あまねくてらすはわがみちよ
薄暗い天気の下、城内には負傷した兵がひしめき合っていた。連戦続きで疲労も溜まる一方、さらに籠城という形で退却しなければならなかった状況を見てきた兵達の士気も落ちている。
二の丸からその様子を眺めていた元就は、分断された本隊の陣があるであろう方向へと視線を走らせる。あちらもあまり士気が高くないだろうと予想はついた。
ふっと溜息を吐き出し、元就は近くの濡縁に座って空を見上げた。
「雨が降るか」
姿のない日輪に思いを馳せながら身じろぐと、着たままの具足が擦れ合った。
その音に紛れて、引き摺るような足音が元就の耳に入る。顔だけをそちらに向ければ、見慣れた人物がゆっくりと近づいてきていた。
「此方におられましたか」
「……お前の方から来るとは、何か急用か。それとも戦場に臆したか?」
無表情のまま淡々と紡がれる言葉に、側へやってきた男はくすりと笑う。
他人が聞けば冷たい声だと批判するだろう。けれども彼にはこれが元就なりの気遣いであるのだと知っている。
此度の戦の陣中に入る事となったのは全くの偶然だ。足萎えの己がたまたま所用でこの城へと滞在している最中、近くの国境線で防衛線が張られて元就が率いる軍がこの城へと籠城の形を取ったのだ。そもそも自分が戦場で何の役にも立たないだろう事は彼自身がよく知っていた。
「血生臭さにはいまだ慣れませぬ。何もお役に立てず申し訳のうございます」
「駒にもならぬ足手纏いは不要よ。大人しく部屋の隅で縮こまっておるがよい、就勝」
足を擦りながら苦笑した相手を一瞥し、元就は再び外へと目を向けた。
敵軍はまだ動こうとしない。昨日まで大筒の音が響いていた空は、僅かに兵士達の声を聞かせるだけで不気味なほど静かだった。
降り出しそうな曇天を見上げる元就の横顔に微かな憂いを見つけた就勝は、自分の不自由な足を見下ろしながら口を開く。
「――独眼竜殿はどうしていらっしゃるのでしょうね」
不意にその名を紡がれ、元就は虚を突かれたように隣を見た。
先程まで柔らかく微笑んでいたはずの就勝は、酷く真剣な視線を主たる男へと臆することなく向けていた。真っ直ぐ注がれる眼力の強さには、思わず元就も息を呑む。
「失礼ながら、先日の諍いは隆元から聞きました。が、とても貴方様の本心とは思えない。無論、彼の奥州王とてそれは同じでございましょう」
「我はそのような……っ」
上擦った声音が思わず出てしまい、元就は慌てたように咳払いをした。
「違うと言い切れますか? ――わたくしは貴方様にそのような方ができて嬉しゅうございますよ」
二の句も吐き出せないまま喉を詰まらせている主に、目元を緩ませた就勝はからからと笑った。
常ならば毒を吐くだろう彼の舌は絡まってしまったかのようだ。覗き見た白い頬は、僅かばかりに朱が混じっている。
年の割にはずいぶんと初心な反応であるが、凍土の如き元就の仮面が刹那的であっても溶けたということに就勝は満足した。
他人にも自分自身にも興味を持たず、人間という存在そのものに対して淡白というよりも軽薄なのではと恐れられる主君が、毛利に関わる者以外に心を揺さぶられたという事実に悔しさよりも嬉しさが先立つ。
「……お前には言った覚えがないはずだが」
「登城のたび、隆元がこっそり耳打ちしてくれていたもので」
困ったように頬を掻いた就勝を眺めながら、本隊と分断されてしまった息子の姿を思い浮かべ、元就は呆れたような溜息を一つ吐き出した。
就勝にまで話しているとなると、隆元の近辺にいる者達には既に知られていると考えて良いだろう。
そういえばここのところ、見守られているような生温い奇妙な目で見られている気がしていた。――慈愛を秘めた眼差し、とでも言えば良いのか。そんな感情とは縁遠い場所に立つことを選んだ元就には名前が付けようもなかったのだが、父母ともに健在であった幼き日に周りを温めていた空気と似ている。
くすぐったいような穏やかなそれは煩わしく思う時が一瞬あるが――政宗と交わされる文と同じ匂いがして、不思議なほど安らいだ。
嫌じゃない感覚だ。
必要ないからと言い聞かせて、こんな感情は何処か遠い場所に置いてきたはずなのに。足を運んだことさえもない遠方からの手紙によって、あの日の忘れ物まで届けられてきたのか。
柄にもない想像を、元就は口の端で笑い飛ばした。
「らしくないと思わぬか? 我があのような小童に乱されるなどと」
「他国の者に興味を持つことは珍しいとは思いましたが、お相手に対して意外だとは感じませぬ」
噂に聞き及ぶ独眼竜は若輩ながらもその手腕は秀逸、戦においても奇策を仕掛け、また家臣達との繋がりや兵士の団結力は列強と比べても見劣りしない。
実際に伊達軍と対峙したことのない就勝は風評でしか政宗を知らないが、こうして西の地にまでその名声が届いているのを聞く限りなかなかの人物であろう。
中国を貪り尽くした大鷲と、奥州から天下を喰らおうとする隻眼の竜。接点が無かったはずの他人に元就が心を開きかけていることには驚くが、決して釣り合わない相手ではないと就勝は思う。
自分の発した言葉を受け、怪訝な様子で首を傾げた元就に就勝は笑いかけた。
「奥州、ですか。このような萎えた足ではありますが、一度はどのような土地かこの目で確かめて見とうございますね」
就勝は知識としてでしか知らない北の大地を想像してみた。片目しかないという竜が住まう国は、どんな場所だろうか。冬の季節は深々と降り積もる雪により閉ざされてしまうと聞くが、実際目にしたことのない就勝にとって酷く現実味の無い光景だろう。
横に座る博識な主君は知っているのだろうか、就勝はふと想像を膨らませる。
真っ白な地平の上で、元就の傍らに伊達の掲げる色彩である蒼穹を纏う青年が立ち。そこで二人は、穏やかに微笑んでいたら。それはきっととても美しい世界なのだろう。
そんな優しい一枚絵を思い描いた就勝だったが、急に暗い面持ちになって黙り込んだ元就に気付いた。見知らぬ国への好奇心で和らいでいた口元が、自然と沈み口角を下げる。
「遠い、遠い国だ……」
訪れた短い沈黙の中、元就の低い声音が波紋を描いた。
己が奥州の様子を知らないのは国を出たことがないからだ。ならば元就だって知らないに決まっている。
国をこれ以上広げる気のない元就は、外の世界へ積極的に羽ばたこうとはしない。必要とあれば出ていくが、それはあくまで毛利のためだ。西国の列強と戦い続けるそんな元就が、遠くの――それこそ国に脅威を与える可能性を低くする物理的距離の問題により、普段から強くは身構えていない東国の向こうに情緒的な感想を持つはずがない。
当り前のことを失念していた就勝は、何て浅はかな発言をしたのだろうかと恐縮したように肩を縮めた。
「――夏の終わり、一斉にひぐらしが鳴き止むと物悲しい気分になる」
「え?」
続かない会話に戸惑っていたら、元就の方から突然不思議な言葉を投げかけられた。
詩を嗜む元就が時折このように情緒的な言い回しを発することも少なくはないのだが、今までの流れとは繋がらない唐突さに就勝は戸惑う。
思わずといった様子で声が出た就勝を一瞥した元就は、口の端をほんの少し和らげて話を続けた。
「秋は山々が色付き、紅葉を眺めながら一杯飲む酒が美味いらしい。散っていく葉に寂しさを覚える前に、これからの季節の備えに彼方此方へと奔走しなければならぬほど忙しいようだ」
誰かの話を自分に聞かせてくれているのだと理解した就勝は、話題の中心が奥州についてであったことを思い出し、元就にこのような些細な事を語ったであろう人物はたった一人しかいないと確信する。
「そうして訪れた冬になれば」
元就は目をそっと閉じ、胸元に手を当てる。何かを掴むように裾に大きく皺が走ったことを横目で見やりながら、就勝は元就の言葉を待った。
しばしの沈黙の後、元就は瞳を開く。
昔から互いの存在を知っていたが特別長く傍らにいたわけでもない就勝は、それでも元就の目元が優しげに細められたことに気付く。
氷のような細面だと恐れられる彼だが、注意深く小さな変化を取りこぼさなければ案外表情が豊かなのだ。ただあまり動かないだけで――動かないように無自覚のまま暗示をかけてしまっているだろう元就が、少し悲しい――よく誤解されてしまうことが就勝には歯痒かった。
けれども元就が話す彼の人は、きっと文面だけのやり取りと言えどもその端々に取り繕わない毛利元就を見つけたのだろう。上辺だけの手紙が、一年以上も中国と奥州を往復するはずがない。
「星が落ちてきたような気分になるそうだ」
星、と就勝は呆けたように鸚鵡返しした。
不思議そうな顔をしている彼に元就は小さく頷き、もうすぐ降るだろう雨を思いながら掌を伸ばした。雨粒はまだ落ちてこない。
「無音の新雪の中を一人で曇天を見上げるていると、まるで夜空が目の前までやって来て星々さえも掴めそうな気がするらしい。――我には雪如きがそのような大それた物のようには見えぬがな」
ほんのりと和らいだ言葉の端々は、それでもどこか愁いを帯びていた。
元就の指し示す天とは、人が自分らしく自由に飛ぶことの出来る場所のことか。それとも、理想を夢見て武士達が奪い合っている天下という虚しい野望か。
どちらにしろ竜を名乗る伊達政宗という男は、元就が諦めた生気漲るその世界を自ら望んで走り抜けている。
考え方も当主としての立ち方も全く違う二人がどうしてここまで惹かれ合うのか、政宗と会ったことのない就勝にはよく分からない。
それでも元就が返事として書いていた文には、普段なら絶対に他人に見せようとはしない穏やかであった昔の主の姿が滲み出ていた。要らない物だと言って切り捨てたはずのその部分を、政宗が元就から引き出したのだ。
かつての元就を知っている就勝に――他の毛利家の者にも、それは大きな安堵感を与えてくれた。
護るべきもののために凍えた鎧を纏った元就は、もうその生き方を変える術は失ってしまっている。だが生来の彼までもを失ったわけではないのだ。側で支えていきたいと願った彼は隠されているものの変わらずにそこにいると、政宗とのやり取りを続けていた元就の背中をよく遠くで眺めていた就勝は気付いた。普段はあまり会うことの無い就勝が気付けるのならば、元就の息子達や郡山城へ登城している他の家臣とて知っているだろう。
当の元就はそんな自分を知っていて欲しいなどと一寸も望んでいないのだろうけれど。
就勝は苦笑を微かに浮かべ、遠い空を見つめる主にそっと尋ねる。
「……伊達殿と同じ物を見てみたいと、お思いになられるか」
誰も元就と同等の目線で世界を見る事は叶わぬと、就勝は承知している。
同じ世界に立つことを恋しがるほど、元就は人の温もりに飢えているわけではない。自分の全てを投げ打てるほど人を愛すことが出来ないと、付かず離れず背中を見てきたから少しは理解しているつもりだ。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「お前の物言いはいまだに僧のようだ。他者の内側をまるで見透かしたような、武士としては余り好ましくない」
「元春にも言われましたよ。私は所詮、親兄弟が刃を交え血を血で洗うような地獄を見たことのない、甘い男ですからね」
皮肉気な言葉を並べても、内緒話をするように軽口で言い合えるのは一生変わらぬ血の絆故か。
元就は、就勝に笑いかけた。困ったような笑みに見えるのは気のせいではないだろう。
琥珀色の双眸に晒された就勝の貌もまた、彼と同じような表情をしていた。
「頑是無いな。我がそのような殊勝な男だと思うのか?」
「少なくとも星を掴もうとした独眼竜殿のお気持ちを、貴方は分かる。そうでしょう?」
瞠目したのも一瞬のこと。元就は美しい頤を引いて小さく俯いた。
焦がれるように伸ばそうとした手は、あの空まで届くには短すぎる。そうして感じた焦燥の疎ましさがどれほどのものか、自分の器がどれほど小さいか、野望を夢見る程には若かったかつての元就は痛感している。だからこそ誰しも平等に、ある意味冷酷なほど変わらずに光を注がせる日輪へと、病的なほどに惹かれてしまっているのかもしれない。
自分はこの国だけを守るのが精一杯なのだと悟ってしまった。もうこれ以上失わなってしまえば己は壊れてしまうと、気付いてしまったから。
毛利元就という男は弱い人間なのだと、知ってしまったから。
「……今日はやけに絡むな、就勝。この空模様の中、籠城を決めた我の愚かさに腹を据えかねたか」
「私が兵法に明るくないことはご存じでしょう? ただ少しだけ、思ったのですよ」
眉を顰めてしまった元就を尻目に、就勝は立ち上がる。床にうまく足が踏み留まらないため、軽くふらついた。
近くの部屋に控えているだろう就勝の近習を呼んだ元就は、自らも立ち上がり彼の身体を支えるために腕を引き寄せる。
「私が貴方の立場で、貴方が私の立場であったのなら、迷うことなく私は貴方を独眼竜殿のところへ行かせてやれるのにって」
胸元に寄り掛かる形となった就勝の小さな呟きは、元就の耳にもはっきりと届いた。
「……それこそどうしようもないことだろう。貴様如き軟弱な男に毛利は支えられぬことは周知。だからこそ、お前は今生きながらえているのだから」
「ご尤もでございます」
何だか可笑しくて、にやりと就勝は口の端を持ち上げた。その笑い方は元就に酷似していて、慌てて入ってきた就勝の従者はぎくりとした。
「では元就様、勝鬨が上がることを奥でお待ちしておりますよ」
支えられながら歩き出した就勝は、一歩踏み出した所で思い出したように振り返る。
「勝利を携えられましたら、是非に奥州へ文をお出し下され。あちらも謝るに謝れなくて困っているのでしょうからね」
では、と今度こそ帰っていった異母弟の背中を見送り、元就は傍らの柱へと背を預けた。
込み上げた溜息には憂鬱さよりも、想いを乗せた熱のような色が秘められていて、自身で気が付いてしまった元就はますます居心地が悪くなってしまう。
そうして最初に就勝が告げた言葉の通りに、柄でもなく遠い北の国の何処かで同じように戦を繰り広げているだろう隻眼の竜を思い浮かべた。
全ては――この戦場を掌握せしめてからだ。
肩の力を抜き去った元就は、迅速に踵を返すと再び采配を手にする。ひしめく兵共に高圧的な号令をかけ、これから動かす戦場での命を厳粛に飛ばしていった。
暗く沈む景色が先に待つ陰りの明日だとしても、この身は日輪の御子。道を照らし上げる光などきっと己自身で創り出してみせよう。
- END -
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政宗不在、もしかすると高松城かもしれない場所で。
元就と異母弟さんとの無自覚惚気話。
(2014/6/18)
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