01 奈落で繋がれた指先


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 ――誰もいなくなったのは自分のせいだ。

「佐助、放せ! 俺の命令が聞けぬのか!」
「ごめんね旦那、こればっかりは駄目だ。あんたの命が懸かっているんだから」

 普段は家族のように過ごしているから命令なんて滅多に出さないのに、こんな時ばかりただの我侭で振り翳してしまう。佐助はそれに苦笑するだけで足を止めたりはしてくれなかった。
 笑っている彼の横顔を見てしまい、また困らせてしまっている、と幸村の胸が酷く痛んだ。
 佐助の呼吸は忍であるはずなのに乱れたまま、一度も整えられることがなかった。唯一露出している顔には汗玉が浮かんでいる。幸村には、抱えられているため忍の身体から流れる血の色が嫌でも目に入った。痩身を蝕む大きな傷など放っておけば手遅れになるだろう。

「お前とてこのままでは死ぬぞ!」
「へへ、俺の腕を甘く見ないでよ」

 いつもの軽口。いつもの笑顔。けれど本当は全く取り繕えていないということに、佐助は気付いているだろうか。
 それでもなお、心配させないために彼は自分を守ろうというのだろうか。
 思わず悲痛な表情を浮かべてしまえば、佐助はやはり困ったように笑んだ。見る度に苦しくなる。現実を直視しなければいけないのだと、それは起こった出来事を幸村に何度も何度も突き付けてきた。
「お館様にも兄上様にも約束した。俺は絶対に旦那を生かす。旦那の忍としての大事な御役目だ。あんたにだって邪魔させないよ」
 聞きたくない言葉は偽りようのない真実。戦場で消えるはずだった自身の魂は、敬愛する人達に守られて大事な人達に生かされて、今もまだここに虚しく宿っている。共に戦場を脱出したこの忍の命すらも削ってまで。卑しく鼓動を続けている。
 死など恐れていなかった。首にかかったまま音をたてている六文銭が示すように、道を拓くためならば命など惜しくはなかったのに。
 ――どうしてまだ、自分はここにいるのだろう。

「……何故俺が生き残ってしまったのだ」

 零した声が佐助を傷付けることを知りながら、それでも湯水の様に喉から溢れ出す。あれほど叫んだというのに、嘆きの嘶きは尽きることを知らない。
 もうこの手は槍を握れない。力の入らぬ拳では、掬い取ろうとした大切なものばかりがほろほろと崩れ落ちていくばかりで、存在意義が失われた今では、何がそこにあったのかも分からなくなる。

「俺が兄上の代わりに死ぬはずだったのに! お館様を守って死ぬはずだったのに!!」
「旦那」

 諌めるような佐助の呟きが耳に入る。それでも頬が乾かぬうちに、次から次へと涙が溢れた。
 嗚咽を堪えながらも、もう力の入らない肢体に苛立つ。武士らしく切腹もできない。あの戦場に戻ることも、仇の首を刈り取りに向かうことも不可能なのだ。
 何て無力なのだ。
 力になれないことがどれほど焦燥感を掻き立てるか、若輩である自分は十分理解していたはずだった。なのにこんなにも己の存在が無意味だと思えたことは、今まであっただろうか。
 必要としてくれる人達がいなくなったというのに、一体誰のために生きればいいのだろう――。
 そこまで考えて幸村は呆然とした。
 自分は確かに自分らしい人生を歩んできたつもりだ。誰かのために生きること戦うことが、紛れも無く己としての生き方だった。
 お館様に必要とされて。武田に、真田に居場所があって。守るべき家族がいて。だからこそ、自分がいた。
 ――誰かのために、“真田幸村”がいたのだ。
 その生き方が己のためだったと分かっているけれど、対象がいなくなってしまえば脆くも崩れる何とも儚いものだったのだと、今更気付いてしまう。
 気付きたくなかったのに。本当なら、気付く前に死んでいるはずだったのに。

「旦那、絶対に諦めないでよ。俺が俺のまま生きられた証、簡単に手放すことは許さないからな」

 思考の海に意識を手放していると、不意に殺気を周りに感じた。口角をつり上げている佐助の横顔は固い。放たれた追い忍が近くまで来たのだろう。
 自分も応戦しようと身じろいだが、まるで手足は別の生き物に成り下がってしまったかのように動かなかった。
 守ることも、戦うことも、何もできない。ただ吐息を繰り返し、無駄に鼓動を音たてているだけ。
 佐助は速度を上げ、山中を一気に駆けた。
 体力が少ない者が配分を狂わせて走ることは命取りだ。聡明な忍の彼は分かっているだろうに、それでも足を緩めなかった。
 このまま僅かでも敵との間を開けて、自分を被害が届かぬ所まで連れて行こうとしているのだろう。雨の降り出した山中、安全が保障される場所など無いにも等しいのに。

「俺を捨てて逃げろ」

 彼一人ならばきっと逃げ切られたはずなのかもしれない。幸村が掠れた声音で漏らすと、呆れたように佐助は笑った。
 疾走していた身体が不意に緩まり、立ち止まる。ようやく置いていく決意をしたのかと思うと安堵の念が浮かぶが、自分は見捨てられるのだと吐いた台詞とは真逆の感情が微かに過ぎる。
 そんな愚考に幸村は思わず口の端に自嘲を零した。
 佐助はその間にも作業を続けていた。止血していた布をきつく縛り直し、痛み止めの薬をからからになった口元に無理やり詰め込む。自らの分のはずの薬を雨水で飲ませた佐助は、ゆっくりと立ち上がった。
 幸村は大樹の根元に強制的に座らせられたが、足腰に力が入らないため佐助を窺うにはどうしても見上げるしかなかった。
 普段から掴み所の無い忍は、感情を失ったように酷く真面目な顔をして佇んでいる。苦い感覚が喉元を通り過ぎてから、何故彼が今から追っ手に切り刻まれるであろう自分に薬を与えたのか疑問に思った。
 落ち着いて辺りを見渡せば、ここは背の高い草に囲まれている。木肌に背を預けている自分の姿を隠すように。
 相手の真意に気付き瞠目すると、佐助は血の気の失せた微笑みを浮かべる。みっともなく悲愴な面持ちをしているだろう自分を、彼は兄のような優しい瞳で見つめた。

「皆が貴方に求めたもの、忘れないで下さいね幸村様」

 そして残像だけを残し、佐助は消えた。
 必死で伸ばそうとした腕は動かなかった。嗚咽にも似たような声が喉から吐き出されたが、雨音の中では響かない。暗い森の中には自分以外の生の気配がなく、ただ無心にこの身を濡らす雨だけが幸村を濡らしていく。
 本当の孤独という事実が、双肩に重苦しく圧し掛かってきた瞬間だった。

 誰もいなくなった――俺は、これからどうすればいいのだろう。

 寒い。心が、寒い。あれほど冷たく感じていた雨は体温を奪い去り、感覚を麻痺させる。瞼が重くて堪らなかった。
 どうせなら、と天を仰ぐ。
 仲間の血と自分の血と、兄上の血と佐助の血とお館様の血と、今まで屠ってきた敵の血で、真っ赤に汚れたこの身が全て溶けてなくなってしまえばいいのに。全部幻だと笑えたら、良かったのに。
 一人は、怖い。
 闇に食い殺されそうだ。

「……一人か?」

 突然の声に、途切れかけていた意識が引き戻される。
 雨音に掻き消えそうなほど細く低い声音は、不思議と安堵感をもたらした。
 一人は嫌だった。どうすればいいのか、何をすれば息ができるのか分からなくなる。何のために生きればいいのか、分からなくなるから。

「死にたくないのか」

 死んでもいいと思っていた。誰かのために、生きて、死ねることが嬉しかった。
 ――でも、今の自分は。

「……我を、必要とするか?」

 暗闇に霞んだ視界の中に現れた、白い手。
 伸ばされた指先を、幸村は溺れた者のように必死で掴み取った。



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(2007/05/06)



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