伍:東雲に鬼が泣いた -3-





 抱き締め合っていた身体を、元就は唐突に離した。遠のく体温に寒さを感じる間もなく、繋いでいたはずの手も振り払われる。
 そして己の左頬に鈍い熱を感じた時、ようやく元就に叩かれたのだと理解した。
 自らの頬を抑えた元親は、唖然としながら相手を見上げた。
 虚ろな瞳をしていた人形はそこにはいなかった。毛利を率いていた男の姿を髣髴とさせる、鋭い眼光を宿す元就がただ彼を見下ろしている。
 普段からあまり感情を露わにすることのない元就が、眉を寄せて顔を紅潮させている。とてつもない憤りを感じているのだろう。元親を殴った拳が震えていた。

「共に逝く、だと?」

 戦慄く声音を漏らしながら、元就は元親を睨み付けた。
 囲ってからは弱々しい声ばかりを聞いていた元親は、低く唸るような形相の元就を見てただ呆然とするだけだった。
 戦場で、厳島で出会った時のことを思い出す。元親の言葉に反発した元就。八つ当たりのように、怒鳴った彼。
 自分の物になったというのに、彼はまだ自分を受け入れてはくれないのかと、暗いものが胸に湧き出す。

「我に刺せと、殺めろというのか?」

 差し出された物を見下ろしながら、元就は続けた。
 彼が渡されたのは長曾我部の家紋の入った脇差。毛利の家紋は相手が握っている。元親が互いを刺し合うことを望んでいるのだと、いちいち言葉にしなくとも元就は理解している。
 だから彼は自分を拒もうとしているのだろうか、と元親は奥歯を噛み締めようとした。
 だが、それは叶わなかった。

「もう何も持っていない我に、そなたを?」

 元親が驚いて顔を上げた。
 俯いている元就の表情は、長くなった前髪によって遮られて今は見えない。
 だが、骨ばった肩が細かく震えている。呟くような言葉は慟哭のように悲哀に満ち、堰を切ったように元就の唇から紡がれていった。

「いつもそうだ……勝手に我の領域に踏み込んでおきながら、そのくせすぐに遠のく」

 人の気持ちなんて置き去りのまま、元親は自分一人で決めて、前へと進みだしていってしまう。元就が追いかけようかと逡巡しただけで、目の前にあったはずの背中は既に遠く。駆け出してみればもう見失っていて。どうしたらいいのか分からないまま、立ち止まることしかできなかった。
 身勝手に自分を囲って。醜くも見える情愛を押し付けて。
 返事もしていないというのに、一人で怯えながら一方的に約束を取り交わして。どれだけそれが弱いものなのかを理解していながらも、形ばかりの繋がりでさえ途切れることを恐れていて。
 強がっていて。なのに、酷く臆病で。足掻く力を持っていながらも、本当は哀しいくらい脆くて。
 失ってから、大事な何かに気付いた愚か者。最初は全く違う人間だと思っていた。けれどそれは、違った。
 自分と元親はまるで鏡合わせのようだ。逆向きに動く虚像の向こう側に、同じものを見ていた。
 だからこそきっと、元就もまたこの鬼に惹かれてしまった――。

「馬鹿な奴だ。この身に飽き足らず心まで奪っておきながら、勝手に自己完結しおって」

 告げられた言葉を把握しきれず、元親は上擦った声で彼の名を呼んだ。
 今、元就は何と言ったのだろう。
 これは幻聴か、白昼夢か。目覚めたら自分はまだ伊達軍に囲まれていて、目の前で再び信親が刺され、皆を置いて逃げなくてはいけないのだろうか。
 そうして思い出し、元親の胸が酷く痛み出す。
 遠目に見える、赤々と照らされた城。近づいてくる具足の音色。耳障りな振動音。
 自分にはもう何も残されてはいない。彼らに皆、奪われた。思い出す度に喪失感が全身を震わせる。襲い来る恐怖から逃げ出すように、元親は元就に手を伸ばした。
 ――彼だけは、自分が持っていくのだと決めた。けれど……。

「貴様も全て失った。ならば我のものになるが良い。そして――我の許可無く軽々しく死を口にするな」

 紡がれたその言葉が、以前自分のものになれと強要した時に元就へと言い放った命令――否、それは隠された懇願。死んで欲しくないと、願う心――と重なる。
 今の自分もまた同じ気持ちなのだと暗に告げた元就は、身体を屈めて元親の顔に両手で引き寄せた。
 触れ合う柔らかな感触と、泣きたくなるほど優しい温度。元親が元就に施していたものよりも、それは稚拙で弱々しいものだったけれど。

「誓約代わりだ。彼岸に赴いても、忘れるな」

 望んでも手に入らないだろうと、端から諦めていた元就の答え。
 急いてばかりいた己の我侭に付き合ってくれながら、彼が彼なりにずっとゆっくりと考え続けていたものの答え。
 酷いことを言った。人として、最低なこともした。
 けれど元就は今、笑っている。
 泣き笑いにも似たようなそれは、ぎこちなくも思えたけれども。彼なりの精一杯のものなのだと分かるからこそ、元親は目の奥が熱くなることを一層強く感じた。
 歪む顔を見られたくなくて、元親は元就を再び抱き寄せた。今度は跳ね除けられず、先程のように細い腕が背中に回された。元就の手の中にある馬鹿げた誓約書が、かさりと音を立てる。
 嘆息を元親は吐き出した。
 政宗の言う通りだ。こんなものに意味など無かった。
 本当に、無意味で無価値な束縛だけを知らしめるだけの、文字の羅列でしかなかった。
 既に元就の瞳には、自分だけしか映っていなかったというのに。
 不安と焦り、そして自己満足ばかりが募って、疑心暗鬼に囚われて。その結果、元就を傷つけて挙句の果てに穢されて、己は家族を部下を、今まさに国さえも奪われてしまうところだ。
 後悔なんて柄ではない。けれど、そんな強がりを言わなくてはいけない人々ももういない。
 元親を見ているのは、狂い壊れていった己を静かに見続けていた二つの瞳だけ。狂気と正気を行き交う彼を真っ直ぐと見つめていた、元就の切れ長の美しい眼だけだ。

 今、二人は世界に互いしかいない。互いの姿だけが映り合う。
 このまま死ねれば、きっとそれは至上の幸福なのだろう。地獄の海も三途の川も、どんなに荒れていたとしても船が漕ぎ出せるような気がした。

「元親、そなたが望むのなら構わぬ。失ったものは、どれだけ乞うても戻っては来ない。だから、会いに行くのだろう?」

 元就は脇差を拾い上げた。死んでは欲しくないと思っているだろうに。それでも元親の我侭に付き合ってくれるというのだ。
 元親は手にしていた脇差を一つ目でじっと見た。
 これを抜けば、きっと自分が望んだ二人だけの綺麗な楽園へと逝けるのだろうけれども。
 ――けれど、それで本当にいいのだろうか。
 足掻いて苦しんで、それでも微かな至福を今まさに感じ取ったというのに。人の死の上で生き残っている自分が、死んでもいいのだろうか。元就を、殺してしまっても本当にいいのだろうか。
 ――元就を手に入れてから、元親は初めて迷いを感じた。
 二人の間に沈黙の時がしばらく続く。
 近づいてくる蹄の音は、すぐ傍まで迫っていた。だがそれは微かな逡巡の様子を見せて、鳴り止んだ。代わりに聞こえてきたのは、二十にも満たない人の足音。
 元親は振り返らなかった。誰が来たのか、見なくとも分かる。

「アンタ等が心中するのは、別に止めやしねえよ」

 地面を踏み締める音を響かせたのは、政宗だった。
 視線を受けながら元親は、元就を抱き締める腕に力を込める。
 自分の決意が揺らいでしまった今、この独眼竜に首を刎ねられるという未来が脳裏に過ぎってしまう。
 元就はどうなるのだろう。国は、民は、生き残っていた者達はどうなるのだろう。次々と浮かぶ不安が少しだけでも薄れるように願いながら、元就と離れたくはないという意思表示のように、彼から自分の身を離せなかった。
 弱々しく寄り添い合う二人に、政宗はじくりと胸が痛むことに気付かないふりをする。
 分かっていたことだ。
 元就を探してこの場所に来た時に、駆け抜けて行った劣情のままに元就を押し倒した政宗は、自分の左目を仰ぎ見た相手の表情を鮮明に覚えている。

 あれは。

 あれは、彼が恋しいと。元就に焦がれていた元親の――そして政宗と同じ感情を抱えた瞳。
 元親を一途に想う、綺麗な瞳、だった。

 その瞬間、政宗の恋はきっと終わってしまった。
 他の誰かを――決して正常ではなかっただろう元親を、それでも心の底から想っているあの目を、政宗は美しいと思ってしまったのだから。
 二人が互いに望んで果てても、政宗は微かな寂しさを抱くだけで、後悔はしないだろう。想い合った二人の決めた道ならば。それで幸せだと言えるのならば。止めることは、しない。
 けれども言いたいことがまだ残されている。

「However……川の向こうにはまだ誰もいねぇ。こっち側でもう少し、本物の海を満喫してくれよ?」

 苦笑しながら言われただろう言葉に、元親は勢いよく振り向いた。銀髪で覆われていた視界が広がり、元就もまたそちらの方向を見やる。
 困ったような笑みを浮かべている政宗がいた。そして、その後ろに何人か人が立っている。恐々と進み出でたその人影に、元就が息を呑んだ。

「隆元……?」

 呆然と紡がれた言葉に、歩み出た青年はわっと泣き伏した。父上、父上、と何度も繰り返しながら嗚咽を漏らす。その背後で、見知った毛利の家臣達が涙を耐えながら安堵の表情を浮かべて笑っていた。
 生きていた。死んでいなかった。待っていてくれた。――全てを失ってはいなかったのだ。
 駆け巡っていく情報の波に、元就は絶句したまま震えた。
 あの日に全て失くしたと絶望したけれど。言いたい言葉が沢山あったはずなのに、言えずに終わってしまって後悔したけれども。
 生きていて、くれたのだ――。

 元就に迎えが来てしまったことに元親は怯えた。
 だが静かに涙を流している腕の中の元就を見ていると、彼の居場所はここではないのだとひしひしと感じ、このまま身勝手な己の手の内で殺してしまうよりはいいのではないだろうかと思う。
 けれど。
 ――自分には、戻るものがない。
 元就を放してしまえば、きっと何処までも一人きりだ。暗がりにぽつんと残される己を想像し、元親は寒気を感じた。
 その時、政宗達よりも更に後ろにいた小十郎が一人の青年を支えてやって来た。
 腹部を包帯で覆っていて、まだ新しい血が滲んでいる。端整な顔の額からは、脂汗が噴き出して立っているのも辛そうだった。けれどその彼は、穏やかな笑顔を絶やさずに確かに存在していた。

「親父殿、最後まで諦めないことが、海の男でしょう?」

 自分の生死のことも、迎えが来てしまった元就への想いのことも含ませながら、信親は精一杯の力を振り絞りながら、元親に言った。
 息子の優しい目を、蜃気楼を見つけたように唖然として見ていた元親は、自分を呼ぶ複数の声を聞いた。
 丘の下で、傷だらけの長曾我部の旗がなびいている。水平線から顔を出した淡い光に照らし出されて、確かにそこで振られている。
 込み上げた熱いものを感じながら、元親は一層元就を抱いた手を強く握り込んだ。

 自分にもまた、戻ってきたものがある。全てを失ってはいないのだと、元就が感じていることと同じ思いが湧き上がっては積もりゆく。
 こんな感情までも、元就からは奪えない。
 これ以上囲って、奪いたくはない。ようやく彼は涙を流せたのだから。

 だから――もう、解放の時なのだ。

 元親は元就を好いている。元就は、全て失っていないと分かった今であっても、抱いた腕を拒まない。
 もうそれだけで十分だった。それだけで、自分は救われるのだ。
 あんな真似をしなくとも。こんな戦を仕掛けなくとも。ずっと見えなかったけれど、隣にはいつだって元就がいてくれたのだから。
 元親の右目から、小さな雫が零れ落ちた。微かな嗚咽を耐えようとする元就の背中を摩ってやりながら、彼もまた細い肩に顔を埋めた。
 二人はまるで溶け合うかのように、泣き声を上げながら抱き締め合った。


 朝陽が世界を包み込む。
 東の空が輝きだし、薄暗い夜の帳を振り払っていく。
 長い夜が。
 迷宮のように彷徨い続けた闇夜が、ようやく明ける――。



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(2007/01/01)



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