02 二人ぼっちの森の中
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しばらく誰の来訪も無かったところへ、突然勝一がやって来たことに元就は然したる驚きは感じなかったが、売られて世間から抹消された人間に今更何の用があるのだろうかと純粋な疑問は湧き上がった。
既に毛利の主は元就ではない。故に勝一の主もまた、元就ではないのだ。
豊臣から何か言われて来たのだろうかと訝しく思うものの、何より最初に脳裏に浮かんだのは幸村の事であった。
まさか既に外部に露見しているのだろうかと内心で焦るものの、目の見えぬ勝一ならば突然の失明の原因が分かるかもしれないという期待が微かに過ぎる。
表面にそんな思いが出てしまったのか、相手を迎え入れる時に微かに声が上擦った。
耳の良い勝一にはしっかりと伝わってしまったようで、穏やかな微笑を湛えられてしまう。
珍しいですな、とまで言われると元就も反論を吐き出すことはなかった。
「何用で参った。毛利の主は隆元だろう。既に縁は切れたも同然の我に、危険を冒してまで訪ねるなど血迷うたか」
元就が幽閉同然に置かれているこの寺は、自然の牢獄である。
麓の集落は竹中の息がかかっており、山を降りればすぐにばれる。定期的に半兵衛の使いも――彼自身も――やって来る為、脱走すれば発覚は容易い。
逆を言えば、山に登っていく者も逐一報告されているのだ。
琵琶法師一人が旅をしていることは珍しくない光景だろう。しかし表沙汰にはなっていないとは言え、勝一は毛利に仕えている者である。
半兵衛が毛利の内部情報を掴んでいないわけがない。
もしも勝一がここにいることが伝われば、元就と毛利の癒着がまだあるのだと言い掛かりをつけられかねない。それは毛利を糾弾するのには格好の理由となり、今こうして元就が死さえも選ばずに生き延びている意味さえも失うこととなるだろう。
それだけは、決して許せるものではない。
毛利から捨てられようが、世間から消されようが、元就には家を守るということだけが行動理念だ。自分がどうなろうとも、毛利の家が絶えるような真似だけはさせたくない。
急に黙り込んで俯いた元就を、勝一は見えない目でどう思ったのだろう。
背負っていた琵琶を膝の上に置いた彼は、肩の力を抜くようにふっと溜息を吐き出した。
「我らの主は、御存命の限り元就様に御座います。初めにお約束致しました」
「ふん、相変わらずだな。そう言うにはまだ豊臣に貴様達の存在を悟られておらぬということか」
口の端を皮肉気に元就はつり上げる。
戦場で策が成った際によく浮かべていたものだが、もう何年もそうしていないような感覚に襲われる。戦場の臭いももう思い出せない。敵の呪いの言葉も、味方の悲痛な慟哭も、血に塗れた己の掌でさえぼんやりと記憶の海に漂うだけだ。
虚しさが込み上げる。
諜報として泳がせている勝一達の存在が未だ秘密裏にされていることが、今の自分にとって有利か不利かなど関係は無い。
いずれにせよ動けやしないのだ。この場所からは。
「元就様、今から申し上げることを心してお聞き下さいませ」
曖昧な微笑みを湛えていた勝一は不意に沈黙を破り、目を開いた。
世界を何も映さない瞳は、見えないはずの元就を射抜くように鋭い。彼の纏う緊張感が肌を刺して伝わった。
良くない知らせだ。
直感的に感じた元就は一瞬だけ瞼を伏せ、そして盲人の視線を真っ直ぐと受け止めようとした。言い渡される現実が、どれだけ逃げ出したいものだとしても――。
「隆元様がお亡くなりになりました」
元就は、力の入らぬ手を畳みの上にぽとりと落とした。
戦慄く背中の震えは止まらない。指先が痙攣しているように、掌の上で意味も無い動作を繰り返している。
姿勢だけは崩さなかったものの、その双眸は瞬きさえも忘れていた。
呼吸が微かに止まっていた喉元から、元就はどうにか声を絞り出そうとする。掠れる言葉の端々に、勝一が眉を顰めた。
「何時、だ」
「半月前にございます。病に倒れ、すぐに逝かれたと」
嗚呼、と嘆息が吐き出される。
元就は視線をとうとう下ろして、自分の影に囲まれた世界をじっと睨み付けた。薄闇は自問自答の場となり、責め立ててくる誰かの怨言が脳裏に響き渡る。
――また殺したのだろう。またお前が殺した。
お前がいるから皆が呪い殺されるのだ。その証拠に、誰もが戦では無い場所で死ぬ。お前の汚いその手で謀殺され、或いは病に侵されて。
どうせお前は一人だ。一人で死んでゆく運命なのだ――。
吐き気がする。胸が痛い。身を守るように蹲った元就を、勝一はただ悲しげに見やるだけ。主の奥底にある傷が疼いているだろう今、半端な言葉は抉るだけのものでしかない。
同情も情けも優しさも、元就に何の温かさも灯してはくれないのだ。
分かっているからこそ辛く、勝一は琵琶を抱え直した。
「幸鶴丸が毛利を継いだのか」
静かに弾かれ始めた琵琶の音色に、僅かなりとも陰鬱に揺さぶられていた心の波が静まることを感じ、元就は呟くように言った。
勝一は前奏の最中に小さく頷き、ゆっくりと語り始める。無常の世を、それでも受け入れなければならないという哀しみが、琵琶と共に歌われていった。
亡き隆元の幼い長子が跡を継いだとなれば、ますます豊臣による政治介入が激しくなるだろう。両川の息子達や家臣がどこまで耐えられるかが、毛利の明暗を分けている。
それを知っても自分には何もできない。既にこの手を離れているのだと痛烈に感じ取り、元就は黙って寂しげな平曲に耳を傾けた。
悲報を耳にしてもできる事はなく。葬列にも参加できない身の上であるから、せめてあのお人好しで頑固だった子供の冥福を祈るばかりだ。
最後に見た隆元は、辛そうに視線を下げて決して元就を見ることはなかった。あれが今生の別れだったなんて。
酷く、虚しかった。
不意に幸村の笑顔が浮かぶ。
寂しいという気持ちは、このようなものなのだろうか。全てを失ったと泣いていた彼は、こんなにも空虚で苦しい感情を抱きかかえていたのだろうか。
――闇へと謝罪する彼は、自分と同じように内から放たれる怨嗟の声をずっと聞いていたのだろうか。
「……勝一。我は人を拾ったのだ」
噛み砕くように、元就はゆっくりと話し始めた。
無力で無用な自分には、毛利のために怠惰的にでも供物として生き続けることしか出来ない。毛利のための思考は捨てねばならず、それは元就自身を丸ごと打ち捨てるようなものだった。
それでも未練がましく目の前に存在する幸村に対して、何かできることがあるのではないかと模索してしまう。自分の存在意義を確かめるための、醜い利己的な思いのため。
「毎夜のように絶望の淵に立たされているというのに、あやつは笑うのだ」
目が見えなくなっても。自分と同じように全てを失っても。
貴方が傍にいるだけで良いのだと、照れ臭そうに笑うだけで。
幸村は多くを求めようとはしなかった。ただ手を取ったというだけの元就に縋るような懸命さを見せながらも、無欲にも程近いほど何も望まない。
早々と死んだ祖父や父、兄の代わりとして、元就は科せられる責務の重さを常々感じていた。やがては感覚が麻痺してしまい、重石が乗っていることにも気付かなくなり――そうして皆が望んだ者ではなくなっていたことも悟れずに、掌を一気に翻させられた。
身代わりは身代わりでしかなかったことを、元就は知った。偽物は本物になれないのだと、取り返しが付かなくなってから理解した。
そうあれと望んだのはお前達だと弱い心が嘆いたが、今更喚いても何の解決にもならない。ぼんやりとあの日のことを反芻しながら日々を過ごしてきたが、他にどうすれば良かったのか今となってさえ分からなかった。
こんな自分は要らないのだと。それだけは、確かな事で。
「最早不要な人間である我を、奴は必要だと求めたのだ」
内へと語りかけるような形となった台詞だったが、勝一は静かにそれを聞いている。
元就は独白めいた言葉を何より自身に知らしめる為に紡ぐ。
口にすれば認めてしまうことになるから、ずっと沈黙を保ち続けた心情。声に出せば途端に嘘になってしまう暗い世界で生きてきた元就だからこそ、頑なに封じてきたもの。
しかし幸村は言ったのだ。幸村だけが微笑みながら、嘘は付かないと、見えない瞳でしっかりと自分を見たのだ――。
勝一は琵琶を弾くことを止め、俯いた主を眺めた。
元就の言うその人は今、元就と同じ闇を胸の内に飼っているのだろうと思う。互いに失くしたものが暗い影を落としている。過去の古傷を抉るように、その黒い蟠りは大きくて辛辣だ。
世界に必要されなくなった者同士が、二人きりの場所で出会ってしまえば求め合うことは当然の成り行きだろう。
歪な必然性の名は、錯覚だ。
だが勝一は、元就がそれに気付いているということを知っている。理解している彼が、裏切られるのではないかという危機感を常に持っている彼が、手を振り払わずにいる意味。それが分からぬほど勝一は付き合いが短くは無い。
「真っ直ぐな方なのですね、その人は」
「そうだな。馬鹿が付くぐらいに、な」
――そうやって共犯者のようにこっそり笑い合ったのが、つい先程。
幸村と直接会った勝一は、元就に気付かれぬように安堵の息を零していた。良い方と巡り会えたと思う。
うやむやのまま元就の内に積もった哀しみを、彼ならば同情などではなく正面から理解してくれるだろうと。
「勝一殿、こうでござるか」
琵琶を見様見真似で操ろうとする姿は、無邪気な子供に見える。
元就は親子以上に歳の離れている二人を静かに眺め、己の家族であった者達をそっと思い出した。
穏やかだった隆元。いつでも強気だった元春。兄想いの隆景。
共に支え合えと言い残した子供達。もう、三人で揃うこともできなくなった兄弟。不甲斐無い自分のせいで、父親を売るような真似をさせてしまった彼らは既に欠けてしまった。
元々さほど身体の強くなかった隆元は、きっと己を責めたのだろう。生真面目だったから謀略を使い、元就を陥れたことをずっと気に病んでいたはずだ。きっと瀬戸内でのことが、命を落とした原因の半分を占めている。
――何故お前が生きているのだ。
幼かった元就を、酔った勢いで責め立てていた実父の怒声が脳裏に響く。重なるように兄の声が聞こえる。毛利を継ぐために殺した弟の声が叫んでいる。
激しく降り掛かる非難の言葉に、耳を塞ぎたくなった。
いつものように通り過ぎるのをただ只管待ち続ける。けれど静まり返った後にぽつりと囁かれた息子の言葉で、血の気が退いていく感覚が全身を駆け巡った。
――貴方は私を、毛利までも殺す存在なのですね。
「日頼殿?」
大きな瞳に覗き込まれ、元就ははっと顔を上げた。
真っ黒に染まる暗闇は無く、日向の匂いのする幸村が自分の腕をそっと掴んでいた。まだ太陽のような強さは無いけれど、まるで小さな陽だまりのような温かさで冷えた元就の身体を慰めた。
これは傷の舐め合いのようなものだというのに。
互いの利己心が生んだ、紛い物の触れ合いだというのに。
幸村が傍にいることが微かに残った救いのように感じられ、掴んでいた手を元就はそっと握り返した。
勝一はその拙い触れ合いを、黙って見守っていた。
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(2007/05/31)
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