「よう、幸村」
「政宗殿でござるか」

 上田城を訪れた政宗は昼なお薄暗い部屋へと通され、目的の人物である男を見下ろした。
 幼さを残した風貌は最後に会った時と変わらなかったが、隻眼とかち合ったその双眸に映されていたのは何処までも続くような深い闇だった。
 返答をした声音も、戦場での雄叫びからは想像も出来ないくらいに覇気が無い。

 ――噂は、本当だったのか。

 政宗は眉を顰めながら、幸村の前に腰を下ろした。
 一度瞼を落とし、真っ直ぐな竜の眼光を宿した彼は幸村と視線を交わす。

「殺ったらしいな」

 単刀直入に尋ねた政宗に、幸村は微かに目を見開いた。
 誰が、誰を、なんて野暮な訊き方はしない。
 多くを言わずとも幸村には伝わるだろうし、何よりも政宗自身が有りの侭を口にすることを疎んだ。
 殺した誰かの名も、殺された誰かの名も、政宗の耳に入った時に彼は信じられないと叫んだくらいである。そして次の瞬間に浮かんだのは、どうして、という疑問ばかり。
 憤りと嘆きは通り過ぎて、残ったのはただ遣る瀬無い気持ちだけだった。
 だからこそ政宗は幸村を訪ねてここまで来たのだ。
 ――政宗が想いを寄せていた相手が愛した幸村の、犯してしまった罪の重さとその行動の意味を知るために。

「政宗殿は御耳が早い」

 幸村はにこりと一つ笑んで、政宗の方へ向き直る。
 振り向く動作に微かな違和感を感じた政宗は、探るように片目を細めた。
 足りない。
 己の宿敵として認識していた頃の、真田幸村を構成していた何かがすっかり無くなっている。
 それは今の彼の精神状態の危うさ故か、政宗が見落としている外見上の何かか。薄暗い部屋の中ではすぐに分からなかった。

 幸村は両手の平を開きながら、腕を微かに上げた。
 以前は健康そのものだった肌が、青白く闇の中で浮かび上がっている。

「人を殺してあれほど手が震えたのは、初陣の時でさえなかったというのに」

 己の両手を見ながら、幸村は笑った。
 まだ指先がその時の感覚を覚えているのか、細かく震えていた。
 誰を――どちらを殺した時のことなのか、いや両方なのだろうと考えながら、それに気付かないふりをして政宗は話を促す。

「それはお前にとって、必要なことだったのか?」
「……分かりませぬ」

 信玄による天下を望んでいた幸村にとって、障害になるものは全て薙ぎ払う対象物だ。いっそ妄信的なまでに、斬る対象が何であれ躊躇しない。そういう生き方を自ら選んで、彼は進んできた。
 だが――と政宗は目の前で項垂れている年下の男を見下ろした。
 戸惑いを感じる相手と出会ってしまった時でさえ、刃を振り下ろさなくてはいけなかった幸村は、刹那的にでも信じていた者を信じられなくなった。その揺らぎを知った結果がこれなのか、と奥歯を噛み締める。
 逞しいはずの幸村の肩が、今にも深い場所へと堕ちていきそうなほど希薄に思える。志も恋慕の想いも、掛け替えのなかった者さえもその手で屠ってしまった彼に今残されているものは何なのだろうか。

「元就殿は構わぬと一言だけ申された。故に某は、迷いを失くしました……けれど、結果はこれだ」

 力なく、底の見えない深淵を宿した瞳のまま、もう一度幸村は笑った。
 どうすることも出来なかった自分を、嘲笑っていた。

 幸村は知っていた。天下を欲したこともなく、ただ、自分の領内の平穏のみを願った大事な人の望みを。
 それでも彼の行なった所業に、幸村が何も言わずとも周りは恐れるばかりで。幸村が彼を擁護しようにも騙されているのだと一蹴され。
 静かに暮らそうとしている彼を、そうして戦場へと向かわせ続け。対峙するために幸村もまた前線へ赴き刃を振るった。
 二人の哀しい逢瀬は、血煙の世界の中でしか果たすことが出来ず。繋ぎたいはずの手は互いを殺しあう武器が握られ、地に倒れ伏す身体を抱き締めることさえも叶わなかった。

 ――きっと、幾度も悩み考えただろう。
 戦のために生まれてきたと言われる位に、真っ直ぐで好戦的な宿敵を政宗は良く知っている。
 馬鹿が付くくらいに正直者で、愚かと呼べるくらいに迷いの無い槍を振るっていたから――幸村は初めて、自分の身が引き裂かれそうになるほどの大きな決断を迫られたはずだ。


 いとしいものをころす、けついを。


「政宗殿」

 呼ばれた声に、彷徨っていた思考の海から上がる。暗闇に慣れた隻眼は、ようやく先程から感じている違和感に気付いた。
 虎たる気迫だけではなく、目に見える物さえも幸村は失っていたのだ。
 一つに結ばれていたはずの後ろ髪が、無い。

「本当はこんな道、回避出来たのかもしれない。けれど、俺はそれを選べなかった」

 ――選べたかもしれなかったのに。
 幸村はぽつりとそう呟くと、政宗を前髪の隙間から窺うように見上げた。

「政宗殿ならば、選び取れましたか?」
「俺はお前じゃない」

 政宗は早口で問い掛けを切り捨てた。

「だから、お前が望んだ答えを俺の口からは言えねえよ……」

 こんな自分に何を聞こうというのか。
 父を殺し、弟を殺し、大事な家族の大切な者達までをも奪い、きっといつの日か母親をも噛み殺そうとするだろう、この醜い片目の竜に。
 たとえ幸村の愛していたあの人が自分を選んでいたのだとしても、幸せな未来一つ描けなかった自分に。

 固い口調からそれを読み取ったのだろう幸村は、苦く口の端を上げて、それから指先を堅い床へとそっとなぞらせた。
 何度も木目を行き交う男の指は、裏切りという行いによって流れた血で汚れた。けれど月日というものは残酷で、日の光を浴びなくなった肌には染み一つ見当たらない。

「元就殿から頂いた物は沢山あるのに、俺が差し上げられた物はたったこれだけだ」

 独白じみた声を漏らし、幸村が短くなった髪を項ごとぐっと握る。
 戦場で互いに首を狙い合い、幸村はその人の首を掻き切り、自身の首の代わりに髪が落ちた。――最初から首を取ろうという意志のなかった刃が、幸村のそれだけでも地獄へと持って逝こうとしたかのように。
 愛しい人の身体から吹き上がった熱い血飛沫を浴び、幸村は骸となってしまった最愛の人を呆然と見つめていた。
 穏やかに瞳を閉じて、その人の笑顔が今でも脳裏に焼き付いている。

 瞬間、幸村の世界は無機質となった。

 だからその後の本陣で自分が起こした凶行は、まるで幻を見ているような気分だった。
 大好きだった人のいない世界は、身の内で気付かず大きくなっていた獣を呆気もなく解放させた。それぐらいに彼を失くしたくなかったのだと、初めて知った。
 拘束されて、正気に戻った幸村が見たものは――更なる絶望だったけれど。


「いっそあの時、刺し違えて死んでしまえば良かった」

 ――そうすればこんなことにならなかった。恋しい人と死ねて、大切な人を殺さずに済んだのに。

 泣いているような悲愴な声で、幸村は呻く。
 政宗は彼をただ眺めていることしか出来なかった。
 ぶ厚い格子が、二人の間を阻んでいる。もう生きる場所さえ違うのだと、暗に告げている絶対的な壁が横たわっているのだから。

「元就さんのこと、愛していたんだろう?」
「愛しています。この身が汚れた今でも。常世に旅立っても。それだけは、永遠に変わらない」

 静かに響く竜の声に、幸村は真っ直ぐと答えた。
 揺ぎ無い視線が一瞬だけ政宗に突き刺さったが、それもすぐさま力なく瞼によって隠されてしまった。

 幸村は暗闇の中でも僅かばかりに伸びる自身の影を、忌々しそうに指でなぞる。
 押し殺した悔しさと哀しみが膨れ上がったため、とうとう内から食い破って溢れてきてしまった己の闇。それをじっと睨み付けながらも、犯してしまった大きな罪に幸村は薄笑いを浮かべ続けていた。

「時間だよ」

 背後の忍が焦れたように声をかけた。
 幸村を一瞥した政宗は、佐助に連れられて暗い部屋から出ていった。

「……刑はいつ」
「三日後。旦那の兄上様が、介錯するって」

 重たい吐息を漏らした佐助の表情は、焦燥しきっている。言葉の端々が震えているのは、泣いたからだろうか。
 佐助だけではない。上田城で出会う誰もが、苦しげに影を背負っていた。
 他国からの中傷や軽蔑など然したる問題ではないのだろう。彼らがこうして暗い顔をしているのは、幸村があの座敷牢に入れられた理由からだ。
 最愛だった人を殺してしまったことで、壊れてしまった運命の歯車。一瞬だけでもどす黒い感情に囚われた彼の犯した、大きな大きな罪故。

「主君を噛み殺した虎の和子の最期――俺も見届けさせてもらう」

 俯く佐助から視線を外し、ようやく外に出た政宗は空を見上げる。
 禍々しいほど真っ青な天空。獲物を待っているかのように旋回している黒い鳥は、鷲だろうか。
 政宗は悔しげに唇を噛み締め、幸村のいた牢へ続く道を振り向いた。

 結果的に元就を屠り、中国を滅ぼして天下を統一した甲斐の虎は、刹那の激情に駆られた自らの愛弟子によって倒されてしまった。
 幸村と元就を巡る薄暗い結末を、後世は何と伝えてゆくのだろう。愚かで短絡的な謀反と称するか、その影にあった悲恋故の行動だと謳うのか。
 どちらにしろ、政宗にとってはどうでも良いことだった。
 惹かれた男は国と共に死に絶え、覇を競い合った男は三日後に自害するのだから。

「もうすぐあんたの呪いが成就するぜ、元就さん?」

 かつて政宗の手を振り払った凍れる面影を脳裏に描き、苦笑を浮かべる。
 戦に駆り出され続け、国を滅ぼされ。愛しい男の手で殺され、形見の髪を抱いて死に。幸村に向かって精一杯笑った彼は、どれだけ世界を憎んだのだろう。
 彼の死はこの時代に暗い影を残し、幸村へ黄泉路でも変わらぬだろう想いを残した。それはまるで重く狂おしい呪詛のように――。

「不意に手元に転がり込んだ天下は俺への手向けか、枷か」

 瞼を一度閉じた政宗は、もう振り返らなかった。
 過去となる者達への感傷は終わりにしなければならない。自分にはまだやらなくてはならないことが待っているのだから。

 一人ぼっちの幸村には、もうすぐ迎えがやって来るはずだ。誰よりも愛しい人がきっと。
 彼らはようやく、互いの身体を抱き締められるのだろう。
 そこがたとえ地獄の淵だとしても。

「Happy forever together……とでも言っといてやるよ」




見 届 け た 人 の 話






 - END -





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暗い話で申し訳ない; 長編の「斜陽之華」に対してのちょっとしたオマージュ的な話でした。
実際あり得なくもないと思うのですが……どうでしょうか。
ぶち切れ幸村、いいとこどり政宗というパターンが好きらしいです。そしてお館様にごめんなさい……。
(2007/12/17)


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