『どこかでだれかがないていた』
血の臭いが土に埋もれ、慰めのように恵みの雨がしとしとと降り注ぐ。
それを避けようとする意思さえ見せずに、男は無言で戦場だった平地を緩慢な足取りで進んでいた。
誰も何も言わない。
男に声をかけようにもどうすれば良いのか分からず、家臣達はただ無念さと己の無力さを嘆くように顔を伏せる。主君たる男の大切なものを守れなかった自責の念に押し潰されそうだった。
それを背中でひしひしと感じてながらも彼は何も言わなかった。責める言葉も、癇癪も。それはあまりの出来事に、彼自身が現状を受け止め切れていないという証だ。
次々と立て続けに起こってしまった凶行を直視できずに、彼の心は飽和状態のまま一切の感情を堰き止めてしまったのだろう。
ただぼんやりと歩き続ける彼の眼差しの向こうには、倒れたままの青年の姿がある。
同じ歩調を保ったまま、酷く鈍い動作で男はその人の元へと辿り着く。水を含んだ土が泥に変わり、足元が妙にぬかるむ。地に付いていない奇妙な感覚はそのせいなのか、依然として頭の中が真っ白である男には判断がつかなかった。
雨水が生々しかった鮮血を洗い流し、青年の端整な顔立ちだけが暗い世界の中で青白く浮かび上がっている。
不思議な対比を夢心地で見ていた彼は、のろのろと手を伸ばして冷たくなっているだろう相手の頬へと触れた。籠手をつけたままで直に触れられないのがもどかしく、包み込むように今度は両手で輪郭を辿っていく。
微かに揺り動かされてもぴくりとも動かぬ瞼と、半開きとなった唇から一向に聞こえぬ呼吸音を無駄だと分かっていながらも探してしまう己が浅ましく、そして愚かに思える。
求めてしまったから。
望んではいけないと端から分かっていたというのに、それでも欲しがってしまったから――奪われたのだ。
嗚呼、嗚呼、と震える吐息が自分の中から生れ落ち、小雨の合間へと吸い込まれていく。
最早流すべき涙も何もない。
ぐったりと動かなくなった彼をそっと地面へ下ろし、強張ったままの眉間をそっと撫でて安らかな寝顔にしてやった。こうしていると眠っているだけにしか見えないというのに、もう二度と命の温度は感じられないのだと思うと、自分の血液が現実から逃げ出すように一気に退いていく。
背筋が戦慄き、ようやく男は理解する。
彼はもう――。
「闇の中で見た稲光はさぞかし美しかっただろう」
何処からか声が聞こえたが、男は項垂れたまま動かない。
その体たらくを嘲笑うように低い声音が歌い続けるが、雨音に制されてそれは男の耳にしか聞こえない。
「奪うものも与えるものも無いと思っていたが、いやはや、卿も哀れな人の子だったか。孤独を埋め合わせる飯事は楽しかったかね」
冷たい帳の向こうから近付いてくる軍勢の足音を聞き、ようやく彼は立ち上がる。
先程まで触れていた青白い顔をしばらく眺めていたが、手放していた輪刀を掴んで今度こそ澱みの無い足取りで前へと進む。
家臣達も変わった空気の流れに顔を引き締め、男の後に続いて歩き出した。
やがて平地には生き物の気配がなくなり、ざあざあと雨音だけが静寂の中を響き続けている。
仰向けとなった青年の閉じられた瞼に雫が落ち、まるで涙のように流れていったことは誰も知らない。
- END -
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松永さんの口調を書くのに慣れてみようという習作でしたが、筆頭ごめんなさいな内容に。
自分の内側に何かを入れることがなかった元就がようやく気を許した相手の存在を、目の前で奪われたのならどうなるんでしょうね。
(2009/05/12)
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