02 二人ぼっちの森の中
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琵琶の音色が人気の無い森の中、たゆたうように紡がれていく。
寂れた本堂で一人黙祷していた幸村は、響いてきたその音にしばらく耳を寄せた。
今日はこの古寺に珍しい来客があったのだが、きっとその人が奏でているのだろうと思い立つ。視力が回復していない幸村にはその人がどんな人物なのか見ていない。ただ優しそうな声が来訪を告げ、日頼――元就は客を奥の部屋へと誘ったところまでは聞こえた。
彼の知人なのだろうか、と幸村は見えない瞼を開いた。
「見事な音色だ。どなたなのだろうか」
幸村は立ち上がり、本堂を後にする。音源の方向へとゆっくりと歩み出した。
拾われてから何ヶ月経ったのか、元就も幸村も正確な時間は知らない。
ただ幸村は一人で動けるようになり、見えない視界にも慣れて来たため元就の手を借りずとも出歩ける位にはなった。
始めは真っ暗で何も見えないと思っていたのだが、明暗が強い場所であれば何となく物の配置は分かった。天気の良い昼間はそのおかげでどうにか行動できる。
完全に失明したわけではないと二人して安堵したが、現状としてはやはり幸村は戦場に帰れないだろう。
何より幸村は、依然として幻の己の姿を見て狂ったように叫んでいた。回数は随分と減ったものの、植え付けられた自責の念が強すぎたせいか全てを失くした雨の日になると、必ず元就の側にいたがった。
元就はそれを拒むことなく、頭を垂れた幸村の手を握っていてくれた。
――彼は自分のことをどう思っているだろう。
幸村が最近考えることは、元就のことばかりだった。突然現れた自分を拾った彼に恩義を感じるのは確かだが、それ以上に何か引っ掛かるものを感じていた。
相手の顔さえ見えない今が歯痒い。耳を擽る理知的な声音が、時折泣いているように聞こえてくる時があった。震えているわけでも、掠れているわけでもないのに、彼は辛そうな表情をして自分を見ているのだろうと思うことがある。
この目でそれを確かめられないことができないなんて悔しかった。
自分は周りにいつも助けてもらってばかりだと、廊下を少しずつ進みながら幸村は唇を噛み締めた。
傍にいてくれるだけでも穏やかな気持ちになれるというのに、元就に対して恩を返せない己の無力さが遣る瀬無い。
幸村のことを知っていながらも、毎晩のようにみっともない姿を晒していても、黙って彼は介抱を続けてくれた。我侭のように側に居てくれと乞っても、突き放されたことは今まで一度もなかった。
(俺は、あの方の重荷になっていないだろうか)
ずっと幸村はそれが聞けずにいる。聞いてしまえばこの日常が壊れてしまうのではないかと、内心では酷く恐れていた。だから目が見えないままで良いのか、治って欲しいと思っているのか、自分自身でもどっちつかずだった。
この手を掴まれたのは、憐れみが半分あるだろう。幸村はそう信じている。
だからこそ彼の事が余計に気になるのだ。では一体、残りの半分は何なのだろうと。
「おや、他にも客人がいたのかね」
考え事をしながらも注意深く歩いていた幸村は、いつの間にか琵琶の音が途切れていたことに気付いた。
聞こえてきた声の方向を向くが、来客者の姿はぼんやりとした何かとしてしか視界に映らない。自分が邪魔なのか、それとも歓迎されているのか、表情が読めないために幸村は少しだけ困惑した。
長く共にいれば声の調子で分かるのだが、初めて会った相手では当たり前だが無理な話だ。
「客ではない。先程話した同居者だ」
「元な……いえ、日頼殿が拾われた方ですか。どうも初めまして」
ゆったりとした温和な喋り方から好意的に思われているのだと感じた幸村は、慌てて座って姿勢を正した。
随分な年上だろうと感じ、やたらと肩に力が入ってしまう。
「は、初めましてでござる! 某、じゃなくて拙僧、伝心月叟と申す」
「武士のような物言いをしていらっしゃる。少し前まで戦場に居られたのですなあ」
少々上擦った声音で幸村は名前を述べた。それが可笑しかったようで、相手はくすくすと笑った。
幸村は元就の溜息に気付き、恥ずかしそうに俯いた。
いつ追っ手がやって来るか分からない幸村に、元就は僧になったように装うよう言った。寺の中は一般的に、俗世とは切り離されていると考えられている。そのためあまり戦は飛び火しないし、出家したと言えば命を狙われる可能性が随分と低くなる。
何より幸村自身、武士としての生き方を見失ってしまっているのが現状だ。
僧になることに少しは抵抗感があったが、最早武器も握れなくなった自分ができることなど高が知れている。長篠の地で死んだ人々のために念仏を唱えることくらいしか、もうやれる事はないのだ。
目の前に座る客人はそんな幸村の事情を何となく察したようで、一向に治らない口調にも軽く笑うだけだった。
これがもしも追っ手の者であったらと思うと、少しぞっとする。
幸村は微かに震えた二の腕を抑え付け、前を真っ直ぐと向いた。自分を探していたのは、長篠で対決した織田の手の者だ。下手人がどう出るか分からないが、第六天魔王ならば寺だろうが社だろうがそこに敵がいるのならば容赦なく攻めかかるだろう。
鉄砲の音が脳裏で響き、幸村は腕を掴んだ手に力を篭めた。
「わたくしは琵琶法師の勝一と申します。日頼殿とは、そうですな、腐れ縁という奴ですか」
不安定な幸村を安心させるように、にこにこと人の良さそうな笑顔を勝一は向けた。
盲目である二人が顔を見合わせているという不思議な状況に、元就だけが呆れたような視線を双方に投げている。
勿論幸村はそんなことに気付いてはおらず、琵琶法師、と鸚鵡返しに呟く。
相手が自分と同じ盲人の僧なのだと、この時初めて理解した。
「もしや日頼殿、彼の目が不自由になられたのですね?」
「ああ。頭は打っていなかったようなのだが、突然見えなくなったのだ。何ぞ心当たりはあるか」
会話の流れから見ると、どうやら勝一は自分の目の事で相談されていたらしい。
幸村は元就の気配がする方向を横目で見てみる。そこに映るのは黒い影だけで、相手の姿は見えない。けれども、やはり彼は己の体調を気にかけているのだと、それだけは確実に分かった。
無愛想な声は素直な好意を告げてはくれないが、幸村は元就の控え目で臆病にも思えるそんな優しさが好きだった。
勝一はしばし思案していたが、言っていいものかと問うように元就の方を見やる。
無言で元就は頷く。許可が降りたことを確認した勝一は、幸村へ向き直った。
「月叟殿。患いをお持ちではありませぬか」
幸村は己の身体について考えたが、体力は落ちているものの熱も下がっていて特に問題があるようには思えなかった。
思い当たらず呆けてしてしまった幸村の代わりに、元就は静かに眉を顰める。
「今は特に病など罹ってはおりませぬが」
「肉体ではございません。御心の患いにございます」
勝一は孫を諭すようにゆっくりと説明した。
自分達のような琵琶法師は生まれつき目が見えず、そのために多くが寺へと預けられる。先天性の盲目とは一生付き合わなくてはならない。
だが幸村の場合は違う。
彼の目は、元就に拾われる直前まで確かに見えていたのだ。
「酷い高熱などで失明する者もいます。しかし日頼殿から窺った貴方の様子からすると……貴方には、見たくないものがあったようですね」
心臓を鷲掴みされたような気がして、幸村の背筋に冷やりとしたものが走った。
見たくないもの。信じたくないもの。――認めたくないもの。
ここまで逃げてくる間に、幸村は確かに何度も何度もそう願った。現実が夢であるようにと。目の前で散っていく命の儚さに押し潰されそうになりながら、生きろと言われるがままに突き動かされ。けれど死んでしまいたいとも思いながら、いっそ何も知らなければ良かったと、絶望を幾度と無く味わった。
自らを縛り付けて止まない言霊は、嘲りながら幸村に思い出させる。根底に刻まれた最初の暗闇からは決して逃れはしないのだと教えるかのように。
「人は極度に精神的圧迫を覚えると、現実から目を逸らしたいと思います。貴方の場合はその暗示が強すぎて、実際に視力が萎えてしまったのでしょう」
「では一時的なものか」
絶句している幸村を横目で見ながら元就は尋ねる。
琵琶を握りながら勝一は目を伏せ、ゆっくりと首を左右に振った。
「突然治ることもあれば、ずっとこのままであるかもしれません。彼が自己暗示を跳ね除けられるほど強く望めば、或いは」
申し訳無さそうに語尾を弱める勝一に、そうか、と小さく返した元就は、幸村の方へと向いた。
凝り固まっている背筋が震えている。夜の発作が起こる前触れと似ていた。
幸村は自身の目元に手を置いた。視界に映る闇の濃度が変わるだけで、依然として何も見えやしない。
昼間だというのに、責め立てる声が頭の片隅で響く。
仲間を、信玄を、信幸を、佐助を失うたびに感じていた焦燥感にも似た激痛は、勝一の言うような圧迫だったのだろう。
身体の奥底から悲鳴が上がるような、作り上げ続けていた真田幸村が消えていく感覚。自己崩壊を起こしかねなかったその危うい均衡を助けたのは、最後に差し伸べられた指先の存在があったからこそ。
隣にある元就の気配を確かに感じつつ、幸村は瞼を閉じた。
現実から目を逸らしたくなったことは――本当は、初めてではなかった。
昔にも同じように、何処かへ逃げたくなって閉じ篭りたくなって、何も見えず何も聞こえない場所に行きたかったことを覚えている。
幼かった幸村の世界は小さかった。広がりを見せた時でさえ招かれる場所にしか向かわず、或いはその現実に満足しきってしまったため、小さな世界のまま大人になってしまった。
それでも大切だった世界は、根本から根こそぎで奪われた。
――今度こそ、幸村の中の皹を大きく割ってしまったのだ。
揺るいだ魂は容易く堕ち、その結果が今の体たらくだ。
事態を招いたのは自分の心の弱さなのかと、幸村は嘲笑いたくなった。もう一人で立てるのだと粋がって、失くしてから誰かに縋っていたという事実に気付いて、掬い上げてくれた白い手の人に負担をかけて。
そうまでして生きている価値が、はたして自分にはあるのだろうか。
思い浮かんだ疑念を慌てて振り払い、幸村は元就に気付かれないよう努めて明るい声を上げた。
これ以上の心配をかけたくはない。今は彼のためにできることをしたかった。
「勝一殿、某に琵琶を教えて下さらぬか?」
武器ばかりを握ってきた幸村は、その手が使えなくなった時のことなど殆ど考えたことがない。僧の真似事をするにしても、それは元就のためになることではなく限りなく自身のため。
ならば、せめて。
哀しい代償と共に得た安穏とした日々が続く限りは、元就の心が安らぐような音色を紡ぎたかった。
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(2007/05/28)
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