青空はあんなに近かった
2:きっかけ編
件の西国よりの客人の事が梵天丸は大層気になっていた。
伊達家に仕える家人達ですらこの飛び出た右目を見るごとに、眉を顰めてみせたり陰でこそこそとあることないこと噂しているのは知っている。
いくら子供だとはいえ、自分の置かれた状況が病を境に急激な変化を伴ったことくらい気付くものだ。
守役の小十郎は一層梵天丸に厳しく、そして優しくなったのは、周りに流されて俯いてばかりいる自分をどうにかしてやってほしいと父から言われているからなのも、命令以上に心配だったからこそだということだって分かっているのだ。
その点、従弟の時宗丸の明るく自分を引っ張っていってくれる強引さは気兼ねせずにいられるもので、大概二人は口煩い従者達から逃げ回ったりしながらいつも一緒に遊んでいた。
そして、あの客人と出会った時のはそんな日常の風景の中でだった。
思わず声を上げて笑ってしまった梵天丸は、はっとして急いで口を噤んで俯いてしまった。
何てことはない、素直に恥ずかしかったのだ。
人見知りの梵天丸が初対面の相手にあんな言葉を告げられたのは勿論、生まれて初めてのことだった。嫌味や嫌悪以外であったら、可哀想にだとか、病から立ち直れてよかっただとか、大抵そんな感想を抱かれるから――まさか随分先の戦についての心配なんてしてきた輩がいようとは。
衝撃はむず痒いものとなって梵天丸から込み上げて、噴き出してしまった。
陰口や同情心への反発や悲しみなどが浮かんでも無反応でいた方が自分を傷付けずに済むのだと早いうちに気付いてしまっていた梵天丸が、そんな風に己の右目の話題で声を出して笑うのなんて初めての事かもしれない。
驚いている小十郎や不思議そうに見ている時宗丸の視線が唐突に羞恥心をもたげさせ、梵天丸はいつものように顔を伏せてそのまま小十郎の後ろから隠れて出てこなくなった。ほんの少し違っているのは、普段は真っ青になっていそうな頬が耳筋まで赤く染まりきっていたということだけだろう。
他家の人間を前にして何て恥ずかしい真似をしてしまったのだと、今更ながら梵天丸は憂鬱気な溜息を吐き出していた。
当の客人はといえば、笑った梵天丸の珍しさなどに気付くわけもなく訪れた時と同じような凪いだ気配を保ったまま、本堂へと入っていった。言葉通り半刻ほど待つ気であったのだろうが、その後すぐに和尚が帰ってきたので留守を兼ねていた小十郎に促されて梵天丸達は屋敷への帰路へと着いたため結局それ以上言葉を交わさないまま別れたのだ。
けれど価値観を引っ繰り返されたような衝撃は、あれから二日も経過したというのに梵天丸から消えてくれない。
家に帰ってからすぐに小十郎からあの人の事を聞いてみたのだが、生憎小十郎も詳しい事情は知らないらしい。朝から梵天丸と時宗丸の面倒を一人で看ているのだから当然と言えば当然だ。困った顔をされてしまえば口を噤むしか出来なくなり、とりあえず父が話してくれる頃合いを待つことにした。
大人達は朝から少し立て込んでいるようで、主である自分にも容赦ない態度である小十郎にさえ口を挟ませない雰囲気があったからどうせ訊ねたところで教えてくれるはずもないと梵天丸は最初から諦めていた。
でももう二日だ。
屋敷の中は落ち着いた様子で、いつもと変わらない空気が満ち満ちている。客人と出会った日とはまるで違う。
それなのに部屋に父親が来る気配は全くなくて、何事にも消極である梵天丸が自ら向かおうかとさえちらりと考えてしまうほどであった。
梵天丸の様子にいち早く気付いていた小十郎は能動的に動こうとすら思った子供の変化が嬉しかったようで、朝から気を利かせて客人についての情報集めに精を出してくれている。まだまだ少年であるが、味方の少ない梵天丸にとって一番頼りになるのはやはり彼であった。
「……でも遅いな」
頼りになるからこそ、いつも共にいる彼の姿が近くにないと少々心細くもなる。今日に限って時宗丸は遊びにやって来ないので、妙に空いてしまった時間は酷く居心地が悪い。
梵天丸は濡縁で素足をぶらつかせながら、広い庭先をぼんやり眺めた。
向こう側に見える垣根の裏側から、一昨日のようにあの眩しい存在がひょっこりと顔を出さないかと小さな期待を胸にしながら――。
「……?」
一瞬見間違えかと思った梵天丸は、健在な左目をよくよく凝らして見た。
庭と言えども殺風景な造りである。垣根だってそう大層な代物ではなく、こちら側の建物とあちら側の風景を何となく区切っているだけに過ぎない。
垣根の向こうには幾つか木が生えていて見え難かったが、確か寂びれた東屋が一つあったはずだ。だから想像したところで誰もいないだろう事は分かりきっていたのだけれども、現実は違うらしい。
垣根が途切れた部分から、小さな頭が見え隠れしていた。
その髪の色は見慣れたものではなく、また記憶に新しく深く刻まれている色でもあった。
普段なら怖がって絶対に近付かない梵天丸が、慌てて草鞋を履いて駆け出したのを誰かが見ていれば仰天しただろう。
だが当の本人はようやく見つけた手がかりに無我夢中であった。
小さな人影は近付いてみるとやはり小さくて、立派な大人のあの人ではないことに梵天丸は落胆していた。
気付かれる前に去ろうか、と先程までの行動力をあっという間に萎えさせながら一歩だけ後退りした梵天丸は、自分と同じように細い肩と俯いた頭が震えていることに気付いて足を止めた。
――泣いている。
しゃがみ込んで垣根の影で涙を堪えている姿が、苛められて泣く己の姿と重なってしまって何だか放っておくのも居心地が悪い気になる。
どうしようかと辺りを見回してみても、いつも助けてくれる父も小十郎も時宗丸も今はいない。
「……あの、だいじょうぶ、か?」
梵天丸にしては大きな決心だった。
泣いている自分を見つけてくれた大好きな人達を真似て、自ら出来る限り優しく声をかけてみたのだ。人見知りの子供にとっては壮絶なる勇気が必要であるから、梵天丸の心臓も今にも張り裂けそうなくらいに緊張で音をたてていた。
囁く様な小声であったが相手には届いてくれたらしく、客人と似た髪質を持つ子供の頭が静かに上げられる。
涙で歪んでいる視線を向けてきたのは、梵天丸より少し年上の見知らぬ少年であった。
真っ直ぐ見つめられて一瞬怯んだが、逆に自分の事を知らない子供であるのならばいつものように罵倒混じりの嫌味など聞かずに済むだろうと考え直す。それでも右目を隠しがちになってしまうのは悲しい反射でもあった。
相手の少年は流石に自分よりも年下の子供に心配されては、いつまでも愚図っているわけにもいかないと思い直したのか鼻を啜って頷いた。
まともな反応にほっと息をついた梵天丸は、辺りを見回す。伊達家の者ではないだろう子供が一人でこんな場所まで入り込めるはずはないので、付き人か何かがいると思ったのだが人気はない。
「おまえ、まいごか?」
「ちがうけど……ひとりで心細くて……ごめんなさい、もう大丈夫です」
まだ涙声であったが、幾分かしっかりとした返答が返ってきた。
舌足らずなのは梵天丸も同様だが、この位の歳の子供は一つ二つの違いで大きく成長の差が空くので言葉使いにも顕著にそれが見られる。立ち上がると背丈も自分より頭一つ分抜き出ていて、重病から回復してからだいぶ経つ梵天丸よりも随分と頼りない印象を与える。
赤らんだ目元を擦った少年は、寂びれた東屋の方へと歩き出そうとする。
「えっと、あの、梵天もひとりなんだ。おまえがよければ、その……」
「ぼんてん? 梵天丸さまですか?」
肩を落とした背中が何だか放っておけずに、気が付けば自然と口に出ていた。梵天丸自身が驚いて思わず語尾を窄めてしまう。
そうして向こうが自分が何者か知らしめてしまった事に気付いて青くなった。
伊達家の屋敷内にいるのだからたとえ余所者だとしても、醜い梵天丸の噂くらい知っているだろう。それを失念していた梵天丸は慌てて俯いてしまった。
折角ここまで会話らしきものが出来たのに、掌を返されて気味悪がられては今度はこちらが泣きそうになる。
勇気なんて振り絞るものではないじゃないか。
いつも意気地無しと溜息を付いてくる小十郎に向かって頭の中で文句を告げてみる。
――ところが耳を擽ったのは歓声であった。
「わぁ本当ですか! ぼく、ずっとお会いしてみたかった!」
忌諱されるかと思いきや、慕う言葉が飛び出してきて思わず梵天丸は顔を上げた。
子供が本当に喜んでいるのか信じられず、まじまじと表情を見つめてしまう。
それが自分の右側を晒す行為だというのを一瞬忘れてしまった程に衝撃であった。
「梵天丸さまは病にうちかって、まだちいさいのにご当主になるためがんばっているって次郎さまが! それでぼくもお会いしたいって思っていて、それで……」
彼の瞳は紛れもない好意で輝いていた。
梵天丸を嫌悪したり、上辺だけで褒めるような奴らの持っている独特の薄汚い暗さなんて一片も見当たらない。
無知な子供とて自分にどういった感情が向けられているのかは薄々気が付くものであり、同じような歳ならば余計に好き嫌いははっきりするものだ。いくら大名の家の跡取りだとしても梵天丸もまだ十にも満たない幼子でしかなくて、どうしたってまだ本能的な部分が多く働く。それは相手の子供にも言える事だ。
だから彼が向けてきた純粋な気持ちには嘘は無くて。
人とは違う部分に劣等感を抱いていた梵天丸が感じ取ったのは――。
「……おまえは、これをなんとも思わないのか」
「梵天丸さまの初戦勝のあかしではないのですか?」
思い浮かんだあの人と初めて交わした言葉を告げてみれば、不思議そうに首を傾げられた。
その見当違いな答え方が似通っていて、つい笑いが込み上げてしまった梵天丸は何とか奥歯で噛み殺そうとして唇を歪めてしまう。
変な顔になってしまっていると自覚を覚えて恥ずかしくなるが、当の少年は別のものに気を取られていてこちらを見ていなかったのでほっとした。
「次郎さまだ! ありがとう、梵天丸さま!」
「あ、ああ。その……ひとりの時はあそんでやるから、またな」
どうやら知り合いが探しに来たらしい。まだ赤い目元を眺めながら良かったと思い、梵天丸は先程言いかけていた言葉を改めてぼそぼそと告げてみた。
少年は嬉しそうに笑って会釈すると、東屋ではなく垣根の向こうの屋敷に向かって走り出す。足元が頼りなく転ばないか心配で、彼の去っていく方向を思わず見送ってしまう。
そこで梵天丸は今日何度目かになる驚嘆を覚えるのだった。
「あまりお離れにならないようにと申し上げたが。……何ぞ良い事でもございましたか」
「梵天丸さまとお話ししました。こんどはこちらから伺ってもよいですか?」
子供が裾を掴んだのは従者というよりもずっと威厳のある、見覚えのある大人の人影。
彼はこちらをちらりと眺めた、綺麗に口元を綻ばせた。
傍らの少年と揃って会釈を梵天丸に残して、二人は連れ立って屋敷の影へと立ち去って行ったのだった。
後から探しにやってきた小十郎が言うには、梵天丸はしゃがみ込んだまま茹ったように顔を真っ赤にして呻いていたらしい。
泣いていた子に話し掛けた時よりも脈打ちは早くて、緊張の糸が途切れてしまった足元が震えていた。けれどむず痒いくらいに駆け上っていった感覚は先程感じた歓喜と同種であって――ちょっとだけ類が違っているのを梵天丸が知るのは、これからずっとずっと未来の話になる。
- END -
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とんでもif設定の続きです。捏造だらけですが、時間軸からして完全パラレルと割り切ってますのでよろしくお願いします。
十周年リクエストありがとうございました。お待たせしまして申し訳ありません!
(2012/2/2)
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