01 奈落で繋がれた指先
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役立たずなこの俺を。
貴方は、生きてて良いと仰られました。
身体が擦られる感覚に、意識が闇の淵から浮かび上がることを幸村は感じた。
あれだけ冷たかった己の肌は、微かな灯火が灯ったように頼りなくも体温を取り戻しつつあった。
結局、死ぬことは出来なかったのかと自嘲が零れ落ちる。
死にたいわけではないが、生きたい理由も見当たらない。遺言にも近いものであった師の言葉も、兄の言葉も、忍の言葉も、自分にとっては彼らがいないこの事実の前では無意味に等しかった。
ただ己の内に流れるものを絶やしてはいけないと。それだけが死を選び取れない、たった一つの頼りない義務感。
「……目が覚めたのか」
歪んだ口元を晒したまま、突然聞こえた低い声に驚く。瞠目した己の瞳孔を誰かが覗き込んだ気配がした。意識があることを確認したのだろうその人は、摩っていた手を止めることなく作業を続ける。
この感覚だったのか、と合点がいった。
加えられる刺激を知覚すると、気を失う直前のことを思い出した。雨の中で絶望を感じていた自分は、最後に木漏れ日のような手と出会った。その持ち主はきっと目の前の彼であろうと理解する。
一人では嫌だと子供のように呟いた自分を笑うことなく、真剣な眼差しで見下ろしてきた彼。必要とするかと問われた気がする。そして自分は頷くように頭を下げたまま、意識を手放したはずだ。
「口が利けぬだろう。熱が出ておるからな。……水でも飲むか」
状況を整理するだけで必死な自分をどう思ったのか、彼は手を休めて近くにあった水差しを口元に寄せてくれたようだ。
感じる真水の匂いに惹かれ、齧り付くように注ぎ口を頬張る。あれだけ乾ききっていた身体が突然水分を求め始めたのか、相手が急がぬようにと傾斜を緩くしてくれていることすらもどかしかった。
熱が出ているというのは嘘じゃないようだ。口内に流れ込んだ水の冷たさは、予想以上だった。
自らが着ている物は濡れておらず、着替えさせてくれたのだと理解する。薄い単は、もはや帰れぬ家に漂っていた藺草の香りを思い起こさせた。しまわれていた物をわざわざ奥から出してきてくれたのだろう。
そうやって取り止めのないことを考えていると、嗚呼まだ生きている、と感じた。生き物としての欲求と当然のように感じる感触は、幸村にまだ彼岸に赴けない身なのだということを目の当たりにさせる。
けれど、あれだけ痛感していた孤独感はもうなかった。
「まだ眠っておるが良い」
触れられた指先は心地良くて。戦場の気配のしない人間との会合が何よりも嬉しくて。気が緩んだ幸村は、無意識の内に意味も分からず笑んでしまった。
相手が僅かに驚いた様子をしていたが、構わずに目を閉じる。薄暗い闇が濃い黒となって目の前に広がった。その違和感に何となく疑問を覚えたが、声の主の気配がいつまでも隣にあり不思議と怖くはなかった。
次に幸村が目を覚ました時、やはり彼は隣にいてくれた。
「あ……あの……」
声がしゃがれてしまいうまく喋られない。
静かに聞こえてきた吐息の流動が不意に変わり、彼が自分の目覚めに気付いたことが分かる。
「声は出せるようになったか。慌てるでない、喉が渇いておるのだろう」
咳き込みながらもどうにか言葉を紡ごうと喉元を上下させていると、彼は呆れたように言いながら水差しを口元に持ってきてくれた。
身体を起こしながらゆっくりと慣らすように飲み干す。一杯、二杯と飲み終わり、ようやく声が割れずに出て来た時、さっき一度目覚めた時の違和感が再度強く感じられた。
――暗い。
瞼を閉じてみれば、一層暗さが増した。それを何度か繰り返していると、彼は不審に思ったのだろう顔を覗き込んできた気配がする。
だが、それだけだった。
広がる闇の中には、何の姿も映し出されない。
「……助けて頂き、お礼申し上げます」
どんな状況であっても――自分の内情がどうであれ――助けてもらったのには変わりない。律儀さを忘れるなと散々周りに教え込まれているため、とりあえず彼へと礼を述べた。特に深い意味もなく、これは自然な行動だ。
だが彼はどう思ったのか。微かに身じろいで、こちらを凝視しているようだ。
何か無礼だったろうかと幸村がその旨を伝えてみると、相手は困惑の色の見える上擦った声音で言った。
「礼を言われるほどではない。手を取ったのはお前の方だ」
何故だろうか。言葉の中には少しだけ寂しさが滲んでいて、奇妙なくらい胸が締め付けられた。
感じたことのない感覚に内心では首を傾げるものの、その思考は続けられた相手の声に遮られる。
「真田、幸村だな。覇気の無い顔をしておった故、気付かぬ所であった」
呼ばれた名に、戦慄が駆け抜けて行った。震えがぶり返してくる。奥歯がかちかちと鳴り響き、目元がぐらついていくことを感じた。
彼は自分を知っている。彼も自分を殺しに来た者なのか。なら何故手当てなどしているのだろうか。
死ぬわけにはいかない。でも――生きたいとも、思えない。
浮かぶ矛盾の狭間で、己の魂が嘆いた。
「……貴殿は、某と会ったことのある方でござるか」
もう生きたいという気持ちは無いはずなのに、染み付いた本能からか警戒心が体中から針のように現れる。
刺すように相手のいる方向へと睨み付ければ、彼が息を呑んだ気配がする。
失敗だ、と後悔が押し寄せた。悟られてしまったのだろう。実際の自分はきっと、宙を虚ろに見ているに違いない。
「そなた、目が?」
突然目元に掌が合わされ、幸村は無意識に身を退いてしまった。
素肌に響く血流の音楽。相手の心音は少しばかり動揺を示していたが落ち着いたもので、定期的に繰り返される命の音色はまざまざと彼が生きている人なのであることを示している。
不意に、見えないはずの目の前の人が兄の顔になった。
同じように穏やかな鼓動を持っていた兄上は、怖くなかったろうか。絶望の地獄でも笑っていた、あの時も。自分の身代わりで死んでいった、あの人は。
「――っ!」
血の気が一気に退いていった。
暗闇に浮かんでいた兄の顔が、いつの間にか嘲笑う自らの笑みに摩り替わっていたのだ。
目元に合わされた手を振り払い、幸村はみっともなく震える自らの身体を抱き締める。少しでも彼から離れようと、無様な姿で後退りした。
真っ暗で何も見えない世界の中、暗い目付きをした自分が冷笑を浮かべてこちらを見下している。
見殺しにしたあの人は、兄上だったのか。
それとも、“真田幸村”だったのか。
自分の姿をした得体の知れない不気味な存在は、そう言いながら笑い声を上げて指を指してくる。まるで周りに何も無くなった、孤独で愚か者を糾弾するかのよう。
そうして、両親が残したあの言葉を狂ったように叫んだ。
――源二郎、お前は。弁丸、お前は。
――オマエハ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!!」
半狂乱になって闇から逃げようとすれば、細い手が肩にかかったような気がした。温い温度が気持ち悪くて、誰かも分からない指先に篭った力が恐ろしかった。節々が痛んだまま大した抵抗もできずに、その力はまるで自分を抑え付けようとするようにますます強くなる。
大きなその影は自分を再び追い立てるのだろうと恐ろしくなった。
お前なんて、役立たずなんだと――。
「しっかりしろ」
不意に降ってきたのは、柔らかな感触で自分を抱き込む二つの腕。
幸村が目を限界まで見開いてもその正体を見ることは叶わなかったが、確かな形が触れ合っている。
その声は脳裏で響いていた誰とも似てはいない。
辺りの薄闇には微かな雨音と、彼の息遣いと鼓動だけが聞こえてくる。何重にも重なって責め立てていた笑い声など何処にもなかった。
「あ……俺……」
「一人ではない、ぞ」
続けて紡がれた言葉に息を呑む。
そっと手を伸ばすと、相手の背中に触れたのだろう身を竦ませられた。
嫌がるような反応に手を退こうとしたが、微かな逡巡をしたのだろう彼はゆっくりと力を抜いた。それを勝手に諾と取り、不安から逃れようと幸村は必死で腕を回した。
それから、どの位経ったろうか。
随分と落ち着いてはきたが、誰かも知らぬ相手に酷い姿を見せてしまったと今更ながら羞恥心が擡げる。
抱き合ったままの体勢に顔は赤面したが、何も映せぬ視界に慣れないため離すことはまだできそうもなかった。
「行く場所がないのか」
ぽつりと落とされた波紋に幸村が顔を動かすと、彼の視線を感じた。
僅かに頷き、改めてどうしようもない絶望感を思う。目まで使えなくなった自分は唯の木偶でしか有り得ない。武器も握れず、目も見えず、あの地獄の入り口に足を踏み込んだ時から自分を構成する全てが消えてしまったかのようだ。
「某には、生きていく糧も死ぬ意味ももはや無いにも等しいでござる」
「ならば何故我の手を取ったのだ」
嗚咽のように絞り出した声音に、彼は問い掛ける。
脳裏に揺らめいたのは、自分が記憶している最後の映像。奈落の底に這い蹲っていた幸村を、拾い上げた白いあの手。
繋がれた瞬間に広がった熱は、確かに自分を照らしてくれた太陽の光だった。
自分の血塗れの腕からは次々と大切な者が離れていったというのに、彼だけは掴んでくれた。
掴み返して、くれたのだ。
「お前は死にたくないと言った。我はそれを助けた。だからもう、死なぞ口にするでない」
あやすように髪を撫でられた。幼い子供に対するような手付きに、彼はもしかしたら随分年上なのかもしれないと幸村は思う。
彼の動作は最後に兄と触れ合ったあの時のことを彷彿とさせたが、もう真っ暗な闇の中から嘲笑の響きは聞こえてこなかった。安心感が胸に溢れ、それ以上に生きていても良いのだと暗に告げられたことが嬉しくて。
役立たずだった己が生きていても良いのだと、ようやく許されたように感じて。
幸村は、酷く久方ぶりに笑みを零したような気がした。
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(2007/05/09)
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