肆:回り始めた物語 -3-



 潮騒を運ぶ海風が吹く屋敷の縁側に、静かに座っている人影があった。留守役を仰せ付かっている信親と、この別荘に隠れ住んでいる元就だ。
 週に一度ほど、信親はこの別荘に来ていた。様子見と言えば聞こえが良いのだが、父から命ぜられている監視のためでもある。かといって喋る相手のいない元就をそのままにしておくことも出来ず、信親はいつも短い言葉を交わしていた。
 元就も元親と似ている声に安らぐのか――それとも内心では怯えているのだろうか、信親には分からない――無下にすることもなく、虚ろな視線に時折光を取り戻して彼を見た。
 それでも、相変わらず元就の中には元親が居座っている。
 哀しくなる自分の心に気付かないふりをしながら、今日も彼は元就と話をしていた。

 信親は以前元就が不意に零した言葉を覚えていたようで、よく餅を土産に持ってきてくれた。
 父親に似て細かな所までよく覚えている、と一度元就が言ったら、少しばかり哀しげに笑った。それが申し訳なく思い、元就はそれからあまり元親に関して何も言わなかった。彼も分かっているのだろう。元親の話題は極力持ち出してこなかった。
 全く出来た息子だと元就は瞼を押さえたくなった。
 元親に囲われるようになってから、考えないようにしていた。それが不意に湧き上がってくるたびに、元就は衝動を耐えた。
 ――いなくなってしまった自分の子供達が、脳裏に過ぎっては消える。
 だから信親が話し出した話題には、正直驚いたのだ。

「長曾我部は勝ったようです。きっともうすぐ帰って来るでしょう」

 開戦すると聞いた時、自分は元親まで喪うのかと戦慄いた。
 惹かれているのだと自覚してしまえば想うのは元親ばかりで、今ではあの悪夢も見る頻度が少なくなっていた。元親が言うように、元親だけを求めるようになってしまった己の心の変化が恐ろしくも思えたが、同時に甘く優しいものでもあった。
 あの血判状は、今も元就の部屋にしまわれている。
 彼の文字と自分の流した赤い印を見る度に、思い起こすのは元親の柔らかな笑顔。元親がいた時に、身に刻まれた傷の数々を見下ろすごと、彼のあの身の毛もよだつ様な表情を思い出していたように。

「織田を、討てたのか」

 自分の声が奇妙に震えていることを感じ、元就は拳を握りながら海を見つめる。
 彼を失わずに済んだのかと暗に問いかければ、信親は小さく首を縦にした。それを確認すると、元就の喉元に安堵の吐息が込み上げてくる。

 縛られている、と元就は思う。
 どちらがどちらにではなく、元親も元就も互いに互いを細い糸で絡ませて抜け出せなくしている。
 開戦を元就に教えた時期から今日まで、大らかな考え方で戦局を見る元親にしては短すぎた。四国に戻るために、彼らしくない戦い方ですぐに戦を終わらせようと躍起になったのだろう。
 それが自分に会うためだと、元就は知っている。自惚れなどではなく、事実なのだと客観視できるほど確証を得ていた。正気と狂気の狭間を迷走する彼を、何度も見てきたのだから。
 羨ましく思うほど自由だった男は、元就という存在に縛られている。囲われた元就が元親に縛られているように。
 全てを失った自分ならいい。だが元親には、様々なものが残っている。天下を狙う野望も、家族も、国も、慕ってくれる部下達も。
 元親ならば元就に縛られることを選ぶのも、また自由の形なのだと屁理屈を吐くだろうか。
 選ばれることは嫌ではないが、それによって元親が何かを失うことは耐えられそうもない。
 けれど離れることを考えるには遅過ぎた。傍にいなければ恐ろしく思えるのは、もう元親だけではないのだから。

「そろそろ時間ですね。もう戻らなくては」

 黙り込んでしまった元就に何を言うことなく、信親は温和な面差しのまま席を立ち上がった。
 下働きの者に二言三言言いつけ、それから彼は城へと戻って行く。
 後に残ったのは潮騒と、薄暗い空模様。
 元就は元親と別れた美しい蒼穹の日を思い出していた。
 いつかこの海の向こうにお前も連れて行ってやるよと、元親は笑っていた。暗い感情を灯すものではなく、屈託の無い笑顔。誰よりも憧れていた眩しい太陽のような――。


「毛利、元就」


 ざわりと、大きく木々が揺れた。
 舞った木の葉と共に流れてきた男の声に、元就は顔を上げた。
 久方ぶりに聞く自分を表す名前。元親も信親も決して呼ぶことの無かった、失われてしまった一族の名に、無意識に背筋が強張った。
 視界に蒼が飛び込む。
 望んでいた青ではなく、それでも目が覚めるような気高き色が。

「伊達政宗……」

 忘れかけていた名前を紡げば、厳島で出会った彼の姿が浮かんだ。
 自分が確かに毛利であった、あの頃を。

 呆然と政宗を見る元就は、かつての精彩な輝きが失われていた。
 横たわる事実に顔を顰めた政宗は、四国を探ってきた佐助の手紙を片手に握り締めながら縁側まで大股で歩を進める。
 ずっと探していた、と言えば嘘になる。彼が遠い西国で潰えたと聞いた時、これも戦国故かと簡単に諦めた。比べる気は毛頭無いが、何より元親の抱いていた情念の方が自分よりも燃え盛っているのだと感じて、一歩だけ身を退いてきたことは事実だ。
 行方不明と知りながらも、元就を連れ出した元親。
 彼と同じ真似を自分は果たして出来ただろうかと、元親が四国に隠している彼の人の存在に気付いたときから思っていた。
 距離の問題など初めから勘定には入らない。立場も体裁も関係なく、元親は元就を求めたのだから。

 政宗は隻眼を細め、相手を見下ろした。
 薄手の部屋着を纏っている元就は、細く小さい。鎧を失った彼がこんなにも儚いものだとは予想していなかった。鮮烈な光を灯していた双眸からは、全く覇気がなくなっている。
 ――元親は何をしたというのだ。こんなの、彼じゃない。
 あの日出会った毛利元就という男は、あんなにも眩しいものを纏っていたというのに。
 元親の瞳が凍えた海ならば、元就の瞳は霞んだ光か。
 まるで比翼の鳥のように、片方が地に伏し闇に飲まれてしまえば片方がそれに引き摺られている。互いを縛る影の大きさに、二人は気付いているのだろうか。

「……っ!」

 間合いを詰めると、相手は弾かれたように屋内へと身を翻した。
 唖然としていた目が、一気に現実へ引き戻されたかのような不自然さで見開かれていた。自分が、毛利元就であると改めて教えられたような反応だ。
 部屋の奥へと逃げ込もうとする元就の背を追い、政宗もまた屋敷へと足を踏み込ませる。
 今、この場所には二人しかいない。先程までいただろう下女達は信親の屋敷の者で、週に三度ほど通っている。今日の仕事はもう終わっており、信親の従者として帰ってしまった。そのため誰にも咎められずに、政宗は元就の部屋に辿り着く。萎えた足の元就に追いつくことは簡単だった。
 開きっ放しの障子から日が差し込み、政宗の影が室内に長く伸びる。その向こう側で、元就が何かの紙を握り締めていた。
 抱くように、守るように、祈るように。
 その仕草が以前の彼とは結びつかずに、自然と眉間に皺が寄った。

「アンタは……アンタ達は、何で変わっちまったんだよ」

 苦しげな言葉が勝手に喉から込み上げる。
 自分が悔しいのか、悲しいのか良く分からない。だがとてつもない疎外感を感じ、同様に愛惜していた綺麗なものが、唐突に欠落してしまったような喪失感が胸を過ぎる。
 親しかった元親の異変に気づいた時から、きっと徐々にぼろぼろと欠け出していたことだろう。目の前の、かつての姿が幻だったかのような元就を見て、皹は大きく音を立てて割れ出した。
 足元がぐらつきそうになる。
 出来の悪い悲劇を見ているような気がするのに、それを嘲り笑うことがどうしても出来ないのは、己がその劇の舞台に中途半端に立ってしまったからだろうか。

 ふと顔を上げた政宗は、元就の単から覗く白い肌に鬱血した痕を見つけてしまった。
 背筋が一瞬強張った。瞠目したまま、全身が総毛立つ。遣る瀬無さと、矛先の分からぬ憤りが込み上げた。
 青黒く変色しているそれは、日数はかなり経っているのだろう。だが同じ場所を何度も殴られて付けられたようで、色が取れずにいた。
 証を刻もうと足掻いた傷跡。妄執の棘がそこにある。
 政宗の脳裏に、元親の暗い笑みが浮かんで消えた。



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(2006/11/27)



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