望みの果て
しゃらしゃらと聞こえる竹の葉の鈴鳴り。
川のせせらぎのような音色と涼しげな風が特に気持ちの良い午後の事。
小さな茶室の周りを囲む柵の中、苔の緑が広がる小さな庭園を眺めている二人分の人影があった。
先程まで室内で二人っきりの茶会を楽しんでいたがそれも終わり、小さな戸口とは逆側にある大きく開かれたささやかな濡れ縁に隣り合って座りながら、軽く足を伸ばしていた。足元には庭へ出られるよう大きめの岩が点々と続き、穏やかな景色を作り出す庭の風情によく合う添え物としても見事に溶け込んでいる。
柵の側には背丈ほどの細い竹藪が連なり、茶室の門以外からは庭先を覗き見られることもない。来賓を持て成すべく作られている小さな人口の川には獅子脅しが添え付けられていて、時折小気味のよい音をたてて空気を和ませる。
権力を誇示するような派手さもなく、それでいて品の良さが各所に見られるこの敷地は、それを要望した主の期待に添うようと丹精込めて庭師が作ったのがよく分かる。
茅葺屋根は先日の雨でいまだに重く湿っていたが、軒先の苔は艶やかに輝いていて瑞々しい色を見せている。少しでも踏み込んでしまえばたちまちに土を抉り、均一に敷き詰められた緑の一帯を形崩してしまうだろう。
命の力強さと儚さは紙一重だからこそ一層美しく目に留まるのだろうか。
この静かな場所を作り出したのも人の手であり、けれどそれは人目を避けるためのものである。二人っきりでいられる解放感に浸っていても、ここは結局堀に囲まれた城の一角に過ぎずに籠の中と等しい。
この、作られた美しい檻の中で生きていかねばならないのなら、翼があっても飛ぶことを許されずに歌う小鳥と同じ事。
安穏と暮らしていけることは幸せだろう。死と隣り合わせであった戦いの日々を思えば、血の臭いとも無縁なまま余生を静かに過ごしていけるのは幸福であるはずなのだ。
生きたくても死ななければならなかった人々を思い返せばこそ、泰平と呼ばれる時代を噛み締めなければならないのは重々承知の上。
けれども、泥を啜って苦汁を舐め、それでも駆け抜けてきたあの一瞬の煌めきを忘れられるはずもない。
死と隣り合わせであったからこそ自分は生きていた。生き続けていたと、あの頃は思えたものだから。
昔を思い出してしまった事で自らの存在が紛れもなく“毛利元就”であった事実を痛感する。結局、人はどんなに自分や周りを偽ろうとも、作り上げてきた過程を失くすことはできずに自分自身を完全に捨てることは叶わないのだろう。
それはきっと隣にいる彼も同様なのだ。
「……政宗」
名を呼べば、傍らの青年――ふとした瞬間に垣間見えた童のような顔は薄れ、幼さを完全に脱した横顔には落ち着いた大人の色があった。それは二人で刻んできた時間の流れだと思えば、嬉しくもあり寂しくもある――は、ゆるやかに振り向いてくれる。
艶めいた黒の眼帯をつけたその面差しが宿す元就へ向かう感情には、どれだけの月日が経とうとも微塵の変化もなかった。
側にいるほどに彼のそれは深みを増していくばかりで、いつかきっと愛想を尽かすだろうと考えていた己の浅はかさを今更ながらに悔いる。
「何だ、元就さん?」
政宗。
――そうだ、彼は伊達政宗だ。
尊いその名をもう一度紡ぎながら、元就は痛む目元を隠すように瞼を落とす。
その名前が示すように彼は“伊達政宗”として今を生きている。ようやく天下を治めた野望高き竜の王。六爪でついにこの日ノ本の天を破った唯一の器。
彼の手腕で泰平は築かれた。戦乱の世はようやく終結を見せて、国の流れは外の世界へと目を向け始めた。
ならば独眼竜もまたこんな狭い垣根の内側になどへ気をやる余裕なんてないはずだった。
だが元就の予想に反して、政宗は天下人として忙しい執務の合間をどうにか見繕ってはここへやってきた。元就の閉ざされた柵の見えない檻の中へと入り込み、何するわけでもなく共に過ごす。時には触れ合い、時には甘えたが、それは全て単なる虜囚に対する態度などではなかった。
いっそのこと、暗い地下牢にでも閉じ込められたのならば反骨心が芽生えただろうか。
緩やかなこの生活を続けるうちに身体の芯がふらつくようになった。元就の名は政宗しか呼ばず、毛利の家や安芸の地も守られ安寧を続けている中で、足掻く意義などどこにもなかった。そうして元就は“毛利元就”ではなくなり、政宗の元就として今もこうして呼吸を繰り返している。
誰かのものになるつもりも、なったつもりもない。しかし現状を端から見れば、どうしようもなく元就は政宗に囲われてどうにか生きているだけの人間でしかないのだ。
「……我は何を為せばよい?」
自問のように無意識の呟きは言葉として漏れ出してしまった。
すると政宗はいつものように迷い子を誑かす黒猫の笑みを浮かべて、呆然と自分を見つめる元就へと甘い声音で答える。
「好きにしな。元就さんの思うように――」
何も強要せず、何も望まない。政宗は一貫としてその態度を崩したことはなかった。
たった一度だ。
たったの一度だけ、天下統一を成し遂げて、毛利のためと生きていた元就の枷が外れてしまったその時。倒れそうになった彼の身体を攫うようにこの場所へと連れ出した。
それが、最早生き死にさえも自由にならない天下人の政宗が最後に見せた“我儘”だった。
その手を振り払えないまま、留まり続けているのは元就の意思。
出て行くことになろうともきっと政宗は止めはしないだろう。そして、もう二度と、あの日に元就を捕まえるために伸ばした手を差し出すことはない。
触れることも、話すことも決して――。
そうして自らの想像を巡らせた元就の身体は微かに震えた。
小さな反応に再び笑った政宗は、わざとらしいほどに大きく腕を開いて隣に座っていただけのその熱を抱き締める。背丈や体格など分かり易いほどの開きはなかったはずだったが、今はもう元就の痩身を覆い隠せるほどには政宗の身体は育ち切っていた。
兜を被ると首元に鬱陶しく纏わりついていた後ろ毛も毎日のように綺麗に整えられて短くなっていて、元就が肩へと手を伸ばした時に掴めるものは直接晒された肌越しの熱。
「我は、」
政宗の想いは変わらない。抱き締める体温も変わらない。
自分の取り巻く全ての世界は変わってしまっているのに、この場所にあるものだけはずっと変わらない。
そして、元就の中にある答えも哀しいまでに変わらずにいるのであった。
――それを“彼”は知っていた。
- END -
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念願の天下統一後、望んだことではあるけれど伊達でいるしかなくなってしまった政宗と、毛利ではなくなってしまった元就。
(2014/6/12)
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