00 一度目のエピローグ
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目の前の光景に、嘘だと叫び出したくなった矮小な己がいた。
胸の内に生き続ける弱いそれを見下しながらも、外側に立つ自分は酷く冷めた視線で眼下を見つめている。
いつかこうなることは目に見えていたのだ。
だから覚悟なんて、していたはずなのに。
でも。
無力感に打ちひしがれてしまいそうになるのは、自分ではやはり駄目だったのだという思いがあるからでしょうか。
たとえば貴方であれば。もっとより良い道があったのかもしれません。
兄上。
今、確かに言えることは。きっと望まれていたのは自分ではなかったのだという、突き付けられた現実が目の前に広がっているということ。
自分は所詮、兄上の身代わりにしかなれなかったのでしょうね――。
傷だらけの己が姿を見下ろしながら、元就は自嘲を浮かべた。
これが中国を制した男の末路かと場違いなほど笑いたくなった。
周りにいる駒は数人の近従だけだ。これで何千もの兵を相手にすることができないのは当に解り切っている。毛利の明日が懸かっているのならば、死に物狂いで抵抗して最後の最後まで手立てを求める思考を止めないだろう。だが今の自分は、それを半分以上放棄し始めている。
駆ける足が酷く重い。まるで千切れた鎖が絡み付き、解放されたというのに引き摺る冷たい金属音が、逃れられないのだと嘲っているようだった。
望まれて立たされて――此度は望まれずに退けられる。
冷笑が顔に貼り付いた。
最も使い勝手のある道具は自分自身だと良く知っていた。だからこの度の事象とて、予想の範疇ではある。
この先使える見込みの無い駒は、ここで切り捨てるのが一番だ。自分だったら迷わずにそうするだろうから。
「我を陣へ連れて行くが良い」
武器を近従へと投げ渡し、元就は自分に刃を向けてきた毛利軍の兵士に告げた。微かに怯みながらも伝令に走り行ったその背を感慨も無く見送り、彼は左右に分かれた緑色の波の間を真っ直ぐと進んだ。
皆一様に目を伏せて俯いていた。視界の端に血縁者の項垂れた横顔が映ったが、何の想いも浮かばない。
裏切られることになんて慣れている。
常に他者を切り捨てる己には、切り捨てられる覚悟が確かにあった。裏切る者は常に裏切られるということを想定しておかねばならない。紛れも無く自分は、謀略という薄幕に包みながら蝙蝠の様に表裏を幾度も返して、今の地位まで上り詰めたのだから。
今更この位の事で喚き散らしたりはしない。
たとえ己に誓われた盟約が確かにあったとしても。自分を確かに敬愛していただろう息子達にこの仕打ちを受けたとしても。裏切られるだけの理由など、少し突付けば簡単に見つかる。
顔色を変えないまま真っ直ぐと進む元就は、そうやって言い聞かせながらも痛む心中に気付かないまま相手の本陣へと辿り着いた。
「随分手こずらせてくれたものだね」
仮面の奥で冷たく笑う軍師を睨み付けながら、元就は鼻でせせら笑う。
「我と正面から戦うのが怖かったのか、竹中?」
「どうとでも取られて構わないよ。戦況は紛れも無く僕達の勝利を示しているのだからね」
挑発には乗らない、と口の端をつり上げた半兵衛は周りに立つ兵士達を見回した。
同じように視線を投げずとも彼が言いたいことはすぐに理解できた。風になびく御旗の紋は、豊臣と竹中に、毛利。
元就を囲む者は全員敵となった。自分の軍が反旗を翻したきっかけが誰なのか、最早元就にとってはどうでも良いことである。
戦が始まってしばらく経ち、各部隊を統率する将達が挙って現れ元就に降服を勧めてきた。長年の臣であった者から息子達に至るまで、豊臣の下につくことが全軍の総意だと知った。
半兵衛の策略なのだろうと感じたが、既にどうしようもなく。自分一人が足掻いた所で何も変わらないことなど、聡い彼には分かっていた。
今の元就の手にはもう自尊心しか残されていない。
首を刈られるか、自害をさせられるか。豊臣の本陣へ向かいながら、何通りかの処遇を考えたが直結するのは死しか見当たらない。半兵衛ほどの軍師であれば、自分のような輩をいつまでも生かしておくはずが無いだろう。生かしておけば必ず首元に噛み付かれるというのが分かっているのだから。
そうして、元就は暗く沈んだ笑みを浮かべた。
噛み付いてそれからどうするのだろう。毛利は、最早己を必要となどしていないのだから。居なくても構わないから、豊臣につくことを決めたのだ。
だから生きていく意味なんて自分には無い。
無くなって、しまったのだから。
目を静かに伏せた元就に微笑みかけた半兵衛は、一歩一歩二人の距離を縮める。足音が徐々に大きくなるにつれて、元就は後退りしそうになる身体を必死に圧し留めた。
「毛利は豊臣に降った。君の駒ってやつは僕等を選んだよ、元就君」
吹き込まれる猫撫で声が苛立ちを募らせ、元就は眼光を強めて半兵衛を見た。仮面の奥で色素の薄い瞳が、弦月のように細められている。それがまた癇に障った。
表情の歪んだ端整な顔立ちを満足そうに眺めていた半兵衛は、更に元就の内側を傷つけようと言葉の刃を振りかざし続ける。何でもないように無表情を装う元就の高潔さを穢したくて、自分の意思をも凍らせている固い扉を壊したくて堪らなくて。
ようやくその機会が訪れたことに、押し寄せる高揚感など隠しきれるものではなかった。
「僕がそうさせたわけじゃない。ただ君が、必要なくなっただけ。もう要らないのだよ、汚らしい血塗れのお人形さんはね」
見開かれた瞳にますます半兵衛は笑みを深くした。大声を出して笑い声を上げたくもなったが、兵士達のいる前では憚れてただ肩を震わせるに留まる。
可笑しくて堪仕方ない。愉快で堪らなかった。
あれだけ自分を翻弄し、見下して、何もかも見通しているような涼しい顔をしていた元就。そんな彼が翼をもがれた蝶のように、無残な姿を晒している。
半兵衛は近づき、細い首筋に刃を当てた。
「一緒に来てもらおうか、毛利元就」
「……殺すならこの場で殺すが良かろう」
小さく紡がれた言葉を聞き、半兵衛は意味が解らないといった具合に嘆息を吐き出した。
この行動に眉を寄せた元就は、まさか、と周りを見回す。集まっていた将達は懇願するような眼差しで半兵衛を見ている。それだけで血の気が退いた。
毛利の者は助命したのだ。元就の命を助けるべく、全軍の指揮権を豊臣に差し出して。必要のなくなったはずの自分を、それでもまだ生かそうとしている。
死なせてなど、くれないのだ。
「馬鹿な、何故我を生かす! 愚か者共めっ!」
堰切ったように怒声が零れた。元就は抑え付けてくる半兵衛の手を振り解こうとしながらも、ぎらついた視線で自軍であった者達を睨み付ける。
背けられた横顔に、怒りを通り越して憎しみが押し寄せた。毛利に要らないと排除されたというのに。それは、元就から人生の全てを奪ったということと同意であるのに。
必要ないのに、何故生かそうとする。
彼らの馬鹿げた利己的な願いなど元就にとっては何の意味を成さない。
「おやおや怒ることはないんじゃないかい? これは取引なのだから」
呆れたながら首を竦めてみせた半兵衛に、元就は振り返る。そこにあった獲物を捕らえたような奇妙な光を湛えた双眸に、無意識の内に背筋が強張った。
「彼らは君を僕にくれる代わりに、豊臣についた……ああ、言い方がちょっと違うかな。こちらにつくために君を売った、が正しいね」
目の前が真っ白に染まる。
元就は全身から力が抜けていくことを感じた。
裏切りなどではない。謀反などではない。自分が彼らを駒として使ったように、彼らも自分を道具として使っただけだ。目を合わせなかったのは、元就のやり方と同じことをしてしまったことに対する自己嫌悪。降服するよう求めたのは、死んでしまえば取引が成立できないからだ。
――ただ、それだけのことだったのだ。
完全に表情を失った元就を、半兵衛はただ楽しそうに眺めていた。絶望に折れていく身体を恭しく抱き止め、羽を無理やりもいだ蝶を蜘蛛の糸で絡めていくかのようにそっと腕を回す。
ようやく手に入れたと、仮面が嘲笑った。
――そうして元就は、覚めない悪夢に囚われた。
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(2007/05/03)
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