伍:東雲に鬼が泣いた -1-
長曾我部の軍が動いたと言う知らせを受けた時、政宗は既に陣中へと帰還していた。
辺りは騒然としたが、唯一政宗だけは眉一つ動かすことなく、静かに召集の太鼓を鳴らせるよう命じた。
大きな戦の直後に、同盟であった伊達を襲うということは愚策だ。形勢の読めぬほど馬鹿な男ではないはずだが、陰湿な怒りに囚われた元親は政宗を許そうとは思わないだろう。
――こうなることは分かっていた。
元親と元就。二人がいて、それで綺麗に完結していたはずの世界に政宗は無理やり入り込んだ。
元親を傷つけて。元就を傷つけて。
自分自身の恋心までをも、傷つけて。
正しかったのかなんて分かるわけがない。ただ政宗にとっての現状が思わしくなかったに過ぎず、ましてや一時的にでも激情に流された行為を行なってしまえば、それが全て理性で物事を考えたのだと言えるはずもない。
これは報いなのか、それとも必然なのだろうか。
どちらにしろ、もう戻れない場所に自分は立っているのだと、政宗は瞼を閉じて四国にいる彼の人の姿を思い出していた。
あの時、目の前が真っ赤になった政宗は、気付けば元就を見下ろしていた。
開けた衣から覗く白い肌に、自分の影がぼんやりと映し出されていた。そして視線が交わる。
――そなたは。
再会してから一向に口を開こうとしなかった元就は、そこでようやく静かに言葉を紡いだ。
頬に纏わり付いていた散らばった髪の長さが、出会った時からの年月を哀しく思い起こさせる。
――元親と、同じ目をしているのだな。
思わず背筋が強張った。
弾かれるように飛び退けば、薄っすらと笑う元就の瞳が政宗を見つめていた。
正気を失くした人形のような硝子玉ではなかった。家のために自分までもが駒だと言っていた将の眼差しではなかった。
あれは。
見覚えのある、あれはきっと――。
+ + + + + +
長曾我部と伊達が開戦したのは、皮肉なことに焦土と化した山陽の海岸沿い。
瀬戸内の波際で対峙し合った両者は、ある意味私闘とも言える此度の戦に疑問を抱きつつも、互いに主君のために武器を手に取る。
突然の元親の進軍命令に、長曾我部軍は戸惑いを隠せなかった。
伊達の方はといえば、政宗が四国へ渡る前に一応戦の準備はさせておいてあった。無事に上杉との戦いに勝利して、上洛した武田の後援により、物資の補給などは既に済ませてある。
数は互角ではあったかもしれないが、その余裕の有無で戦局は大いに傾いていた。本州から始まった戦いは長曾我部が圧され始め、今では四国の海岸まで後退を余儀なくしている。
次第に難色を示しだした戦。
だが、誰も元親に諌言を出せる者はいなかった。
甲板に一人で立つ男は、常の明るく笑う大将ではない。無言のままに立ち上る苛立ちの気配に、暗い瞳。別人のような無表情を浮かべ、彼はじっと敵陣を睨み付けていた。
あれは独眼竜を探しているのだ。先の同盟の際に、何か仲違いするようなことがあったのだ。
誰が言い出したか分からぬ根も葉もない噂だったが、皆一様に――自分達に言い聞かせるようにそう思っていた。元親を敬愛しているからこそ、主が短慮を起こしたわけでも気が狂ったわけでもないのだと信じたかった。
部下達が思うように、確かに元親は政宗の青い陣羽織をひたすら探していた。
いつものように一騎打ちを楽しむためではない。今度こそ憎い相手を自らの手で屠れるよう、獲物を探すような獰猛な視線が戦場を這っていく。
視界の端で命がまた消えた。
微かに目を細めた元親だったが、振り切るように顔を上げる。
――必ず海に花束を流してやるから。俺の我侭に付き合ってくれて、ごめん。
そう胸の内で繰り返す。
本当は分かっているのだ。愚かしい真似をしているのだと。酷いことをしているのだと。
だけどここで止めてしまったら、元就がこの手からすり抜けて行きそうで怖い。諦めてしまって、そうして一度は失ってしまったからこそ余計に暗鬱としたものが湧き出るのだ。幾度と無く去来した想いは、既に到底捨てきれるものではなくて。
制約はまやかし。あるべき姿を殺す鎖にしかならない、と元就の口から伝えられた政宗の言葉が、脳裏にこびり付いたまま離れようとはしない。
政宗は真実を言い当てた。元就に、それを告げてしまった。
誓約がどれだけ脆い虚言で作られているのか、一番良く理解しているのは元親自身だ。何処から崩壊するかも分からぬ約束で、形だけでも元就を得て。歪であっても綺麗な箱庭が完成されていた。
それが今、大きな軋みの音を立てて崩れようとしている。
盲目であったがゆえに、元就の傍らという居場所を失ってしまうことは元親にとって世界の終焉にも等しかった。以前の、こんなに醜くて汚くて、悲しくも愛しい感情を自覚する前の自分には到底戻れるわけがない。
怒りに任せて軍を出した元親だったが、その心中は奪われるかもしれないという恐怖で震えていた。
裏切りという形で政宗は、元親から友という存在を奪った。
次は、この命か。元就か。四国か。
どれ一つ欠けても、自分という者は確立できない。戦になってしまった以上、天下を虎視眈々と狙ってきた竜は国を獲るまでその刃を納めないだろう。彼はそういう男だ。
ならば守るしかない。
たとえ、政宗を殺してでも。親しい部下達を喪ってでも。
――自分らしさを失ってでも。
そこに思考が辿り着き、元親ははっと息を呑んだ。
感じる既視感。暗闇の底で怯えている琥珀の瞳が、自分を睨み付けていた。その視線と対峙した自分が、彼を責め立てている。厳島で元就と出会った時の、自分が。
彼も、こんな気持ちで戦い続けていたのだろうか。
居場所を奪われるかもしれないと怯えながら、必死に戦って。欠けてはならないもののために守ることだけを考えて。兵が、民が、家臣達が傷付いても。自分の中の何かが少しずつ壊れていったとしても。
今の自分は、元就と同じだ。
かつて哀れみを孕んで批判したかつての己が、何と軽率だったのだろうと唇を噛み締める。この後悔は、中国で元就を拾った不気味な日蝕の日に一度感じていたものなのに。
分かっていなかった。本当の意味で、分かっていなかったのだ。
誰にも話せないような混沌めいた想いは、自分だけが理解していれば良いもの。誰かを巻き込むことも、また係わらせることも拒み、一人で立つ事しかできない。
元就が元親にぶつけていた苛立ちは、元親が政宗に感じた焦燥感と良く似ている。
そうして入ってしまった亀裂がどんな波紋をもたらすのか、元就を静かに見守れないまま絶望を知った元親には分からない。
嗚呼、と元親は嘆息を吐き出した。
鬼になると、修羅になると、決めていたのに。迷いを覚えて揺れ動くほど、まだ自分は人間なのだ。滑稽なほどに、人間だったのだ。
それでも、青い羽織りと月の煌きを目にしてしまうと、憤りの熱は高まり周囲の景色は霞む。
――奪われてなるものか。渡してやるものか。
衝動だけが全身を駆け巡り、元親は船から飛び降りた。そして一気に間合いを詰める。現れた政宗の懐へと。
「会いたかったぜ、政宗。鬼の居ぬ間に盗人紛いとは、独眼竜も堕ちたもんだなぁ?」
六爪と刃が交わり、涼やかな音が響き渡る。鍔迫り合いの後、距離を取った二人は対峙したまま睨み合う。
元親は笑う。あの、闇に囚われた瞳で。
それを政宗は無言で見上げる。微かに目を伏せたように見えたのは、気のせいだろうか。
「余裕ねぇな元親? 大切に囲っていたお人形さんを、勝手に触れられたことがそんなに気に喰わないかい?」
兜の下でいつものように皮肉めいた笑みを投げかける政宗だが、元親を見る視線だけは真剣なものだった。だが吐き出された言葉に気を取られている元親は気付かない。気付かないまま、込み上がってきたどす黒い濁った殺意に突き動かされる。
二人は互いに武器を構え、そして再び激突を繰り返した。
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(2006/12/07)
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