伍:東雲に鬼が泣いた -4-
温かい潮風を頬に受けながら、元親は船の甲板で仰向けに寝転んでいた。
降り注ぐ日差しが身体を適度に温めてくれているため、ついうとうととまどろんでしまうような陽気だ。元親もまた片目の瞼を半分ほど閉ざしかけ、先程から持っている書状をじっと見上げていた。
それは、政宗から送られた実に久方ぶりの手紙だった。
伊達から長曾我部にではなく、友人としての。
二人の戦いは、長曾我部軍の降服で終わりを迎えた。
伊達軍は彼等をできるだけ生かせと政宗から直接命令を受けていたため、あれだけ倒れ伏していた長曾我部の兵士達のその殆どが命を取り留めた。
政宗の後ろには武田の支援があったため、多くの怪我人を抱えても進軍することが出来たのだろう。一時は危篤状態に陥った信親も、本人の気力の賜物か、それとも海賊の跡継ぎという意地があったのか、腹に竜の爪が刺さったというのにすぐに意識を取り戻したという。
そして元親の向かった別荘へと政宗が赴くと聞いたときには、まだまだ重体の身であるというのに意地で立ち上がって見せたらしい。
顔に似合わぬような脅しをかけるようなことを言い、小十郎に頼んで連れて来てもらったのだと政宗は書いている。
――アンタのとこの奴等は皆、根性があるよな。
そう言う政宗の様子を思い浮かべながら、元親は口の端に笑みを乗せる。
溺愛している息子ことを褒められて、いい気のしない親はいない。信親は元親から見ても出来過ぎている子だ。愚かな選択ばかりをしてしまっていた自分より、はるかに広い視野を持っている。
今もきっと城で養生しているだろう信親は、こんなことを言えば溜息を出して呆れるのだろうけれども。
息子といえば、毛利家の者達はその大半を失ってはいたものの、国を維持できるほどの人材は残されていた。
跡継ぎである隆元、彼を支える両川の弟達、古参の家臣達もまだ幾らかは生き残っている。
政宗が中国地方に陣を張っていたのは、毛利の生き残りを探すためという意味があったらしい。潜伏していた者達、あるいは京へと落ち延びた者達――わざわざ織田の勢力下へと逃げ込むとは勇気がいることだが、敵の将が自領にいるとは考え難いため、なかなか賢い行動でもある――は、流石に毛利の家中にいただけあって疑り深かったが、隆元の声の元に集まったらしい。
ようやく見つけ出せた隆元は、元就が四国にいるということを真剣に話す政宗の目に何かを見たのだろう。ゆるゆると頷いてくれたのだという。
聡い子だ、と思う。
優しい青年だから、父親が生きているという言葉を信じたかったのもあるだろうが、隆元個人の意志ではなく毛利として、家が絶えぬために何をすべきか直感的に分かっていたのだろう。
勢いを消さぬ伊達家を後ろ盾とすれば、万が一の事態が訪れたとしても――もしも、元就が死んでいたとしても――風前の灯火であった毛利に再起の兆しあるのだ。
彼は元就がいなくなった瞬間から大毛利の当主だ。
いかに人徳溢れて、謀略の才が平凡であろうとも、何を切り捨て何を取るのか分からぬほど愚劣ではない。
口では駒だと言う元就が、自身が盾となり逃がした毛利の人々。
彼の外面だけを見て、昔の自分は冷血な男だと罵ったけれども。元就は元就なりに、彼らを愛していた。少なくとも家族を無下にしていたわけではない。自分がいなくなった毛利を託そうと思えるほど、信じていたのだろう。
元親は大きく溜息を付いた。
元就と向かい合っているだけでは分からないことが、沢山あったのだと痛いほど感じる。
何にでも直情的に向かっていくのが、自分の良い所であり悪い所なのだと思う。悪い噂の耐えない毛利の当主と直接会うまでは良かったが、彼に想いを寄せるようになってから元就の周りを自分は見ようとしていなかった。
自害しようとした時、元就の言っていた言葉が胸に突き刺さる。
迷っていた彼へと手を差し出せていれば、今日までを違う過程で過ごせていたのかもしれなかったのに。
付いて来られないのだというのなら置いて行き、欲しいと思えば無理やりに踏み荒らす。それはまるで子供の我侭のようだったのだと、元親は自身を恥じた。
「それに比べてこいつはよぉ……」
半眼で手紙を読み直した元親は、呆れたような苦笑いを浮かべる。
元親のように自由で勢いのあるものではなく、元就のように流麗で雅さが感じられるものでもなく。政宗の字は淡々としているくせに奥州に積もる雪のように重たいものに感じた。
――俺は、毛利元就のことが好きだ。
ぽつりと政宗本人が呟いたように聞こえる、小さな一文。
初めて見たときには僅かばかりの衝撃が背中を駆け抜けたが、二度も三度も読めば見慣れる。
それでも元親は、やはり、と嘆息を吐き出すだけで大きく取り乱すことはしなかった。元就自身が元親を受け入れているということもあるが、政宗の元就を想う真摯な瞳を知っていたからだ。
当時の自分は嫉妬に身を焦がし、失くさぬようにと怯えて視野を酷く狭くしていた。だが冷静になって思い出せば、自分と同様の片目は諦めを映しながら何かを追い求めていた。貪欲なくせに臆病なそれは自分と良く似ていたけれども、根本はきっと全く違うのだろう。
――だから抱きたかったし、できればお前の元から掻っ攫ってでも欲しかった。でも俺の目をお前の目のようだと言ったアイツが、とても、綺麗だと思ったから……。
本心を告げようと悩んだのだろう。伊達者と呼ばれる政宗にしては、たどたどしい言葉で綴られている恋しい人を想う言葉の数々。
年下の悪友の、幼い本音がそこに垣間見えた。
――お前を選んだというのなら、俺はそれでいいって思えた。思えてしまったから、俺はきっともうお前みたいにこれ以上を望めないのだろうな。
醜くても、構うものかと。守るべき者すら犠牲にしようとしてまで元親は元就を求めた。醜悪になっていく自分の狭い心を感じながらも、衝動は止められなかった。
格好悪いなぁ、と元親は自嘲を刻む。
政宗の方がよほど大人だ。好きだという淡い気持ちを、彼はきっとずっと抑えられた。自分が何をすべきなのか理解しているが故に、諦めという選択を最初から用意している。そしてそんな自身を、想いが足りないからだとおどけた調子で言ってのけるのだ。
彼のような強さがあれば、元就と最初からもっと歩み寄れたのかもしれない。
「最初から、か」
大きく伸びをした元親は、定期的に聞こえてくる波音に耳を寄せながら空を見上げた。
いつ見上げても変わらなくそこにある青い空。万物を照らし上げる太陽の輝き。休むことなく流れていく瀬戸内の海。
見失っていたものも、消えてしまったものも少なくはない。けれど、元親と元就を取り囲む世界という景色はいつだって変わらずにそこにあるのだ。
だからきっと大丈夫。
今からだって、失くしていた時間を取り戻せるはずだ。
「先程から独り言ばかりだ。耄碌したか」
漣に紛れ込んだ声音に振り向けば、甲板に上がってきた元就と目が合った。
政宗の手紙ばかりを相手にしているためか、少しばかり不機嫌そうにも見える。だが毛利の者達を中国に送ってくれている元親に負い目を感じているのか、その声は普段よりは幾分か棘がない。
「可愛げがねぇなー。この間は感極まって泣いていたくせに」
「戯言を。貴様の方が最後には暑苦しい男泣きだっただろう」
つんとそっぽを向く元就に、笑い声が込み上げてしまう。
こうやって冗談を言い合えるということが、とても楽しくて愛しくて堪らない。
些細な一時を、結果的にはくれた政宗に感謝の念が込み上げる。
元就の家臣達を探したのも、元親の部下達を助けたのも、不器用な彼の優しさがあったからこそだ。
「政宗は俺よりもでっかい奴だったな、って改めて思っていたところだよ」
そう言うと元就は鼻で笑った。
今更だろうが、と彼は尊大な態度で告げる。
「あれは大器晩成の気がある。年追う毎に貴様は劣等感に苛むことだろう。楽しみだな」
恋敵であった男を褒められて、元親はほんの少しばかりしかめっ面になったが、確かにそう思わせる何かがあるのだから反論はできない。
元就は懐かしげに、元親の手元の書状を覗き込んでいる。思い浮かべているのは、政宗と初めて出会った場所である厳島か、はたまた二度目、三度目の出会いをはたした長曾我部の別荘か。
そう考え、元親ははっと手紙へと視線を転じた。
抱きたかった、と政宗は書いている。それは希望であり願望。文面から見るには違和感が無いはずなのだが、その過去形が妙に引っ掛かった。
「元就。俺、ずっと真正面から聞けなかったんだけどよ……」
怖くて、怖くて、その口から悲惨な事実を告げられることが怖くて意図的に聞かなかった。
何より自分の目の前が真っ暗になって、奪われる前に倒さなくてはとただそれだけを思っていたから考えられなかったのだ。
――政宗が、元就を抱かなかったのかもしれないという可能性を。
「さて、どうだったかな」
元就は元親に質の悪い笑みを返し、立ち上がる。
そのまま去ろうとする背中を追いかけるため、慌てて元親も立ち上がった。焦ったような声を上げながらも、その横顔には晴れやかな笑顔が零れていた。
ここから始めよう。もう一度、始めよう。
陽が落ちて夜が続こうとも、朝陽が明日を照らし出すように。星が見えずに船が彷徨ったとしても、海は必ず大地へと繋がっているように。
二人の物語を、もう一度最初から――。
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(2007/01/21)
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