微睡む夢の雛鳥よ


 ここの所、毎日が曇天であった。
 暗い空を仰ぎ見ても陽の光は感じられず、それでも昼と夜の区別がつけられるのはあの分厚い雲の向こう側に太陽が隠されているからなのは幼くも理解できる。
 松寿丸は土塗れの手を休めて、梢に凭れ掛かりながらぼんやりと天を眺めていた。
 そうして休憩がてらに身体を止めると途端に汗が噴き出すのが分かる。随分と長く働いていたようだと、この時になって松寿丸は気が付いた。
 傍の小さな畑はあまりよい土壌ではないので育つ作物もみすぼらしい。けれどひもじい生活故に贅沢など言ってはいられず、食料の足しにはなるのだから世話を怠ることはなかった。
 彼の幼い掌は鍬を扱う肉刺だらけで、柔らかかった肌は随分と固くなりつつある。農民の子等とて毎日親の手伝いをしていればこのようにもなるのを松寿丸は知っていたので、さして気にも留めたことはなかった。しかし彼を養育してくれている女性は、毎日土に汚れてしまう頬や、掌にできた肉刺が潰れた痕を時々哀しげに見ている。それが少しだけ申し訳なく思わせた。
 自分が強ければ彼女にもこのような場所で日々切り詰めた生活をさせはしないというのに。現実は、彼女の手によって己が守られている。
 このままどれくらいの時を過ごせばよいのか、或いは一生その日暮しを続けなければならないのか。科せられた運命の色を知らぬ少年はただ己から奪っていくだけの時の流れに歯噛みした。
 もう父も、母もいない。兄も弟も妹も遠くに行ってしまった。
 家もない。食べる物もない。付き従う者もいない。全ては自分以外に与えられていただけで、松寿丸は名を持っただけの無意味な代物でしかない。それをあの日、痛感した。
 守ってくれる手はあった。けれどもそれは今の状況を打破してくれるものではなく、ただ優しいだけの温情をかけてくれるだけの手だ。松寿丸を辛うじて生き長らえさせる機会をもたらしただけでそれ以上を望むことはできはしないし、してはいけないのだと分かっている。
 故に、全ては自分自身が成さねばならない事を理解した。
 松寿丸はちっぽけな己の掌を空へ翳しながら、奥歯を軋ませる。
 この両手がもっと広ければ掴めるものもあったろう、零れ落ちるものも掬えただろう。なのに結局、見ている事しかできなかった。
 たとえどのような清い志を抱こうとも、無力とは全てを無為にする。
 強く、強く――誰にももう守ってもらわずとも、何かを守れるような強さがあれば。


 庵に帰った松寿丸は自分の身体に纏わりついていた泥を一通り落とし、いつものように釜戸に火をくべる。がらんとした暗い庵の中に小さな灯りが宿り、徐々に温かな炎を揺らめかせる。
 今日はやけに疲れてしまった。
 途中で色々と考えながら鍬を振るっていたせいか、慣れてきた作業だというのに全身が疲労感を訴えている。
 実家に所用あって、と心配そうに出かけていった彼女の帰りはきっと遅くなるだろう。
 早く帰ってきてほしいなどと言えたのは最初の頃だけだった。本来、自分がいなければ彼女がこんな庵で隠れて住むような真似をしなくてもよかったのだ。器量の良い女性だからそれこそ父が亡くなった際にでも出て行った方が女として幸せだったに違いない。
 気付かぬほど松寿丸はもう幼くはなかった。心細い夜を過ごそうとも、側にいてほしいとはもう言い出せない。
 父がいなくなってからは、男の自分が彼女を守るべきだったはずだ。
 それなのに。
 命を狙われながら辛うじて逃げ出せたのはこの手を彼女が引いたから。味方になることはできずに辛そうな顔をしながら道を案内してくれた者達がいたからだ。
 自分は訳も分からずに急かされ、逃された。
 何が起こっていたのか――知ったのはもうこの庵に来てからで。松寿丸は何もできなかった未熟な自分を心底嫌悪した。無知な己の馬鹿さ加減を後悔し続けた。
 どうして平穏が続くと思っていたのだろうか。松寿丸の世界は砂上の楼閣のような繊細な儚さを持ってして崩れ落ちたわけではない。それこそ唐突に、屋台骨が砕ける音をまざまざと聞かせながら壊された。
 罅割れの悲鳴はそこかしこから響いていたはずなのに気付かなかったのは、知ろうとしなかったからだ。
 崩壊は目に見えていたはずだったのに、松寿丸が理解したのは全てが崩れ去った後だった。
 無力さに嘆くのは何も力そのものに非ず。周りの状況を解せず、人々の妬みや嫉み、或いは虚栄心を見破れなかった目の曇り。ただ一方的に手を引かれることしかできなかった愚かさ故。
 何かができたようには思えない。あの頃の自分は幼かった。
 だがそれは免罪符ではないのだ。それでも、何かをしなければいけなかったのは事実でしかないのだから。
 ――そんなことを言えば、また彼女を心配させてしまうだろう。もしかするといつまでも振り返ってばかりいる自分に、叱咤して前を進むことを考えよと申されるのかもしれない。
 普段は思考せずとも、不意に独りになるこの谷間の時間に這い寄りだす。力を持たない自分に許されているのはこのどうしようもないお頭を巡らせるだけだ。今は他にできることはない。
 くたびれた溜息を吐き出しながら、床にごろりと横たわった松寿丸は瞼を伏せて思いを巡らせる。
 あとどれくらいこんな日々が続いてくのだろうか。
 自分は、彼女は、これから先も生きていけるのだろうか。
 松寿丸の目の裏が焼け付くように熱くなったが、気付かないふりをしていまだ細い腕を瞼の上に乗せた。薄暗かった視界がもっと深い闇に呑まれた。


 * * *


 気が付くと、松寿丸の半歩後ろに誰かが立っていた。
 畑で眺めた鈍色の空が足元から頭の上まで全天にかけて広がっていて、自分の足は雲の中にあった。薄暗くとも太陽の気配を感じる空間の中を不可思議にも思わず、ただ松寿丸はその空間に佇んでいる。
 誰かの人影が気になって、松寿丸は微かに頭を後ろへと捻ってみた。
 そこにいたのは自分よりも小さな背丈の子供だった。毎日陽の光を浴びて農作業をしている松寿丸と比べると、細身で生っ白く頼りない肩をしている。幾らか年少の子供は男の子であったが、随分と陰気そうな雰囲気を醸し出していて松寿丸はやや眉を顰めた。

「おい、お前」

 顔どころか体全体を後ろへと振り向かせた松寿丸は、俯いているその子供へと思わず声をかけた。
 前髪の間から自信なさ気な風体をした少年の瞳がちろりと向けられたものの、すぐさま逸らされてしまい松寿丸はむっとした。名前が分からぬのだからそう呼んで何が悪いのかと思いつつも、じわじわと燻る苛立ちが大きくなっていくのを感じた。

「お前は何でここにいる」

 自分自身もまたおかしな場所にいるのは分かっていたが、口から出て行く言葉は止めることもできずにどんどんと吐き出されていく。
 松寿丸はこの辺りで、やっとこれは夢なのだと気付いた。
 気付いたところで夢を見るのを止めることはできない。心の何処かで遠くから自分とこの子供を見つめているような不思議な気分にさせられた。
 ぶっきら棒な言い草に対して子供はますます恐縮した様子で顔を俯かせる。
 知っている誰かだろうかとまじまじとその暗い顔を覗いてみると、やはり見知らぬ幼子であったが奇妙なことに右目を隠すように布が巻かれていた。怪我でもしているのかと思ったが特に血や薬の臭いはしない。
 引っ掛かりを感じて、無意識に手が伸びかけた。

「……此処は、この空は」

 松寿丸の指先が宙で止まった。
 ようやく開かれた唇から生まれた声は、初めて聞く筈のものだったのに何故か酷く、松寿丸の乾いていた心へと染み渡る。

「俺が――俺自身が望む天だから」

 か細く自信なさ気な声音は最初の内は震えていたが、徐々にその強張りを失くしていく。
 自身が望む、とはっきりと言い切った言葉には微塵の怯えも見えない。他人の存在を、投げ掛けられる視線から隠れる様に顔を伏せていた少年はいつの間にか真っ直ぐと松寿丸を見ていた。
 顔を覆っていた布は消え失せ、鋭い光を帯びた隻眼の少年が向こうから手を伸ばしてきた。
 驚き一歩身を退いた松寿丸だったが反射的に目を瞑ってしまいに、臆するものかと慌ててそれを抉じ開けて睨んで見せる。
 だが、そこにいたのはもう頼りない姿の子供ではなかった。
 見違えるほど背の伸びた、青い戦装束を纏う弦月と黒い眼帯が楽しそうに笑いながら松寿丸を見下ろしている。
 端整な面持ちを小憎たらしい笑みを乗せれば、大人びた姿の青年が先程までの少年と重なって見えた。

「龍はいずれこの蒼天を飛ぶぜ。アンタの空を超えてみせる」

 断言の形で言い切った青年が大きな両腕を、まるで竜の爪の如く広げてみせると曇天の景色は一変として青天へと晴れ渡る。隻眼の男の姿の如く、青く気高くそして美しかった。
 松寿丸は唖然としたまま周りを見渡す。
 太陽が照らし出したその世界は、輝くばかりの生気に満ち溢れていた。

「Please wait until then.」
「待って、今何て? お前は一体――」

 低くなったその大人の声で何事かを告げると、青年の姿が薄れていく。
 伸ばしかけていたその手をようやく触れる位置まで近付けても、既にそこには物質の気配を感じ取ることはできなくなっていた。
 凪いでいた青天には強い風が吹き荒れて、二人の間に距離を開ける。
 風はどうして雲を再び運びだし、元の曇り空を通り過ぎて暗い嵐を呼び込んだ。唐突に低くなった温度に呼び込まれたのか、激しい雷雨が立ち込める。一層大きな雷がすぐ側で轟音と稲光を落としていくのと同時に青年の姿はもう暗闇の向こう側に掻き消えていて、松寿丸には暗雲の世界しか見えなくなっていた。
 それを知覚すると、意識はどんどん遠くなっていく。まるでこの嵐に飲み込まれてしまうように。
 再び眩い稲光が落ちた。
 松寿丸がその輝きの中で最後に目にしたのは、青い鱗の竜の影だった。


 * * *


 薪の割れる音に驚いて目覚めた時、松寿丸は自分のいる庵の闇を一瞬あの嵐の空の中かと見間違えた。
 だが今いる場所は紛れもない現実で。
 あれは単なる夢だったのだと、軋む身体の痛みが教えてくれた。
 床でそのまま横になったせいで全身が強張っているが、炉に火をくべたおかげで大分部屋の空気が温まっているのが感じられた。
 夕餉を用意しなければ、と立ち上がる。まだ親代わりの女性は帰ってはいなかった。
 そうしていつものように黙々と日課を果てしていきながらも、松寿丸の意識はあの不思議な夢に囚われ続けていた。

 彼は、誰だったのだろうか。
 ちっぽけな身体を縮こませて怯えていたあの子は、本当に竜の子だったのだろうか。

 ぼんやりと思い出してみても強烈な蒼の印象だけが根深く残っていて、些細な造形はもう覚えていない。
 それでも松寿丸の中に渦巻いていた何かは、転寝していた間に静かになっている。
 いや寧ろ――。


 今日も今日とて、同じ場所で休んでいた松寿丸は空を見上げていた。
 曇った空。けれど向こう側には青天と輝く太陽がそこにある。
 鈍色の天には昨日はいなかった鷲がぐるりと旋回していた。鋭い目付きは獲物を求めているのか、地上を見下しているのか、遠く地を這う己のような小さな人間には分からない事。
 けれど孤高の翼は逞しくそれでいて何処までも飛んで行けそうなくらい大きかった。
 亡くなった母が最期に教えてくれた、己が生まれる日の夢の話を思い出す。
 今はこんなにみすぼらしくとも、いつかはあんな風に空を制する翼となれるのだろうか。雲間を抜けた向こう側に広がる蒼を知る事はできるのだろうか。
 それがたとえ一人だったとしても。
 こんな場所で空を見上げていた自分の姿を知っているのもまた、あの場所から見下ろすだろう自分だけでいてほしい。捨て落とした弱さを誰かに見られるのは酷く腹立たしいことのように思えるから。
 ――夢の中で見たような誰かの挑発的な笑みが不意に蘇る。
 立ち上がった松寿丸は、今すべきことへと再び取り組む出した。
 今はまだ目の前にいてくれる彼女や彼らを窮地に追いやるわけにはいかない。そのためには、無様でも生きて生きて這い上がることを考えなくてはいけないのだ。やがては取り零してきた全てを二度と失わないためにも。
 捨て置かれた自分の存在とはいえ、それでもまだこの両手両足は真っ当に動ける。ならばどれだけ煤に汚れようとも構いはしなかった。
 何をするために生まれたのか――松寿丸は既に知っているのだから。




『その高みで、どうか待っていて下さい』


 いつの日か出会える貴方へ。



 - END -





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松寿丸とまだ見ぬ誰か。
「待っている」のは未来のどちらなのでしょうか。

(2014/6/05)


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