一番憎くて殺したいのは自分ばかりが寂しいと言う醜いほど身勝手な己という存在
――触らないで下さい。
たった一言。
それだけで奈落に落とされたような気がした。
跳ね除けられた手からじんわりと伝わる痛みと熱。喉はからからに渇ききり、瞬きを忘れた目は見開いたまま横たわる現実を直視する。
少しだけ低い位置にある相手の顔は、ただただ冷たいものを纏わせるばかりで。
今何て言った、などと問い掛けることもできなかった。同じ答えを二度も聞くことは耐えられない。
呆然と佇む己から視線を逸らし、佐助は風のように掻き消えた。
最後に何事か言い残していたような気がしたが、そんな呟きなど幸村の慰めにもならなかった。
絶望を感じてしまえば、きっと世界は引っ繰り返ってしまうのだろう。
昨日までそう信じてきた幸村は、あまりにも変化の無い周りの光景に眩暈を覚えそうになった。
信玄の屋敷にて不意に出会っても、佐助は顔を伏せるだけで簡単な挨拶を返すだけ。喧しく、母親のように構ってきていた昨日までの様子とは全く違っている。
些細な一言。それで二人の間には完全に溝が開いてしまっていた。
どうしてそう言われたのだろうと会話の流れを思い出してみるものの、あの徹底的な言葉によって記憶が曖昧だった。どんな時だって妥協してくれていた佐助が拒否を示した。ならばきっと自分は、知らない内に佐助の優しさに付け込んで気に障るようなことをしでかしていたのだろうか。
考えてしまうたびに、幸村は込み上げてくる熱い衝動をぐっと堪えた。
日の本一の武士を目指す男が、これくらいのことで涙を零すものか。
そう決意しながらも、佐助に関することはきっと自分の中で最も敷居が高い位置にあるのだろうなと、奥歯を噛み締めながら思った。
お館様ならば拳の一つや二つをくれて自分に喝を入れてくれる。それでも落ち込んだ気分は全て払拭されないだろうが、明日から出陣となる。少しでも不安や焦りの思いを拭った方が良いに決まっている。
幸村はそう決心し、信玄の部屋へと歩を進めた。
先程、佐助と擦れ違った際に彼が向かった方向へと。
襖の向こうから聞こえたのは苦々しい悔恨の声音。
ああ、本当にこれで良かったのだろうか。
信玄の漏らした声に、一体何のことなのだろうかと思い首を傾げかけた。その時、幸村ははっと顔を上げた。
天井で板が軋んだ音がした。誰かが通った。間者かと身構えるものの、それっきり音は途切れた。わざと気付かれるように立てられた音源は忍としては不自然なもの。
だが幸村は酷い焦燥感に駆られた。
早く、早く、早く、行かないと。
(何処へ? 何処へ? 何処へ行こうというの?)
相反する気持ちが自分を追い立てる。幸村はその衝動に突き動かされるままに信玄の部屋へと飛び込んだ。
尊敬する師が狼狽した様子でこちらを見ていた。
幸村は開きかけていた口を閉ざし、冷ややかに背筋を流れていく汗の感触を感じていた。
聞いていたのか、幸村。
問いかけられても答えられず。幸村は信玄を凝視したまま黙っていた。
奇妙な沈黙が続いたのはほんの僅かだったが、とても長いようにも思えた。
幸村は天井を見上げ、それから唇を開いた。
さすけ、は、どこ、ですか。
聞きたくないのに。聞きたくて仕方が無いのに。
矛盾しながらも幸村は本能的にそう尋ねた。もう、この手に戻らないだろう人を求めるが如く。
この手に今、槍があれば良かったのに。
そうしたら頭上を通り抜けていった愛しい人を、血みどろに変えてでも止めることができただろうに。
そうしたら目の前にいる愛しい人を死地へ送った主を、血みどろに変えてでも憤りを鎮めることができただろうに。
今、自分はどんな顔をしているだろう。
鬼神か。修羅か。
険しい顔のままじっと見つめてくる信玄の瞳を真正面から見る勇気はなく、幸村は俯いたまま微かに首を振った。
いいえ、なんでも、ありませんから。
そのまま頭を垂れて部屋から出て行った幸村の背中を、信玄はただ見ていた。苦しくて辛かった。それでも、自分以上にあの二人は哀しいだろうにと思うから。決して、口には出来なかった。
幸村は自分に与えられた小さな屋敷の、隅の部屋に走りこんだ。
がらんどうな部屋。生活感がまるでないその室内には、本当に人が住んでいたのだろうかと疑わせるほどだ。
忍は、ひっそりと消えていくから。
あんなにも言い聞かされていたというのに。消える前に彼がいたという証を手にしておけば、こんなにも虚しい思いはしないのだろうか。
たった一つ残されていたのは、昨夜共にした褥であった一組の布団だけ。部屋の隅に畳まれたまま、そのまま風化されていくかのように哀しい白さを浮かべている。
匂いの無い彼の温もりを求めたくて、冷たいその布地にそっと頬を寄せる。
かさりとなった固い物。
顔を上げて、手を這わせれば裏地に仕込まれた一つの手紙。
彼の字体が奇妙なほど懐かしく思えて、幸村は手元が震えたことに気付いた。
触らないで下さい。
(これ以上、貴方の温かさになんて慣れたくないから)
触らないで下さい。
(これ以上、貴方の枷になんてなりたくないから)
触らないで下さい。
(貴方への最期の御奉仕、決心を鈍らせないで下さい)
触らないで下さい。
(道具が感情を持ってしまっては、もう、このままでは生きていけないのです)
あの、たった一言に。
どれほどの想いが込められていたというのだろうか、推し量れはしない。
――ごめんね、ゆきむらさま――
あの時彼の呟いた言葉が、今になって鮮明に聞こえた。
こんな手紙より。あんな泣き出しそうな声よりも。冷たく振舞おうとしたあの一言よりも。
一人でいってしまった佐助が、憎たらしくて八つ裂きにしてしまいたいほど――哀し、過ぎた。
愛しい人。
自分が主であるはずなのに、自分を好いてくれてしまったから故に命も願いも聞き入れずに掻き消えた。
いっその事、連れ去ってしまえば。閉じ込めてしまえば。殺してしまえば。
だけどもう、彼は戻らないのだ。
佐助は何処にもいないのだ。
嗚呼、一番憎くて殺したいのは、自分ばかりが寂しいと言う醜いほど身勝手な己という存在なのだ!
- END -
...............................................................................................................
暗いのばっかり書きたくなるサナサス。明るいのもいつかは書きたいです。
この時点ではまだ佐助は死んでいないのだけれど、一応死にネタ分類。
長いタイトル好きだな、自分……。
(2006/09/20)
←←←Back