伍:東雲に鬼が泣いた -2-
互いの獲物が交わり、生まれた衝撃によって元親と政宗の手から刃が離れたのはほぼ同時だった。
二人は逆の隻眼でその流れを見送り、微かに意識が外へと向けられた。何合も打ち合う内に熱くなっていたのだろう。周りの状況は生き物のように動いており、二人が対峙し始めた時とはまるで違っていた。
倒れた紫の旗が地上と海面を埋め尽くし、長曾我部は完全に圧された形となっていた。負け戦の臭いがそこら中から薫り、元親の見知った者の死体があちこちに倒れている。代わりに立っているのは青い群衆。相対している敵の兵士ばかりだ。
元親は呼吸を忘れて辺りを凝視した。
燃える船から上がる黒い煙。紅く染まっていく海。懸命に戦っていた者達の叫び。慣れていたはずのその光景が、右の目に焼き付く。
自分は今、何をしている。どうしてこんなことを選んだ。何故、ここにいるのだ――。
見ないふりしていた良心が、悲鳴を上げた。湧き上がる自身への問い掛けの数々に、元親の思考が戦いから一瞬逸れた。
同じように辺りを見ていた政宗は、その隙を逃さなかった。足元に転がる己の刀を一つ拾い上げ、屈伸した勢いを殺さずにそのまま元親の懐へと飛び込む。
瞬時に元親は政宗の行動に反応したが、受け身の態勢を取ろうにも防ぐ術はない。
負けるのか、と元親は背筋を震わせた。死ぬのかと思うと戦慄が走り抜けていく。
何故ここにいるのか、こんなことをしているのか。先程の自問に対する答えが、脳裏を過ぎった。
――全部、自分のため。元就の、ためなのに。
囲んだ世界を壊しにやって来たこの竜に、自分はやすやすと殺されてしまうのだろうか。
皆、奪われるのだろうか。
――イヤダ。
拒絶を叫ぶ声が頭の中で迸る。
迫り来る白刃を、元親は憎しみを込めた視線で捉え続けた。
飛び散った血潮が、白い肌を濡らす。
政宗の刀の切っ先は綺麗なものだった。磨き上げられた煌く刃には赤い筋が静かに伝っていて、その雫が音も無く地へと吸われていった。
憎しみに染まっていたはずの元親の瞳は、自失したかのように呆然と見開かれていた。微かな怯えと共に絞り出された声音は固く、悲愴に濡れていた。
元親は、竜の爪が突き出した身体を見つめたまま動くことを忘れ去っていた。
何故なら自身に突き立てられるはずだった刀を受け止めていたのは、信親だったのだから。
「行って下さい! お早く!」
わき腹を通り抜けた刃を安易に抜けないように留めた状態で、信親は叫んだ。必死の嘆願は、壮絶な痛みに端々が掠れている。
微かに怯んだ政宗が柄から手を放そうとするが、信親はそれに追い縋って血に濡れた手で彼の籠手ごと柄を握り込んだ。
信親が引き連れてきたのだろう部隊が、元親の周りにいた伊達軍の兵士達と戦いを始めた。
間一髪で割り込んできたのだろう。誰もが皆、元親を失うわけにはいかないと少数ながらも奮戦している。
呼吸すら忘れてそれを見ていた元親に、信親は再度叱咤した。
「あの方が待っておいでなのでしょう! 貴方はここで死んではいけません!」
弾かれたように元親は顔を上げる。
信親は真っ直ぐと父親を見つめていた。意志の強い瞳は元親と同じ色で、そこにある血の絆を確かなものを感じさせる。
再び、彼の足元の血溜まりが大きく広がった。だが信親は怖気付くことなく、声を高らかにして残った全軍へと下知を飛ばした。
最後の願いを、託すように。
「全軍、道を開けぇぇ!」
空気が揺さぶられる様な雄叫びに、鬨の声が一斉に上がった。
その言葉がきっかけとなり、元親は走り出した。
誰かが引いてきてくれたのだろう馬に飛び乗り、入り乱れた合戦場を突き抜けていく。
逃げ出した身であるというのに、元親が横切るたびに長曾我部の兵士達は送る言葉を投げかけていく。
「俺達が絶対食い止めるから、アニキは行ってくれ!」
完全に負けが見えているというのに。もうすぐ死ぬかもしれないというのに。
こんな馬鹿な戦いをさせたのは、自分だというのに。
「最後まで諦めません! ここは我々の国ですから」
元親は手綱を握り締めながら、前へ前へと突き進んだ。苦しかったが後ろは決して振り返らなかった。
ただひたすら喧騒が遠くなる方向へと向かう。
彼の待つ、蒼穹の岬の方へと。
――戦が終わったらまた海に出ましょうね。皆と……今度は、毛利様ともご一緒に。
去り際の信親の言葉が、哀しいくらい胸の奥を突き刺していた。ごめんも、ありがとうも言えないままで、最後まで我侭を続けた自分を許して欲しかった。
すぐに傍に行くから。
故郷の瀬戸内の海にはもう行けないだろうけれども、せめて向こう側へと漕ぎ出す船で共に出航しよう。
だから待っていて欲しいと、ひたすら祈った。
+ + + + + +
薄闇に染まった海を眺めていた元就は、静かに水平線の向こうを見つめていた。
今の季節柄、この時間帯に東側から光が昇る気配は全く無い。けれど起きてしまったのは、直せないほど身に沁みてしまった日課のせいだけなのだろうか。
元親に別邸へと閉じ込められてからは、太陽を仰ぎ見た記憶は全く無い。それでも元就は毎日、日の出の時刻に目覚めていた。
最初は代わり映えのない空や殺風景な庭ばかりを見ていたが、それが変化したのはいつだろう。
気が付けば己の眼に映るのは、元親の姿ばかりだった。
岬の別荘へと移されてから元親を見る回数は減ってしまい、逆に日輪を見ることの方が増えた。本来ならば喜ばしいことなのに。太陽を見上げても、思い浮かべるのは銀髪の鬼のことだった。
信親と話をしていて時折いなくなった家族のことを考えたりもしたが、面影のある声に元親を想ったことの方が多いだろう。
自分は随分と腑抜けたのだな、と元就はひっそりと思っていた。
かつての栄光の姿は何処にもない。それでも構わないのではないかと思い始めてしまった時点で、自分はかつての自分には戻れないのだと悟っていた。
誇りは今も胸の底で燻ってはいるけれども。
毛利を思う気持ちは、失ってはいないのだけれども。
無意識の内に握っていた手を広げれば、そこにあるのは皺だらけになった紙切れがある。
この小さな屋敷に来てから、始終眺めているために劣化が激しい。端々は小さく切れ込みさえ走っているが、手放す気にはなれなかった。
――それは縛り合うだけの証だ。
アンタ達は何でそんなに不器用なんだよ、と言って泣き出しそうに隻眼を歪めた男を不意に思い出した。
元就を押し倒していながらも、焦燥しきった表情で見下ろしてきた政宗。
彼は何を感じたのか。彼に何を感じたのか。
あれからずっと考えていた元就は、堂々巡りの中を彷徨っていた。それでも一つだけ明確な答えがある。
確かに、自分が望むものが一つだけ――。
「元就」
ぼんやりと縁側の柱に寄りかかっていた元就は、驚いて首を巡らせた。
時間が時間だ。人など来る筈もなく、ましてや帰りを待っていた相手がここにいることが信じられずに思わず瞠目する。
荒い息を吐く元親が、確かにそこに立っていた。
「元就、元就……」
まるで縋るように元親は元就を抱き締めた。血と汗と泥で汚れた姿は、戦場からそのまま現れたようだ。
元就の単が汚れることにも躊躇せず、形振り構わず元親は彼を夢中で抱き締める。その手が、縋りつくようにも思えたのは元就の気のせいだろうか。
「元親? どうしたのだ?」
真っ暗な世界の中、漣の音がやけに大きく聞こえた。
二人を包み込む静寂の遠くで、勝鬨の声が響いていた。多くの人々が地を踏んでいる。馬の蹄が迫ってくる。
元親の肩越しに見える城の方向が、明け方前だというのにやけに明るく見えた。
――あれは、篝火だ。
元就が見ているものに気付いているのか、元親の腕にさらに力が込められた。されるがままであった元就も、そっと彼の背中に自分の手を回す。
体温を共有するように、二人はしばらくそうしていた。
そして元親は身を起こした。名残惜しむように密接していた腕を外す。
代わりに元就の前へと差し出されたのは、二振りの脇差。鞘に描かれている家紋は長曾我部と毛利。つまりこの脇差は元親のものと、取上げられていたはずの元就のものだ。
この場でそれが持ち出された意味が分からないわけではない。だが暗に告げられた事柄を信じられず、脇差を凝視していた元就は、不安げに眉を顰めて顔を上げた。
「なあ元就。海の向こうに行こうぜ」
元親は、笑っていた。
病んだものではない。真剣な表情を不意に崩したような、困ったような笑顔で。
「お前に触れることができなくなるなんて嫌だ。もう、誰かに奪われることなんて考えたくもないんだ」
――好きだから。愛しているのだから。
熱い想いを含ませて、元親は泣き笑いのようにして告げる。そうして再び元就を抱き締め、自然と唇を寄せた。
常の喰らい尽くすような荒々しいものではなくて。初めて、触れ合うだけの優しい接吻を落とした。元就はそれを黙って受け止めた。
込み上げてくる物悲しい感情が、二人の間を彷徨う。
薄く閉じていた瞼を上げて、元親は元就を片目で精一杯見つめた。
海の向こうに外の国が広がっているのだと教えたのは、先日のこと。
だけど結局向かう場所は、それよりももっと近くてもっと遠い場所。長い旅路の果てにある、隠り世の彼岸。
二人で歩き出す道が死出の旅というのは、少しだけ虚しくもあったけれど。もう狂わなくて済むのだと思うと、気が楽になれた。
だから元親は真っ直ぐと笑えた。
「一緒に、逝こう」
言葉の重さに、絡み合った互いの手が震えた。
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(2006/12/17)
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