01 奈落で繋がれた指先


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 元就は生きることに疲れていた。
 自身の存在などこの世に最早必要ないというのに、どうして愚かな抜け殻がまだ無様な呼吸を続けているのだろう。

「……誰だ……?」

 誰かが泣いていると感じたのは単なる感傷なのだろうか。
 雲を運ぶ風の痛ましい慟哭の叫びは、遠くから響く虎の嘶きにも似ていた。湿気の混ざった大気を感じ取り、今夜はきっと雨が降るのだろうと分かる。暗く淀んだ空には月明かりすら見当たらなかった。
 昨夜は煩いくらいに虫が鳴いていたというのに、外はひっそりと静まり返っている。彼らも本能で察しているのだろう。そのうち降り注いでくる冷たい雫の気配に。

「面白いものでも見えるのかい?」

 雨戸を閉めずに縁側に座り込む元就に気付き、微かに乱れた布団の上に寝ていた男は首だけをこちらに向けた。
 薄っすら笑っているのは、機嫌が良い証拠だろう。元就は横目で彼を興味なく見やった後、再び視線を外へと戻す。
 暗い闇に呑まれている林がざわめいた。風が強くなってきて、一層雨の気配が濃厚になる。

「身体に障るよ」
「無体をしておるのは貴様の方ぞ」

 つれない答えに自嘲を浮かべ、男は立ち上がった。本格的に降り出してしまう前に彼は帰らねばならないのだろう。
 早く行ってしまえ、と思う。人と共にいる空間はいつだって息苦しい。ましてや己の意思とは無関係に内側へ入ってこようとする熱は、嫌いだ。
 そうして、先程無理やりに暴かれた痴態を思い返す。もう慣れてしまって、屈辱だとは今でも思うが他に感慨が込み上げてくることはなかった。
 ――哀しいなんて感情、知らない。
 毛利を支えると決めた時から感覚が麻痺してしまっているのだ。だから瀬戸海で眩暈がするような悪夢を見た時ですら、奇妙なほど冷静でいられた。突き付けられた事実は、今思えば馬鹿らしくて嗤いたくなったけれど。

「じゃあね、いい子にしているんだよ?」

 口の端を歪ませて出て行った男の笑顔は、元就に何の温度も与えない。一方的な情事の際に押し付けがましい熱さを注ぎ、思い通りにならなければ苛立つ。一番は別のものだというのに、彼は甘い仮面を取り繕った睦言を繰り返す。
 幼稚な男だと嘲笑えれば良かった。
 しかし、今の己はそんな相手に飼われている。抗えば、自分を捨てたあの家は絶えるのだから。
 一番嫌いなのは、いつだって自分の存在。

「何故、我はまだ生きているのだ」

 血塗れだったはずなのに何事もなかったかのような青白い手を見下ろす。
 戦場を駆け抜けた時の様に重い武器はきっと操れなくなっているだろう。墨臭い指先は細く、今も硬く残っている肉刺の痕だけがかつてを思い出させた。
 もう必要とされていないのに。全てを賭けてまで守ってきたものが、自分を要らないと言ったのに。
 どうしてまだ生きていなくてはいけないのだろうか――。
 この山に閉じ込められて幾日経ったのか既に分からない。思考はこの空のようにただ轟くばかりで、一向に明光を差そうとはしないのだ。惰性的に続く現状に甘んじたいわけではないが、だからといって元就には生きたい場所も死に場所も残されてはいない。
 ただこの屑同然の身体が、まだ毛利の役に立つのならばとそれだけが今の元就を繋ぎ止めていた。駒としての利用価値を自覚している以上は、死は許されない。
 温い雨が、闇の世界を彩っていく。
 贖罪も同じようにこの身に降り注げばいいのにと考えずにはいられない。
 鬱々とした身をそのまま雨音の中に投じる。男の残滓が洗われればいい。そしてこの身に宿る汚らわしさも全て消えてしまえば、何も考えずに極楽浄土へ――閻魔の待つ地獄の入り口へ向かえるというのに。
 いっその事、全てが泡沫の様に無くなってしまえば良かった。
 自分も、取り巻く世界も、価値無きものとしてこの目に映るばかり。壊れていれば本当の人形のように、こんな虚しさを感じずにいられただろうか。

 元就は塞いだ瞼の向こうにある、唯一心の安らぐ孤独の闇を見つめる。静かに奏でられるは大地へと滲みこんでいく雨粒の音色だけ。
 自然は嫌いではなかった。計略の妨げになり眉を寄せることはあるが、それだけだ。存在するだけで何もしない。心も身体も無いのだから、自分の中に無理やり入ってこない。ただ現れては無言で消えていくだけだ。
 雨も風も木々も草花も、日輪でさえもが誕生と消滅を繰り返している。どれだけ消えても、それらは再び生まれてくる。物言わずに、誰にも干渉されずに。
 自らの背中に融合しかかっていた生きていく理由を引き剥がされて、それでも無気力のままに過ごす姿は、彼らから見れば滑稽極まりない生き物だ。
 他人の利己主義の中で生かされる自分は、生きていると言えるのだろうか。

 最早、必要ない命だというのに。

 今すぐにでも、己の意思とは関係なく無機物となれるのならば。無様なこの姿を晒さずに、静かに大地へと還れるというのに。
 選び取れない幼稚な願望を夢見て、元就は少し哂った。

「――?」

 不意に呼ばれたような気がした。
 目を開けば、ただ霧のような雨が降っているだけ。先程と何ら変わらぬ景色だが、足は勝手に動き出す。
 部屋に居た時に感じていた、誰かの泣き声。いや、鳴き声だろうか。それが歩くにつれてより強く感覚を刺激する。

「――嫌……だ」

 人か、獣か、はたまたこの世の者ではないのかもしれない。
 相手が何者であろうとも構わなかった。この声が幻聴でも構わなかった。その場所に誰もいなくとも関係ない。ただ呼ばれるままに歩は止まらず、止める気もさして無かった。
 現世から遠ざかってから幾日も経っている故、きっと隠り世にこの身はより一層近づいているのだろう。雨の中を薄い単でうろつく自分こそ、真の生者から見れば幽鬼その者なのだから。

「一人に、しないで……」

 煩い。喚くな。
 諦める生活に慣れてしまったのに。今更、必要とするような声を上げるのは何故――。



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(2007/05/08)



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