばここにいなかったはずの、愚かな“真田幸村”という男の話を」
 



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(2007/06/20)



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