slight fever


「……っくしゅ!」

 政宗はすぐ隣から聞こえた、この場にそぐわぬ異音にほんの少しだけ戸惑った。
 厳しい季節を乗り越えて文字通り青々とした芽吹きを見せる青葉山を、珍しく元就と二人きりで散歩し始めた矢先の事だった。
 生憎元就の信仰する日輪は曇り空に阻まれていて、どことなく薄暗い午前。まだ体温も十分に上がりきらない中で外へと連れ出したものだから寒かっただろうかと、隣の恋人をおずおずと窺って見る。
 元就のくしゃみはそれっきりだったようで、細い肩を微かに強張らせてはいたがその横顔は平然としていた。
 逆に歩みを止めてしまった政宗を怪訝に思ったらしく、一歩先へ出てしまっていた足を止めて不思議そうに振り返る。

「どうした政宗。今日は上まで登るのであろう?」

 こちらを向いた元就の端整な顔はいつもと変わらないように思えるが――変わらないなどと断言できるほど、共にしてきた時間は長くないのを政宗はよく知っていた。
 今回だって、雪解けが終わりを告げる頃にようやく出せた文で約束を取り付けられたのだ。西国に住む元就と東北の政宗とでは一年間の生活環境さえ大きく違う。雪に閉ざされて手紙一つ届けるのだって困難な季節があり、春まで元就と会える可能性は殆どない。
 元就の住む国はこことはまるで気候が違う。仕方ないと分かってはいても、奥州に閉ざされる季節が訪れるたびに始まる忍耐の日々を思うと、今すぐにでも冬籠りとは無縁の西へ飛んでいきたい気分にさせられた。
 そんな悶々とさせられてきた冬も終わり、元就へ宛てた文の返事に舞い上がったのはさほど前の話ではない。
 こちらへ返信が届いて数日後には、その文面に書かれていたとおりに元就は政宗の元へと訪れてくれた。
 甘い希望的観測であるのかもしれないが、彼も同じように会いたい気持ちが先走っていたのではと思うと自然と頬が緩む。普段は政宗が元就を訪ねることの方が断然多いから、余計にらしくもなく舞い上がってしまっていた。
 昨日よりは程よく落ち着いたとはいえ、朝議が済んだその足で元就を外へと連れ出すほどには久方ぶりの時間に興奮を抑えきれていないらしい、と政宗は自己分析をしながらぽかぽかと温まる胸の内を噛み締めて歩いていたのだった。
 だから気付くのが遅れたのかもしれない。
 小さな自己嫌悪に舌打ちをして、政宗は離れてしまった元就の傍へと大股で近付いた。

「……なぁアンタ」
「?」

 先程まではしゃいだ風にあれはこれはと話し掛け、城を構えている青葉山の道すがらを楽しげに進んでいた政宗が急に真剣な眼差しで元就に訴えてきた。
 元就としては顔には出ていないものの、政宗の願望とさして変わらない気持ちを抱きながら久しぶりの穏やかな時間を堪能していたところだ。何故急に彼が険しい顔をするのかが全く見当も付かず、ただ微かに首を傾けるに留まる。
 その無防備な姿は己の存在を受け入れてくれているからこそだと惚れた欲目もあったが、それにしてはどこかぼんやりとした、地に足のついていないような不安定さがあって政宗は急激な不安感に襲われた。
 不安はすぐさま焦りになる。元就の手を掴んだ政宗は、勢いよくその身体を自身の胸元へと寄せた。

「なっ、急に何をする!」

 そういって声を荒げた元就だが、然したる抵抗も見せずに大人しく政宗に身を委ねてくれている。
 一目のつかないこんな場所だから許されているのだろうが、些細な接触は政宗の中の疑惑を確信めいたものへと変化させるには十分だった。

「アンタ、何で言わないんだよ! もうこんなに手が冷たいじゃねぇか」

 引いた掌の温もりは想像と違って酷く冷え切っているくせに、どことなく汗ばんでいた。
 それなりに歩いてきたから疲れたのかとも一瞬思ったが、間近で見る元就の動かない表情の片隅に明らかな倦怠感が見える。薄暗さから気のせいかと思っていた頬の白さは、明らかに不自然なまでに青褪めていた。
 反論しようとこちらを仰ぎ見た元就に臆することなく、政宗は空いていた方の手を元就の項へ寄せた。唐突な接近に言葉を失った元就の見開かれた瞳を眺め、まるで口寄せする時のようだと政宗は仄かに頬を赤らめた。
 そうして鼻先さえもくっつきそうなほど顔を寄せると、互いの額がゆっくりとくっつけた。
 項にあった指先を滑られて邪魔な前髪を払って肌と肌がこつり、と触れ合う。
 お互い、決して平熱が高くない方ではあるが散歩をしていたからか少しばかり温まってはいるだろうと想像はついた。けれど政宗が感じた元就の額の熱は、冷たくなっているその手とは裏腹に酷く熱く感じられた。

「やっぱり熱まで出ていやがる……くそっ」
「政宗っ! そう引っ張りでない、折角ここまで歩いてきたのに」
「Follow me! さっさと戻るぞ!」

 一番上に着ていた胴服を脱いだ政宗はそれを元就に無理やり着込ませて、元来た道へと引き返した。
 突然の行動の数々が本当に理解できていないらしく、戸惑いつつも繋がれた手を引かれるがままに歩き出す元就の非難に自然と眉が寄せられた。
 とはいえ心中に溢れ出すのは焦燥と不安。元就の不調に気付かないまま連れ出してしまった、至らない配慮への自己嫌悪であった。


 * * *


 予想以上に早く戻ってきた主君を訝しむ家人へ侍医を呼ぶよう命じると、政宗はそのまま両腕で抱きかかえていた元就を彼の逗留している客間へと有無言わせずに放り込んだ。
 急いで戻ってきた帰り道、手を繋いでいた元就はあれから何度もくしゃみを繰り返しては吐息を荒くして、あれほど青褪めていた顔も徐々に赤らんできていた。
 肢体にも段々と力が入らなくなったのか転びそうになった元就を、政宗は必至の形相で抱き締めて何とかこの屋敷まで戻ってきたのだった。
 普段ならば女子を抱えるような格好で抱かれるなんて、自尊心が許さないだろう元就はどことなく朦朧とした視線を政宗に返すだけで何も言わなかった。それがまた、政宗を不安にさせた。
 勝手知ったる間取りである。さっさと枕を用意して元就が苦しくないように横にすると、着せていた胴服を取り去って痩身を絞め付けている各所の帯を少しずつ緩めていった。あからさまにほっとした吐息を吐き出した元就に、またしても心が震えたが政宗はそのまま楽になった身体の上に上着をかけてやると、用意させた水と桶を受け取って元就の額に浮かぶ汗を拭ってやった。

「自覚なかったのかよ」
「……」

 咎めるような口調になってしまったことに気付き、ばつが悪くなった政宗は思わず目を背ける。

「調子悪いんなら、言えよ。別に無理して俺に付き合うことなんかないだろう。……悪かったよ」
「そなたが謝る事などないであろう。我の見通しが甘かったということだ」
「それってやっぱり無理をさせたってことだろう」

 あやすように笑う元就の気配が居た堪れない。
 雪解けが終わったとはいえ、奥州は西よりもずっと寒いだろう。東北育ちである政宗には慣れっこだからつい感覚が麻痺してしまっていたが、こんなに早い季節に元就が政宗の国を訪れることは滅多にない。旅の疲れと相成って、風邪をひかせてしまったのだろう。
 もう一度元就の額と己の額の温度差を比較しながら、政宗は嘆息を吐き出さずにはいられなかった。
 そもそも、会いたい気持ちが急いだあまりにいつもよりもずっと早く文を送ったのは政宗の方だ。抑えきれなかった情念を叩き付けるようにして綴った想いを、元就は何も言わずに汲み取ってくれた。大概は政宗自身が会いに来なければ叶わない場合ばかりであるのに、こういう時は必ずといって良いほど元就自身が切羽詰まっている政宗の元へと自発的に訪れてくれるものだった。
 それが素直に嬉しくて堪らないと思う。
 けれど、舞い上がったまま喜ばしい自分の現状にばかり酔っていてはいけなかったのだ。
 何よりも大切な人が気遣ってくれた分、遠い東の奥地まで足を運んできてくれた元就を今度は政宗の方が愛おしむべきであった。奥州から慌ただしくやって来る政宗を常に変わらず受け入れてくれる元就のように。
 暗い顔付きをしていた政宗を目聡く見つけて、元就は項垂れた頭へそっと手を置いた。
 普段なら軽く払っているところだったが、その冷たい手は沈んだ政宗の気持ちをほんの少しだけ慰めてくれた。

「そう気にするな。……くしゅっ!」
「分かったから! ほら、大人しくしててくれよ」

 寒気を覚えて再びくしゃみをした元就に、政宗は慌てて上着をかけ直してやってからその額に絞り直した濡れた手拭いを乗せた。
 侍医がそろそろ到着すると障子越しに告げられても、気遣わしげな視線を和らげることなく政宗は元就をじっと見つめ続けるのだった。

 診察を終えた侍医の見立てでは、風邪、ということであった。
 このくらいの寒さなど厳しい冬を乗り越えたばかりの東北人にとっては何気なかったのだが、瀬戸で育った元就にはやはり調子が狂うもののようだ。こちらに来るのはもっと温かくなってからの事が多かったから、見通しが甘かったという言葉通りに、元就の予想よりもずっと寒かったのだろう。加えて長旅の疲れが蓄積された結果である。
 薬湯を作ってもらい家人に侍医を送らせた政宗は、元就の看病をするべく今日はずっとこの客間にいると現在も執務中であろう小十郎達への伝達を済ませた。
 最初から本日は元就と出かける予定であったので、ここにいても特に文句は言われないはずである。――最も、病人を主君が直々に看るという行為自体に呆れていそうだが。
 侍医が言うにはこれからもっと熱が上がるだろうとのことだったので、せめてその間だけでもついていたかった。

「ほら元就さん、薬湯だけでも飲まねぇと」
「あまり口に物を入れる気分ではないのだが……」
「後で辛くなるぜ。白湯も持ってきてやるから、なぁ頼むよ」

 情けない事に語尾が震えそうになっている自身に気が付いて、政宗は困った様子で匙を掬ってみせた。
 強がって何でもないと告げてくる元就であるが本人が知らないだけで、山を歩いていた時よりも断然具合が悪化していた。ぼんやりしていた視線は上がり始めた熱のせいで更に混濁として、目元が赤く微かに潤んでいる。繰り返される呼吸音もどこか苦しげだ。
 熱が上がるだろうことは素人目から見ても十分予測できた。
 政宗が懇願を口にするなど滅多にない。
 それほどまでに彼を心配させてしまっているのだろうかと元就は思う。
 普段は強気で不遜な態度を崩さない政宗の、不意に見せるこんな表情に弱いのだと最近になって自覚した。年下扱いをすれば悔しげにして、拗ねるような横顔を見せるのが好きだった。
 恋人だと豪語できる政宗の若さには呆れるものの、付き合っている自分もそれなりにのぼせているのだ。互いにそんな気持ちを真っ向からぶつけ合うには、難解な矜持や羞恥が邪魔をして難しいのだけれど。
 くすりと口の端を和らげた元就は、政宗が口元に寄せてくれた苦い薬湯を口にした。
 しばらく呆気に取られていた政宗は慌てて次の分を掬って差し出す。
 匙と椀が時折擦れて音をたてる以外に、静かな一時が過ぎていった。

「もう良い。白湯か、水を持って参れ。我は寝る」
「本当に大丈夫なのかよ?」
「案ずるな。一晩ゆっくり休めば治るであろう」

 思いのほか穏やかな返答が返り、まだ政宗の中に不安要素は居座ったままであったがひとまず安心した。
 政宗も他人をどうこう言える立場ではなかったが、元就は自分自身に無頓着過ぎるのだ。
 こうして具合を悪くするか、最悪倒れたりしなければ、どれほど周囲に心配かけているのか気付きもしない。
 だから時々、怖くなる。
 今回のように気付けないまま、発覚が遅れてしまい症状が手遅れだった時は一体どうすればいいのだろうか。どんな心構えでいたらよいのか。
 瞼を下した元就を見守った後、器を片付けた政宗はそのまま床に寝そべる。
 この人のために自分は一体何ができるのだろうか。
 決して自由にはなれないこの身。たとえば再び敵同士として出会ってしまえば、刃を向き合わずにはいられない不安定な関係。
 けれどもそれでも政宗は惹かれ、元就も好いてくれた。
 ならば共にいることが許されているこの時を一秒たりとも無駄にせず、一緒に過ごしていきたかった。
 多分、元就は政宗に大きなものなんて一つも望んでいないだろう。それは政宗とて例外ではない。
 二人がお互いの関係の中で求めるものなど本当にちっぽけな平穏だった。
 いつか血生臭い戦場に摩り替るかもしれない、儚い平穏だとしても――。

「何て、考え過ぎだな。今の俺にできることなんざ、アンタの看病をしてやるぐらいだ」

 自嘲気味に笑った政宗の言葉が聞こえたのか、薄く目を開いた元就が小さく顔を傾けて寝そべる隻眼を見た。

「――政宗」

 緩やかな滑舌で己の名を紡いだ唇は、軽く微笑んだ。

「我が目覚めるまで、傍におるのだぞ」

 そうやって一方的に告げた元就は、今度こそ目を伏せた。薬湯が聞いてきたのか呼吸もすぐに寝息となり、政宗の赤くなった耳元を擽る。
 白湯と水差しをどうやって持ってこさせるつもりなのか。
 ほんの少しだけ視線を下げてみると、軽く投げ出していたはずの政宗の手を裾からはみ出した元就の手が握っていた。決して離さないとでも言いたげな、しっかりとした形で。
 深い溜息を吐き出した政宗は、薬湯の器を下げに来たのだろう家人の足音に気付いて苦笑する。
 少々みっともない体勢ではあるが、ご所望の物は運んでもらうことにしよう。
 今は、政宗だけにしかできないことが確かにここにあるのだから。



 - END -





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プロット交換でいただいた「風邪っぴき元就と看病する政宗」を書かせていただきました。
Pixivに置いていたのでこちらにも。
政宗は心砕いた相手ならすごく献身になりそうな側面もあるのかなと思います。
元就も元就でだいぶ甘えてくれているはずなんだけど、そういうのははっきり言われないと気付かない筆頭が好きです。

(初出2012/5/24・更新2013/6/14)


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