LOST
政宗が雑木林をかき分けて進んだ先に、元就は横たわっていた。
予想通りではあったが実際に目にしてしまう事で、政宗の中には先程からずっと続いていた不安感が火を帯びたように苛立ちへと変わった。
無論、それを外面には億尾も出さずに政宗は口の端をいつものようにつり上げた。
「大層な口を聞いといていい様だな、毛利元就」
からからに乾いていた口内を湿らせながら、尊大な振りをして声をかける。
舌の動きは鈍くて、黙々と山中を駆けまわっていたため喉は激しい呼吸でひりつき出していた。心臓が激しく鼓動を繰り返すたびに身の内に感じ取っていた形のない恐怖心は確かに存在しているのだと知れて、余計に冷や汗が背を流れる。
荒れた呼吸音を隠すように、わざと大きめの声を張る。
しかしそれが震えていないだろうかと政宗は少し心配になった。
「伊達……か」
薄暗い夕闇の時刻であった。
儚い朱色と黒雲が混じり合った空から降り注ぐ斜陽の輝きは、雑木林の隙間を縫って、倒れているその人へと静かに降り注いでいた。
己を呼んだ声音はいつも通りに平坦で、何処か疲れた色を持っている。
それは仕方のないことだろうと政宗は流石に同情した。
元就の姿は具足に固められていたが、兜は飛んで傍らの木の根本へと転がっている。傷だらけの肩当、矢傷を負った足元の臑当は紐が切れて解けかけていた。よく見れば革足袋が変色していて、傷から滴った血痕のせいでくすんでしまっているのだと分かる。
これ以上は走れないだろうことはすぐ理解できた。
鏃は元就の脹脛に鋭く突き刺さっていて、腱を傷付けているようだ。太腿にも鋭い傷が赤い滴りを垂らしていた。後退する途中で矢の雨に降られたのだろうか。俯せになっている元就の足元からは、身体を引き摺った跡が生々しく残っている。
「戦況は、まあ、アンタに教えるまでもないな。十分読めているんだろう?」
「……ふん。ならば何故このような場所に一人で訪れた。我の駒が伏せられているとは考えぬのか」
「アンタの捨て駒共はアンタをこんな風に晒したりしない」
そうじゃないのか、と政宗は隻眼を細めながら、刀の柄に手を添えることすらせずにただ元就の顔を見下ろす。
端整な顔を地面に擦り付けたまま、視線だけで己を見上げてくる鋭い眼差しにはまだ光があった。その強さに身震いを覚えて、無意識の内に舌で自分の唇を湿らせた。
「毛利元就。アンタはどうしたい?」
「何の戯言だ」
「ここで俺に見つかったってことは、死ぬも生かすも俺次第だろ。他に誰もいやしない」
微かに見開かれた鷲の瞳を満足げに見つめ返しながら片膝をついた。
より近くに見える元就の表情を少しだけ崩せたことが嬉しくて、政宗は謳うように続ける。
その内心は焦燥感に満ちていて、何に対して苛々しているのかもその正体が見えないことによって余計に胸の内が掻き乱されていた。
彼が一人で野垂れ死にしそうなこの状況が嫌なのか。
――それは、何もできない自分が悔しいからか。
こんな時でも冷静に全てを見通すような目をしているからなのか。
――ほんの少しでも、自分へと手を伸ばして欲しいからか。
泡のように湧き上がる背反した想いを噛み締めながら、政宗は小さく舌打ちする。
軍を率いていたはずの元就がこの惨状であるのならば統率されていた毛利軍そのものもとっくに瓦解している。元就の命を受けての事であったのか、或いは彼ら自身がそうするべくしてなったのかは結局部外者である政宗には判断できない部分だ。しかし結果は目の前の存在が証明しているのは動かしようのない事実。
元就は生きて戦場を脱し、ここにいる。
そのおかげで政宗は今、彼と話すことが叶った。
たった数分の会合かもしれない――それこそ、この現世にての最期の――この奇跡を噛み締めながら、政宗は元就の声を聞きたがった。
彼の冷たい佇まいを目にするのも、戦場で刃を交えることも殆どなく。人を貶める手腕に苦汁を舐めさせられたわけでもなく、誰かを欺き屠る悪意の言葉を吐き捨てられたこともない。
皆が言う、元就の姿を政宗は知らなかった。
知りたいと望んでも、或いはそのやり方に眉を顰めるようになっても――結局、元就とはたったの一度を最後にして今日まで会うことはできなかったのだ。彼を嫌う事も厭う事も無関心になることもできないまま、好きになる事もできずに、ただ毛利元就という存在がしこりのように政宗の内側に居座り続けただけ。
その日々はどんなに歯痒かっただろう。
遠い昔のようであり、つい先日の出来事であるような気がする。
政宗にとっては元就は誰よりも知りたいと望んでいた人であり、そして誰よりも遠い存在であった。同じ戦乱の世に名乗りを上げ、互いに雄として名を轟かせた相手であるのに、刀一つさえ合わせずに今日という日を迎えている事実が悔しい。
「なぁ。言えよ」
もう、この一生の中で誰にも漏らさず墓場まで抱え続ける覚悟もあった。
何も知らない己は、意識し続けた弊害で毛利元就を唯の想像で作り上げてしまっている面もある。名前と姿とその声と毛利軍が立ち去った戦場以外、直接見聞きしたものはない。後は周りから聞く風評ばかりで、結局政宗が知っている元就というのはいまだ形を成していなかった。それがまるで、いつか現れる愛おしい者を夢想する乙女のような無様な思考に思えて、政宗は決して表には出さずに沈黙を続けていた。
だが、夢想は幻だ。
そして元就は現実に存在していて、いついかなる時に命の灯火が消えるか分からない場所に立ち続けている。
だから“いつか”などと言わずに、無理やりにでも会いにゆけばよかったのだ。こんな風になるまで動かなかった足と臆病な心に、今更後悔が滲む。
それなのに――それだから?――今更、大して親しくもない自分が、彼の言葉を求めようなど筋違いだろうに。分かって、いるのに。
繰り返されていた浅い呼吸は段々と間隔が開き始め、鼓動もきっと緩やかになり始めているだろう。
まだ強い光を放っていたはずの双眸はどこか朦朧としている。
時間が経ち過ぎているから、足の傷を塞いだところで失血は戻せない。万が一に助かったとしても、もう彼は歩くことさえできなくなるだろう。
それでも。
それでも、生きたいとこの手を掴んでくれたのならば。
――きっと。
心の何処かで分かっていた。
そんな自分の小さな願いなど、こんな世の中で叶うわけもないなんて。とっくの昔に、分かっていた。
「……貴様が天下を取るのならば、それもまた、一興か」
くつくつと喉を鳴らして嘲笑った元就は、そうして僅かに上下させていた胸を止めた。
蒼白を通り越した横顔は人形めいていたが皮肉気な笑みが零れ落ちて、確かに熱を持っていた命の器であることを政宗に知らしめる。
震えそうになる指先を、壊れ物へと触れるように伸ばして汚れた頬に伸ばす。
開いたまま虚空を覗く瞳を休ませるべく、そのまま音もなく瞼を落としてやった。
微かな初めての接触は、政宗に元就の掻き消えていく体温を伝えてくる。そうしてようやく彼もまた血の通う人間であるのだと体験させられた。
最期の言葉を彼はどんな意味で告げたのだろう。
また分からないことが増えたが、それでもほんの少しだけ元就の存在が満ちた胸の奥を感じながら政宗は静かに看取り続ける。
それ以上に、ぽっかりと空いてしまった空虚な部分を己は一生埋められぬのだと理解して、失くした右目が涙を流すのだった。
- END -
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自分自身で元就を知る事ができないまま失ってしまう政宗の話。
お互いに知ってはいるけど、きちんと出会って、話をして、戦をして……ということ自体、できないままにどちらかが(どちらもが)死ぬ可能性だって大いにあるわけで。
(2014/5/27)
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