元就との出会いは幸村にとって、拙い恋の始まりだったのだと言えばそうなのだろう。

 たとえ幸村が抱いたその感情は、きっと彼以外から見れば碌でもない毒にしかならないのが分かりきっていたとしても。
 それは幸村自身が一番良く理解していたのだ。
 倫理観と感情面と理性が殆ど隙間もなくぴたりと寄り添っている、そんな単純かつ純粋な青年にとって、このような事態は初めての事だったから余計に――その先にある破滅を何となく予感していた。



 女性と共に過ごす時間など極端にないまま、この歳まで育った幸村にとっては恋慕の情動などそれこそお伽噺の中でしか見たことがなかった。
 昔話で伝え聞いた、違う世界から降りてきた娘と結ばれることはできなかった男達の嘆き。約束を守れなかったその愚かさ。自ら死を選んでしまう悲しい別れ。
 女子供が好むようなそれらを幸村は好まなかったが、幼い頃に母か姉の口から語られたような思い出は残っている。教養としては戦記の方がずっと心が躍ったものだが、恋物語の理不尽さに納得がいかなかった記憶は鮮やかに思い浮かべられる。

 やがて拝領し、自分の家臣や民という存在がより身近になってから幸村は少しだけ市井の世界を垣間見た。
 村の若者が一緒に育ってきた近所の娘に対して抱く、緩やかな淡い想いもまた恋という名前がつくのだと知り、やがて領民の二人が婚姻したと聞いて心の底から祝福したのも最近の事。政略結婚や略奪しか知らなかった青年にとって、結ばれた夫婦の幸せそうな笑顔は不思議と遠いもののように感じられた。
 けれど彼らの営みが平穏のまま続けられるようにと、戦へ向かう気持ちが更に引き締まったのも確かだった。
 それでも武功一筋でお館様の支えになること以外に自分の行く末を考えもしない彼は、きっと自分にはそんな相手など永遠に見つからないのだろうと他人事のように思っていた。
 実際、幸村に訪れたのは名前しか知らない幾多の見合い相手。
 今をときめく武田軍の一番槍が若く端整であるのなら、妙齢の娘を持つ家が黙っていないのは当然だ。文を貰う都度に幸村は、自分は武田家に身を捧げているため今は考えられない、せめて上洛が叶うまでは受け入れられないとはっきり告げていたが、信玄の方から根回しをされてしまえばきっと断れないだろうことを分かっていた。
 家のためならばそうすることが良いに決まっている。
 頭で理解しているのならば、心もそれに寄り添うのが常だったはずだ。
 なのにそこで感じたのはあの夫婦に感じた健やかな気持ちではなく、どちらかと言えば昔話で聞いた恋模様に対しての――殆ど嫌悪に近い拒否感。

 そうして擦れ違った己の内側の隙間に見たのは、まだ数度しか垣間見たことのない毛利元就の背中だった。

 その現象が何なのか、幸村は分からないまま感情に蓋をした。
 いつしか蓋を閉めたことさえも忘れてしまい、自分の内側の暗い沼地で意識と擦れ違った感情が膨らんでいくことを知らず。



 + + +



「真田」
「はい」

 戦場以外で会話をするのももう慣れたものだった。
 一目会った時から何故か引っ掛かりを覚える相手は、幾度かの対峙の後に興味の対象となって幸村の前に座っている。
 元就の国に遣いとして正式にやって来たのは一度目と二度目だけだ。三度目を超えてから数えるのを止めてしまったが、無理やりに用事を作っては会いに行っている幸村の行動を不思議に思う者は徐々に増えていったが一旦夢中になると盲目となる彼は、周りの声も気にせず再び安芸を訪れていた。
 佐助にとうとう諌言めいた言葉を貰ったことでようやく、自分が周りにとって“おかしい事”をしていると見られているのを知ったばかりだった。

 しかし幸村は、元就の人となりを知るのに夢中だった。
 恋を自覚したばかりの止め処ない想いを溢れさせて、相手に隠さず好意をぶつけ続ける。
 それは、幸村が理不尽だと憤った物語の序幕と似通った展開。美しい女と出会った男が焦がれる気持ちそのままに愛を語るそれと同じ。
 後にその想いが元で離別を余儀なくされることを滑稽に思っていたはずが、まるでなぞるように行動してしまうのは男の性か、或いは恋の魔力が生み出した無意識の産物なのか。
 己の姿を外から鑑みることのできないまま、幸村は恋い慕う人に寄り添って温かな空気に揺蕩う。

「向こうは春がまだ来ぬのか」
「梅も桜も桃も、鮮やかな息吹を感じられるものは未だ咲かずにおります。瀬戸はこんなにも温かいのに……」

 ひらりと舞い落ちる花弁を一つ、掌に取りながら幸村は苦笑する。
 故郷の山々にはまだ雪が降る。南風がそよぐ西国の根雪はほろほろと崩れて清水をもたらしているというのに、向こうはまるで西へ赴こうとする幸村を阻むようによく天気が荒れた。
 ここも山国であるが、ずっと向こう側に海が見え隠れしている。
 幸村の国からは見えない広がる青は静かな陽光に煌めいていた。

「不思議なものでござるな。同じ日ノ本の大地にあるというのに、毛利殿の国と某の国ではまるで違う」

 嘆息めいた呟きを漏らしながら滲んだのは、隔たりを垣間見てしまったから故のある種の諦念感。
 幸村の心は何処までも、隣に座る人へと捧げられているというのにこの身体はそちら側へは行ってはならないのだと知っているからこその、悲しい諦め。
 精神と思考と身体が全て揃って動いていたはずの自分自身が、あるがままでいようとするほどに連動できなくなっている事実が少し怖くもあった。
 何に変えても主のためにと、それだけを芯にして動いていた己が揺らごうとしているこの変化は、されどもそれ以上の掛け替えのないものを見出してしまった事で二律背反に軋みを上げている。
 分かるからこそ幸村は苦しくも、笑う。

 それでも――それでも、今この時を最愛の人と過ごせる時間が愛しくて。

「真田」

 元就の指先が気遣わしげに寄せられて、応じるように受け止める。
 細くとも戦いを知る指先を己の頬に当てられて、微かな熱と血潮の熱さを感じた。
 それだけで十分幸せだ。
 幸福だと思うべきだと分かっているのに、人は貪欲な生き物なのだと改めて理解してしまうのが悔しくて堪らない。

「それでも春は、そなたの国にも訪れるであろう? 物事には等しく順序というものが存在する。何かが生まれるためには何かを失わねばならぬ。そうならぬよう我らは足掻くが……」

 一度言葉を切った元就は、幸村から視線を外して遠くを眺めた。
 彼の瞳には何が映っているのだろうか。
 意識をこちら側に引き戻したいと強い願望が込み上げたところで、幸村にはそれを告げる権利はないのだと喉元まで込み上げた衝動は再び飲み下すしかなくて唇が震えた。

「人の腕というものは真に矮小なるものよ。現実と言う壁を見据えなくては、夢見ることさえ儚い」
「毛利殿ほどの武人でも、そのようなお考えに至るのですか」

 純粋な驚きに見開かれた瞳へと振り向きながら元就は口の端を上げてみせた。
 その笑い方は幸村と酷く似通っていたのだが、二人はお互いに気付くことはなかった。

「若いな、そなたは」

 案に告げられた二人の垣根の高さ。立ち位置の違い。斯様な生き方しか選べなかったのは元就も、幸村も同様だと知らしめる。
 それなのに止められない逢瀬の重ね合いは一体何のために続けられているのか。
 会わないという選択肢を選び取ればそれで終わると言うのに。なお、足掻く様にして双眸を、掌を、交わしてしまうわけなどたった一つしかないのに。
 口にはできない歯痒さと、叶いはしない尊さに湧き上がる感覚が、離れていた芯を一瞬だったとしても一つに取り戻した。

 伸ばされた幸村の手は元就の背に回り、彼にしては少しばかり強引な手段を用いて僅かばかりに空いていた身体の隙間を埋めた。
 頬に触れていただけの熱を全身で受け止めて、表面に滑る熱はじりじりと奥底の劣情までをも炙り出す。

「……いけないことでしょうか」
「真田……」
「望んではならぬと、皆は言いましょう。しかし、貴殿が……元就殿だけがこれを認めて下さるのならば、某は」

 ――その先は言ってはならない。
 元就は声に出さず、そう告げた。触れ合った口唇の粘膜の熱さが幸村の愚かな恋を黙殺したまま受け入れる。
 それは欲しがった答えではない。
 それでも、欲しかった想いだった。

 幸村は瞼を閉じて、元就から与えられた温かさをひたすらに刻もうと回したままの腕に力を込める。
 元就は黙したまま、幸村から捧げられた温かさを忘れ得ぬように受け入れて抱き締める。
 二人の密度が一つになればいいのに、と。
 声には出さず、言葉も最早無用であったが、夢想するのは同じ哀切なのだとは理解できた。

「どのような結果となったとしても、我は我のまま行く。そなたもそのまま構わぬ――なあ、幸村? 我はそれでもそなたを想えるぞ」
「元就殿……某も、俺も、いつまでもそれだけは変わりませぬ」

 いとしいとかなしいを一重に束ねた愛の言葉は、くぐもった吐息に飲み込まれて消えていった。
 寄り添っていた身体は褥へと倒れ込み、今宵だけの現実逃避が静かに始まる。
 熱の上がる室の空気は甘やかでありながら長くは続かぬ刹那の儚さを持ってして、止まらぬ時を進ませていくのだった。

 重なり合った二つの影は、引き剥がされるその日をただ待つのみ。
 それでもいつか、またと――彼は奥底に生まれた日陰の愛を捨てられないまま、別離の待つ道へと歩き出す。



かなしいおはなしのまえに



 - END -





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間がだいぶ空いてますが、幸就「見届けた人の話」関連で。
もしくは甘々な幸就とのことで、くっつけて書かせていただきました。甘いけど全体的に暗くて申し訳ないです。
リクエストどうもありがとうございました。
(2014/05/16)


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