00 一度目のエピローグ


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 何のためにここにいるのか分からなくなった。
 嗚呼、兄上。
 身代わりであるはずの自分が逃げて、どうして貴方が残らねばならないのでしょうか。貴方を守るために存在する自分を、何故庇ったのでしょうか。
 地に咲く鮮血。赤い花弁のように、はらりはらりと重ね散り貴方の命を磨り減らしてゆく。

 なのに、兄上。貴方は笑って未来を指すのです。
 行けと。生きろと。
 愚かな自分でも分かったのは。生き残るべきなのは、貴方の方だったはずなのだということ――。



 一面の赤に、幸村は瞬きさえも忘れていた。
 赤黒く染まる大地には、仲間であった者達の死体の山が次々と積み上げられていくばかり。赤備えを纏った猛者達が何の手立てもなく倒れ伏し、容赦なく鉛の雨をその身に埋め込まされていく。
 馬首から飛び散った鮮血に目を奪われる隙もなく、劈くような銃声の嵐は断続的に続いた。
 猛々しき雄叫びは悲鳴に変わり、武器を握っていた手が天へと助けを請う。呻き声を上げていた者達はすぐに黙り込み、冷たい亡者へと成り下がる。折り重なる骸は、空虚な目玉で戦場を無感動に眺めているだけだ。
 幸村は飛沫のように上がった赤い液体を浴びながら、作り出されていく地獄絵図を視界に捉え続けた。
 自らの手で、意思で殺すわけではない。
 ただ不特定多数の誰かに当てるために発射された銃弾は、機械的な作業で死体の山を作り上げていく。そこには何の熱も無い。打ち所の良し悪しだけで生と死の分け目が明確に引かれる。
 これが、美しき散り際だと言えるのだろうか。潔い生き様だったなんて、言えるだろうか。
 誰も彼もが指先一つで死んでいく。小さな鉛玉を身に埋めただけで、猛々しき炎を枯らせていくのだ。
 敵陣は遥か向こう。刃が一つも届かずに、命は幕を閉じる。
 もはや時代は変わっていってしまっているのだろう。
 兵士の数よりも、戦術の巧みさよりも、武器の性能だけで雌雄を決してしまうような世の中へと刻々と動いているのか。
 そして人は段々と傷つけることへの痛みを忘れて、或いは戦場という狂気的な場所と血の臭いを感じなくなっていくのだろうか。
 命を奪って、生きていることを忘れてしまうのだろうか。
 人はいつだって誰かを踏み台にして、足掻きながら生きているということを。
 鋭い痛みが右肩を貫き、電流が走り抜けたような奇妙な感覚が頭の天辺から足先まで通過していった。次の瞬間には血が溢れ、気に留める暇もなく次の弾が脇腹を貫通した。
 奥歯が割れるほど噛み締めて、幸村は進むことを止めなかった。立ち止まることなどできない。目の前に敵陣は確かにあるのだ。後退しようにも、相手の種子島は構わず背中を撃ってくるだろう。
 馬が怯えて嘶く。足元に着弾して驚いたのだろう。幸村は手綱を握り返し、それでも前進させようとした。
 だが隙間なく砲撃してくる銃弾は待ってなどくれない。
 迫り来る弾の気配を感じた幸村だったが、並列して撃たれた弾を気付いても避けられるはずがなかった。
 一層激しい衝撃を感じた後、とうとう幸村は落馬した。
 酷く体が重く、どうにか離さずにいた双槍を持つ手にも力がうまく込められない。乗っていた馬は幸村の倒れた場所から少しだけ前方で力尽きていた。それをぼんやりと見つめながら、幸村は敵陣の方向を睨み付けた。
 こんなところで終わるのだろうか。
 自分は――そして、武士が生きる世界は終わりへと確実に近づいているのだろうか。
 不要に、なるのだろうか。自分という存在は。

「源二郎っ!」

 霞んで暗くなりつつあった視界を開き、幸村は顔を上げた。死に際の幻聴かと嘲笑いたくなったが、その声は確かに耳の奥を震わせた。
 銃撃音の止んだ戦場に広がる死者の群れ。倒れた人の山から轟く影は一つもない。
 遠くに見える馬防柵からは紫煙が上がり、降り出しそうな曇天へと消えていった。この場で、幸村の目の前で一瞬に消えていった命と同じように。

「しっかりしろ源二郎!」

 今度こそはっきりと聞こえ、幸村は視線を緩やかに上げた。見慣れた顔が自分を見下ろしている。
 命の灯火が徐々に身体の内側から消えていくことを感じながら、幸村は相手を仰ぎながら笑みを浮かべた。肉親に会えたという無条件の安堵感故だろう。兄の信幸が痛ましげな視線を投げかけながら立っていた。

「兄……上……」
「喋るな、傷に触る」

 血で貼り付いていた上着を脱がされ、兄の陣羽織を着せられる。身を捩った途端、全身が悲鳴を上げた。どうやら足も撃たれていたようで下半身が麻痺したように動かない。
 幸村の状態を察しながらも、信幸はその身体に肩を貸して地面を這うように移動させた。
 長篠の平地は不気味なほどの静寂が広がっていた。この世界の中では信幸と幸村しか生きていないかのように、死臭が満ち溢れている。
 銃声が鳴らないところを見ると、敵は銃を使うことを止めたのだろうと理解できた。それはつまり、総攻撃が始まるということでもある。この空白の時間は僅かしかないだろう。
 そこまで考えた幸村は、はっとして信幸の顔を窺った。
 額から汗を噴き出しながら必死に歩いていた兄は、ようやく近くの山の端に幸村の身体を下ろした所だった。

「本陣は、お館様はどうされたのですか!」

 からからになった喉から割れた声が飛び出す。
 信幸が配置されていたのは、信玄率いる武田軍本陣であったはずだ。それが何故ここにいるのか。十中八九、信玄の命であるのだろうと思ったがわざわざ伝令ではなく信幸が来た理由が見当たらなかった。
 幸村は自分と瓜二つな兄の顔を、祈るように見上げる。どうか最悪の事態が訪れていませんようにと。
 だが信幸の横顔が青褪めていることに気付いてしまえば、伝染したように幸村もまた血の気が失せていく。

「時間が無い。良く聞くんだ源二郎」

 信幸は力がうまく入らずに痙攣を繰り返す弟の腕を取り、放されずにいた双槍から手を解かせた。
 兄の行動の意味が読めず、困惑したままの幸村は上半身をゆっくりと起こされた。傷が痛んだが、それどころではない。

「我が軍は壊滅した。お館様はまだ生きておられるが重体だ。退却しているが保つかは分からぬ」

 壊滅、と鸚鵡返しに幸村は零した。血液で濡れた拳がきつく結ばれる。
 自失しそうなほど呆然としている弟を見やりながらも、信幸は作業の手を休めずに黙々と手を動かした。先程脱がされた幸村の上着を着込み、槍を手に立ち上がる。
 二人の背格好は全く同じだ。そうして佇む姿は、親しい者でないければ見分けが付かないくらい真田幸村その者であった。それだけで幸村は、兄が何をしようとしているのか察する。
 思わず絶句した弟に、信幸は再び笑いかける。血糊で固まった髪を、空いている片手でそっと撫でた。木陰で泣いていた、幼い頃の幸村をあやした時のような優しさと慈しみを込めて。

「佐助がもうすぐ着く。攻撃が始まる前にお前も逃げろ」
「嫌でござる! 一人で落ち延びよと申されるのですか、兄上!!」

 穏やか過ぎる信幸の表情に瞠目する間も無く、反射的に幸村は叫んでいた。
 何もかもが信じられなかった。武田が敗れたという事実にも、兄が自分の身代わりとなって逃がそうとしている事にも。
 頑なな子供のように首を振る幸村を、信幸は咎めるように睨み付けた。

「聞き分けろ源二郎。真田の行く末をお前に託すのだ」
「真田を統べるのは兄上でございましょう。某が死地に残ります。それにお館様をお助けせねばなりませぬ!」

 満身創痍ながらも意思の強さを失わない双眸に、信幸は怯む。そして誇らしくも思えた。
 幸村の中には確かに赤き滾りが息づいている。自分には真似できない魂の輝きがあるのだ。

「――己の虎たる魂を忘れるな、幸村」

 一段と低い声音で、一字一句間違えぬように丁寧に紡がれた言葉を聞き、幸村は兄を引き止めていた手から力を抜いた。
 愕然とした表情で己を見返してくる弟に、信幸は真っ直ぐと視線を向ける。

「お館様がそう仰っておられた。自分が死んでも武田の炎を絶やすなと。変わり行く世の中を、生きて見極めろと」
「そんなっ!」

 悲痛な声を上げる弟から離れ、信幸は再び地獄と化した戦場へと足を向ける。
 見ればその身体は自分と同じく傷だらけであった。今まで立って歩き、幸村を支えていられたのが不思議なくらい、足元には血溜まりが点々と続いている。
 それでもふら付かずに気力だけで立っているような彼を、幸村は震えながら見上げた。
 ――嗚呼、この人は守らなくてはいけない人なのに。
 どうしていつも、逆に守ってもらってばかりで自分はこんな風に無力なままなのだろうか。
 強くなりたくて。強く、なったはずなのに。
 背後で感じ慣れた気配がした。佐助が来たのだ。それは同時に、兄との別れを意味する。
 幸村は最後の抵抗をするように、遠くなっていく背へと手を伸ばした。

「兄上、兄上ぇぇぇ!!」

 背後に映された曇天の空には鬨の声が響き渡っていた。総攻撃が始まる合図だ。地獄の香りを漂わせた戦場は、完全なる虐殺の場へと変わり襲い来る。
 そんな場所へ、臆することなく信幸は走っていく。
 顔だけを振り向かせた彼は、困ったように微笑んだ。

「私はお前が羨ましかったよ、源二郎」

 けれど、と言の葉は続く。

「お前が誰であれ、私にとっては大切な弟だから」

 思いもよらなかったことを告げられ目を見開いた幸村は、紡がれた真意を問い質そうとする前に佐助に連れられて森の奥へと消えた。
 確かにそれを見送った信幸は、ゆっくりと前を見据える。
 不思議と恐怖心は浮かばなかった。
 迫り来る敵軍の波を前にしながらも、彼は地響きの中で負けぬよう声を張らせ名乗りを叫ぶ。紅蓮の炎で燃え上がる赤き双槍を、両の手で高く掲げた。
 自分達が守ってきた居場所を最期まで誇らしく照らすべく。

「我こそは真田源二郎幸村なり! 死にたい者からかかって来るが良い!!」

 ――そうして幸村は、地獄の淵から脱した。



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(2007/04/30)



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