01 奈落で繋がれた指先
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必要だと頷いたのは向こうなのに。
本当に必要なのは、我の方なのではないだろうか。
幸村は視力を失っていた。
何が原因なのかは分からないまま、彼の怪我の回復だけが進んでいる。元々生命力が強いのだろう。元就が採ってきた山の薬草と幸村の持っていた薬籠で事が足りたほど、あの出血の多かった傷は落ち着いてきた。
この古寺には大した薬は置いておらず、医者を呼ぼうにも外界と接すれば竹中の耳に入ってしまうから安堵した。
あの男の機嫌が何で損ねられるか分からない以上、外と触れ合うことは避けるべきことだろう。
――では真田はどうして拾ったのだ、と己の内が問い掛けてくる。
何も無い毎日。自分を縫い止める為だけに僅かばかりに告げられる、外の世界の情報。そして売られた己に科せられた、吐き気さえ込み上げてくるあの行為。
それが繰り返し繰り返し行なわれる。
つい先日まで戦や政のことを常に考え続けていた元就にとっては、それ以上に空白的な時間が苦痛だった。悪夢の瞬間が前触れも無く脳裏に浮かんでくるのだ。家のことを考えるたび、国のことを思うたび、黒い何かが邪魔をして自分を糾弾してくる。
要らない人間。用済みの人形。
穢れた自分の存在を毛利は無かったことにしたいのだろう。消されてしまえば、それ以外で毛利元就という男を形作るものは何一つ無かった。
放り出された自分には何も残っていないことに、元就は初めて気付いた。何もかも捨てて歩いてきた道から追い出されてしまえば、何処へ行けば良いのかさえ分からなかった。
そうしてぼんやりと彷徨っていた闇夜の雨の中、真田幸村と出会ったのだ。
虚ろに自分を見上げてきたあの瞳。以前の精彩はまるで無く、死人のものであったそれは――自分と、良く似ていたのだ。
戦場で見たときの溢れるばかりの輝きは消え失せ、生きる意志をも失くしかけていた眩しい青年。不覚にも見事だと思えた双槍を操っていた両の手は、武器を握れないほど握力が弱りきっていた。戦場を馬と共に駆け抜けていた足は、麻痺したように弛緩していた。
山奥に閉じ込められて戦場の臭いから遠ざかっていた自分は、同じように戦場に立てない姿となった真田幸村に何を感じたのだろうか。
憐憫や同情などといった甘い感情があったわけではない。
だが――。
差し出した手を、彼はまるで希望を見つけたように力強く握った。空っぽになった幸村の手だったからこそ、同じように何も無かった自分の手で握り返すことを選べたのだろうと分かるが。
あの時元就もまた救い上げられたのだと感じたのは、果たして願望か虚構か。
再会した幸村が、あの童のように無邪気だった表情を顰ませて抑揚の無い声で礼を述べた時には驚いた。これが本当に虎の和子と謳われた真田幸村だと、元就には俄かに信じられなかった。
名前を呼んでみれば確かに彼ではあったが、相手が以前戦った毛利元就だとは知らないまま幸村は何も映さない瞳で虚空を見上げた。
目が利かないというのにどうにか相手を睨もうとした眼差しが、弱々しくて。温和で滅多な事では自分に逆らわなかった嫡男の隆元を思い出してしまい――ずきりと、身体の奥が何故だか痛んだ――無意識に掌を当ててしまった。
接触嫌いである自らが手をかざしたことに驚いたが、目に見えて怯えた様子を見せた幸村の方が気掛かりだった。
戦慄にも近い震えを伴った育ち盛りの身体は、触れた温度に身を竦ませた。半ば狂ったように喚き、傷が開くことにも頓着せず、只管見えない何かから身を庇うようにして部屋の隅へと逃げた。
悪夢から逃れようとする拙い仕草は滑稽で、以前の元就であれば笑いたくもなっただろう。
だが、そんなことができるわけがない。誰よりも見たくないものから逃げたがっているのは他でもない、元就自身なのだから。
謝りながら泣く幸村を、思わず昔子供をあやした時のように抱き締めた。彼はようやく落ち着きを取り戻して、そうして小さく笑ってくれた。
縋られるような手に嫌悪は浮かばず、逆に自分が求められているのだと思うと慰められたのは己の方だと元就は感じた。
こうして触れ合えば人は、笑うのかと、安心するのかと。初めて理解したような気がした。
幸村はあれからも毎晩闇を恐れて泣いた。言葉をそれしか知らない子供のように何度も何度も見えない誰かに謝る。
その度に元就は彼の手を握ったり声をかけたりして、自分の眠る時間を大幅に削ることとなった。
夜泣きする赤子を育てる母親は大変なのだなと、睡魔に襲われながらもぼんやりと思ったものだ。
無論疲労も溜まる一方だったが、この寺に閉じ込められてから無為に過ごしていた日々とは違い、初めて与えられたその役目に自分は内心喜んでいるのだろうと呆れたくなった。
床から幸村が動けるようになっても、昼間に元就が転寝してしまうことは多々あった。
傷も塞がりきっておらず盲目にも慣れていない幸村は、元就が手を貸さなければ動き回ることもできない。すなわち起床してから就寝するまでは、彼と殆ど共に過ごしていなければならないのだ。
視力が利かない分、周りの気配に敏感になっているのだろう。欠伸を噛み殺すだけで心配されるのだが、浅ましい心中を悟られたくなくて元就は素知らぬ顔をし続けた。
「日頼殿はお一人で住んでいるのでござるか?」
日常で余計な摩擦を生みたくなく、結局自分が毛利元就だと告げることはできなかった。代わりに名乗った日頼という名は既に承っている戒名だ。死んでいる身同然である元就には相応しくもあり滑稽でもあったが、寺に住んでいることから幸村は不審に思わなかった。
自分のことを坊主か何かだと思っているのだろう。呼ばれる度に苦笑が漏れる。
他の者の気配が全くしない敷地内に、幸村は違和感を覚えていたようだ。発する声の調子までは誤魔化せず、一人で山奥の古寺に住むにしては若過ぎると思っていることだろう。
「一人だ。時折尋ね人が来るが、ずっと……ここに住んでおる」
少々語尾が固くなる。ずっと、という自ら放った言葉が重かった。
ここに閉じ込めた竹中は、世話人を寄越すこともしなかった。特定の誰かと繋がりを持たせないという意図もあるだろうが、余計な人員を割きたくないというのが本音だろうか。
箱入りで育ったわけではないことは承知のはずである。だからこそ放っておいても一人で生活できると踏んだのだろう。自害は許されていないから、生きる気力は無くとも死なないように暮らすしかなかった。
「……寂しくありませんでしたか?」
「異なことを申す。我は慣れておる故、そのような感情湧かぬ」
一人、という言葉に敏感に反応した幸村は、まるで自分がその立場に立たされているような表情で元就を窺ってくる。
見えないというのに無意味なことをする、とぼんやり思いながら返答をすると、少しばかり怒ったような眼差しで彼は言い返した。
「一人きりに慣れることは、決して強いことではありませぬ」
「そうなのか。寂しいと思うことの方が、弱いのではないのか?」
本当に分からず、元就は尋ね返す。
幸村は口があまり上手く回らないのか、困ったように首を捻りながらもどうにか自分の考えを紡ごうとした。
「某は一人きりでいること、寂しいと嘆くことは確かに弱くなると思います」
それは理解できて、小さく頷く。雨の中で出会った幸村は、まさしくそうであったから。
「ですが強くもなれると思うのです。寂しくなくなった時、今度は嬉しくなれます。それは静と動のように正反対のものがなければ感じられない」
確かに一理ある、と元就は頷いた。幸村は単純な男だと思っていたが、平素の落ち着いた様子を見る限りでは愚かではないようだ。話をしてみれば、童子のようでありながらも物事を深く見ている風でもあった。
戯れで詠っていた詩も理解していたようであったし、具合が良い日は句を読むこともあった。幸村は元就と同じように田舎の出だが、教養はしっかりと学ばされているようだった。
「一人でなくなるというのは、どういうことだと思いますか」
「自分以外の他人が周りにいる、という状況だろう?」
意図の読めない質問を怪訝に思いながら聞き返せば、幸村はにっこりと笑んだ。利かない目を空へと向け、生温い空気を吸い込む。
「先程と同じです。他人がいれば自分が自分なのだと認識できます。一人でいると比較するものがなくて分からないものでござる」
――だから一人に慣れてしまうと、時々自分が本当に“自分”なのか分からなくなってしまうと思うのです。
そう言って真剣な表情をした幸村の横顔を、唖然としながら元就は眺め続けた。
そんな考え方は今までしたことがなかった。幸村自身が感じた独特な価値観なのだろうが、個と他を完全に別物として捉えていた元就にとっては新鮮な考え方のように思える。
自身だけが己を理解していればいいと思っていた。
だがもしも、己という存在が揺るいでしまえば。信じられなくなってしまったとすれば。孤独のままでは、答えが見つけられないというのだろうか。
「慣れた物言いだ。お前もそうなのか」
ぞっとした胸の内を隠すように元就は問い掛ける。
幸村の意見は的を射ていると感じてしまった己が馬鹿らしい。それでいて寸分違わず現状を突き付けてきたような気がして歯痒かった。
今の自分はまさにそのとおりなのではないだろうか。
思ってしまえば考えは止まらない。
毛利でなくなった自分。武士でもなくなった自分。名前さえも、偽る自分は――はたして一体誰なのだろう。
「某は……俺、は……」
何気なく聞いた問いに、幸村は頭を両の手で抑えた。苦しげに歪んだ顔は、夜中に見せるものと似通っている。
拙い部分の踏み込んでしまったかと、元就は慌てて手を伸ばす。幸村は冷や汗をかいてはいたが正気ではあった。
「申し訳ござらん」
心配させぬようにと彼は微笑み、伸ばした手をそっと握ってきた。
――熱い。
覗いた額に空いていた方の手を当てると、やはり熱が上がってきたようだった。
「今日はもう横になるが良いだろう。何か欲しい物はあるか」
寝起きさせている部屋まで連れて行き、有無を言わせずに幸村を布団の中へ押し込む。困ったように眉を寄せた彼に冷やした布を添えると、少し楽になったようで吐息が漏れた。
「大丈夫でござる。日頼殿がいてくれるのならば、欲しい物など他にありませぬ」
「嘘を申すな。氷などは無いが、ともかく申すがよい」
ますます困ったような顔付きになる幸村が焦れったく思える。
しかし彼ははにかむように破顔して、布を添えた手を握ってきた。
「貴方に嘘は申しませぬ。本当に、側がいてくれるならばそれだけで……」
真摯な眼差しを送られた刹那、顔が熱くなった。
手桶に張った水に映った己の顔は、みっともないほど赤くなっている。
幸村は既にうとうとと浅い眠りに入っていた。見られなくて良かったと思う反面、跳ねた鼓動に元就は戸惑う。
自分は一体何をこの男から感じたのだろう。馬鹿げていると思えるのに、今の自分には一笑することができなかった。
必要とする言葉に、救われていると感じてしまったのだから。
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(2007/05/11)
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