肆:回り始めた物語 -4-
本国凱旋は思っていたよりもずっと早かった。
信長を自身の手では討ち取れなかったものの、仇討ちは成した。四国を直接的に狙ってくるような相手はいなくなり、今後の憂いを絶つことも出来た。
何よりも、予想通りに長く国を離れることにならずに良かったと、元親は上機嫌であった。
――元就に、会える。
彼は何をしていたのだろうか。自分のことを、想っていてくれただろうか。
考える度に不安が湧き上がったのは、少し前の事。無理やり囲って強制的に自分の方を向かせ、卑怯なことに暴力まで振るって元就の目に自分だけを映させたのだけれども。
制約を交わした日から、確かに元就は自分のものになってくれた。
一挙一動を見つめてくる視線に、胸の奥が震えたことは何度もある。愛しさが込み上げて、誰よりも彼を大事にしなければいけないのだと思えた。
彼の命を狙った国も、彼の心を縛っていた国も、もう何処にも無い。
これでようやく、本当の意味で元就を手に入れたことができた。自分だけが、彼を守ってやれるのだ。
入城した元親は部下達に労いをかけ、それから信親を探した。
国のことを一切任せていた礼を言わなくてはいけなかったが、それより先に元就についてのことが聞きたかった。
城の中で元就の存在を知っている者は信親だけだ。そのことに微かな焦れを感じるものの、勝利の歓喜の方が勝り、元親は足取りが重くならずに息子の控えているはずの部屋まで来ることができた。
だが、中には人の気配は無い。
呼び出して間もない。信親はまだ来ていないのだろうと、軽く息をついた元親は窓から差し込む斜陽に目を細めた。
日が落ちていく。
悲しいくらい、朱色に空を染めさせて。西の海原へと紅く燃え尽きていく。
太陽が水平線に飲み込まれていくほどに世界は暗闇に閉ざされて、数刻ほどで夜が訪れる。既に東の空には月が出ているだろうか。太陽の代わりに闇を照らす、道標となるあの明かりが。
「父上っ!」
ぼんやりと外を眺めていた元親は、呼ばれ慣れていない言葉に驚き振り返った。
父上というのは堅苦しくて適わないから、親父と呼べと。そう言い聞かせても生真面目な性格上からそのまま呼ぶことを憚れて、親父殿と自分を呼ぶようになった信親。悲痛な叫びを上げながら走りこんできた彼の、青褪めた顔色と咄嗟の呼び方に、何があったのか元親はすぐさま察した。
高揚していたはずの全身の血が、一気に下がったような気がした。
部屋の中には乱れた形跡が残っていた。流血沙汰になっていないだけましなのだろうか。
元親は開きっ放しの襖の前で立ち竦み、呆然とその惨状を見下ろしていた。
奇妙な位置にずれている文机。畳みに落ちた硯に筆。開きっ放しの抽斗。几帳面な元就にしては可笑しい現状に、それだけで異変が起こったのだということは知れる。
だが、足元から震えが這い上がるほどの衝撃を与えたのは。
中央で蹲る元就の、その姿。
「も、となり」
頼りない声が吐息のように出て行く。自身でも聞き取りにくかったそれが、彼には届いたようで。
ゆっくりと、白面が振り返る。
先にこの惨状を見た信親が被せてくれたのだろう緑の羽織りを肩にかけ、以前より少し伸びた髪が疲労の濃い顔の輪郭を縁取る。独特の倦怠感を纏いながら、元就は薄目で元親を仰ぐ。
「ああ……帰って来たのだな」
いつものように、元親を映す琥珀の瞳。
変わらなく傍らにいるよう誓わせたその目に、自分の姿があるというのに。目の前に横たわっている事実が、元親に鈍痛を思わせる辛苦となって襲いかかってきた。
久方ぶりに聞いた佳良な声音は罅割れて、酷く擦れていた。開けた袷の帯は解けて、青紫の鬱血が点々としている足に纏わりついている。自分の残していった痕が痛々しさを倍増させ、ここで起きただろう狂乱に自然と拳を握ってしまう。
「誰が、誰がこんなことを」
噛み締めた犬歯が、唇から血を流させた。だが元親はそんな微かな痛みなど感じていなかった。燃え上がっていく黒い焔で焼き爛れていく、己の内に比べればちっぽけなものだ。
今度こそ、守れたと。守れるのだと――身も心も鬼にして、彼を傷つけて追い詰めて、自分らしさも忘れて、それでようやく得たというのに。
「制約はまやかし。あるべき姿を殺す鎖にしかならない、と」
ぼそぼそと呟く元就の声に、現実に引き戻された元親は彼に近づく。
相手に伝えろとでも言われたのだろうか、それだけを告げて元就は黙り込んだ。乱れた着衣を直すこともせず、ただ手の中に握り込んでいる。
元親はその手を、そっと自分の両手で包み込む。
皺だらけになった制約書。元親が形だけでもと望んだ、頼りない二人を繋ぐ証。彼はそれを離さなかったのだろう。過ぎ去らぬ劣情の嵐の中、ただそれだけに縋って自分を待っていてくれたのだろうか。
元親も同じように元就の身を無理やり奪った。暴力的な行為を与え、無意識的に怯えるように仕向けたのは己の所業だ。
しかし約束に縋ってくれるほど、それでも元親のことを今では許容してくれているのだと、薄っぺらな紙切れを握り締める拳の強さで理解できた。
襲った者と元親は違うのだと、言葉無き言葉で示してくれている。込み上げてくる情愛に突き動かされ、元親は元就をそのまま抱き締めた。
生まれてくるのは愛しく恋しい気持ち。
同時に生まれる、耐えようの無いほどの獰猛な殺意と恐怖。自分だけの宝物を踏みにじっていった者への、激しい怒り。
そして――隠していた大事な物を攫われてしまうのではないかという、焦り。
仇が直接討てなかったことにより、燻っていたどす黒い感情が止め処なく溢れ出す。
敵がいるなら戦う。
元就は渡さない。誰にも、渡すものか。
次は誰だ。誰を屠れば、このどろどろとしたものは納まるというのだ。
――中国の毛利が……。
脳裏に過ぎっていったある男の言葉に、元就の肩口に埋めていた目が陰惨な眼光を灯した。
豊臣を制した後、伊達は大阪に宿営している。長曾我部が一度帰国したのに対して、彼らは何かを待っているようにそこから動こうとはしなかった。
一時同盟の成功の宴は後日ということになっている。どちらも後々に私的な招きをするからだ。
だから、伊達が奥州に帰らないことがずっと不思議だった。
京には武田が迫っているから、真田に因縁を持っている政宗が相対するのだろうと思ったが、その前に武田は上杉と戦うはずだ。待つにしては長過ぎるだろう。
もしもという言葉は、考えるほどに現実味を帯びる。
政宗が元就に興味を抱いていたことは知っている。手紙で、厳島まで一度出向いたことがあるとまで言っていた。あの頃は元親の激情は淡く拙いものでしかなかったのだけれど、今思い返せば嫉妬で身を焦がしそうだ。
彼もまた、元就を想っていたのだろうか。そうして今手の中にあるこの身体を。
自分を謀ってまでして、抱いたのか――。
友だと呼べる男だった。好意に値する、つい先程まで共闘者であった。
だが元就が絡めば簡単に負の感情が浮かぶ。
赦さないと。殺してやりたいと。酷く短絡的で理性を伴っていない思考を、冷静に見る自分が頭の何処かにいるのだけれどそれは歯止めにはならない。
何よりも裏切られた悔しさが元親を揺さぶった。
渦巻く様々なものを耐えているのだろう、背に回った腕がきつく元就を抱き込む。微かに震えているそれを感じながら、元就はそっと目を閉じる。
握ったままの誓書に想いを馳せるよう、ただ元親の気が済むまでじっとしてやっていた。
Next→伍:東雲に鬼が泣いた -1-
(2006/11/28)
←←←Back