肆:回り始めた物語 -2-
戦場を回避しながら、山中の闇夜を駆け抜ける一つの影があった。
前田は全力で武田と鬩ぎ合っている。硬直状態は中々解けるものではなく、忍の者達は特殊工作を仕掛けるために散っていた。
佐助もまた、前田との戦とは直接的には関係の無い仕事を抱えていた。
武田の隣国上杉は、現在同盟関係に当たっている。織田を討つ間の仮初のものだが、裏切るような真似は決してしない相手である。そのため後方の憂いは無く、武田は織田と開戦した。
その上杉から数日前に、同じく東北の伊達が動いたという知らせが陣にもたらされた。期に乗じて漁夫の利を得ようとするだろう、と謙信からの手紙を受け取った信玄だったが、伊達軍は今のところ合戦場には姿を現していない。だとすればそのまま南下したということになる。
三つ巴の戦いとなる場所は何もここだけではない。
中央ではとうとう豊臣が起った。西の毛利を討ちながらも、土地を支配する時間もなく織田が引き返したという話を聞く限り、相当な数だろうと信玄は踏んでいた。
そこへ伊達がどう動くか。
信玄からの命を幸村から承った佐助は、真田の陣をひっそりと抜けて西へと駆けた。
相手は主である幸村の宿敵とも言われる男だ。明確に告げはしなかったが、幸村自身も動向を気にしていた。だからこそ忍頭である佐助が今、こうして闇夜を駆けている。
しばらくして、佐助は大阪付近に辿り着いていた。敵の領内に入ってからは忍だと悟られないよう市井の者として振る舞い、そうして彼は情報を集めだす。
あくまで調べるのは伊達の動き。織田や豊臣の懐に潜ることは出来ず、佐助は民衆の間を歩き続けた。人々は耳聡い。何せ戦の勝敗に自分達の明日が懸かっているのだから。
港の近くにやって来た佐助は、紫の七つ片喰紋の旗が瀬戸海を渡り、大阪の方へと向かったと聞いた。
織田に長曾我部が援軍に向かったのだろうかと最初は思ったが、時期的に可笑しい。
そうであれば、毛利への出兵の時点で動くはずだ。ましてや壊滅させただけで支配していないがら空きの中国が、四国の目の前にある。援軍を要請する前に、国の占領を任せるだろう。
ならば何故、長曾我部が兵を本州に送ってきたのか。まるで北の伊達と連動するようなその動きは――二つの国が組んだという何よりの証だろう。
島国である四国が動くことはそうそう無く、遠く離れた奥州の伊達と同盟を組むなどとは誰も予想しないだろう。
苦い笑みを浮かべた佐助は、政宗と元親ならば織田と豊臣に奇襲をかけると踏んだ。
好戦的で博打好き。天下の先を見据える風雲児である二人が、多勢である相手の軍を相手にすることに怖気づく訳が無い。
「厄介な相手だねぇ。まあ、織田と豊臣が一気に崩れてくれれば上洛も容易いもんだ」
肩を竦めながら街道を歩いていた佐助は、過ぎていく山々に視線を用心深く這わせた。
少数の部隊が大軍を叩くには、懐に飛び込んで大将首を上げることが最も効率的だ。ならば伊達と長曾我部は、相手に気付かれないように事を運んでいるはずである。
合戦は織田領と豊臣領の境目を中心として激しく行われているが、その領境が現在佐助のいる辺りだった。戦の定石として高台を取った方が有利になる。ならば奇襲を狙っている部隊が、何処かの山中に陣を張っているだろうと佐助は察していた。
夜となり、忍装束に身を纏った佐助は音も無く森の中を跳んでいた。
大体の目ぼしい山を見回った後、布陣するには効率の良さそうだと感じた場所を探っているのである。
元より佐助は忍であるから、戦略の立て方など深くは学んだことはない。ただ戦上手な信玄や幸村の隣に長くいたため、基準は何となく分かっている。
そうして、幾つ目かの山の中腹に篝火の明かりを見つけた。
幕に垂れているのは竹に雀の紋――何と、政宗自身が率いている伊達の本隊だった。ついている、とこっそり笑った佐助は、気配を完全に絶って陣へと近づいた。
「政宗様、少し落ち着いて下さい」
「考え事してんだよ。邪魔すんな」
先程から政宗は陣の中央を、行ったり来たりと忙しない様子で歩き回っていた。傍で控えている小十郎が呆れた様子で諌めるものの、そんな言葉も耳に入らず、すぐに思案に戻る。実はこれが三度目のやり取りであったのだが結果は同じだった。
小十郎は溜息をそっと吐き出し、闇夜に視線を彷徨わせた。
元親とは挟撃のため、数日前に分かれた。決起は明後日。合図は向こうから送られて来る事となっており、兵士には準備を伴った休息を取らせているところだった。
目の前の大軍に神経を注いでいるせいか、忍び込んだ佐助には見張りの兵も気付いた様子はない。
不審な行動を繰り返している政宗を遠目で見ながら、佐助はじっと聞き耳をたてた。
「……いっそ、四国を攻めてみるか?」
ぶつぶつと呟いていた政宗は、視線を足元に落としながらそっと零した。
これから共に戦う相手を裏切るような考えが、この時期に良く出来るなと佐助は思わず眉を顰めた。
しかし頭を軽く振って顔を上げた政宗を見て、微かに瞠目する。哀しくも、苦しくも見えるような。曖昧な感情が、彼の端整な横顔に浮かんでいたのだ。
「家捜しで十分か……だが厳重だろうな」
言葉の端々から見るに、政宗は何かを探しているようだ。それが四国にある上、長曾我部の守りが堅いらしい。元親の留守中である今ならば入り込む余地はあるのだが、戦局から見て政宗は動くことが出来ないのだろう。
――注意深い独眼竜が、独り言を零すこと事態珍しい。その上あんな顔を浮かべるだなんて。
佐助は疼いた好奇心に笑いながらも、静かに木の上で息を潜め続けた。
一方の政宗は、時間が無いことにらしくない焦りを感じていた。
元親が国に帰った時であれば、もう遅いような気がする。単身で四国に向かうことは叶わないが、せめて自分の嫌な予感が真実であるのか妄執であるのかそれ位ははっきりとさせたかった。
だがきっと元親が戦を終えてしまった後では、関与することはできないだろう。
――完全に隠されてしまう。
政宗は奥歯を噛み締めながら、脳裏に浮かんでいる一つの答えに苦悩する。
配下の草を動かせば良いのだろうが、軍を本国と分けてしまっている今では人手が足りないほどだ。戦場から割けるほどの余裕も無く、ましてや突然四国へ忍を放つなど小十郎が許しはしないだろう。
けれど、このままではいられなかった。
――きっと、元就は四国にいる。
思い浮かんだその答えが、自分の中で湧き上がってしまったから。確かめなければ、我慢ならない。
「Damn, どうにかならねぇのかよ!」
椅子を蹴り上げた政宗は、静かに傍に控え続けている小十郎に初めて振り返った。
苛ついている政宗に対し、小十郎は冷静な表情を崩さずに視線を主に向ける。だが、鋭い隻眼と視線を合わせる前に彼は眉を顰めた。
「伊達の者を動かすことは出来ませぬ、と何度も申しております。――そこの忍、出てきやがれ」
言葉の最後に怒気を孕ませ立ち上がった小十郎は、ゆっくりと刀を抜いた。
気付かれたことに佐助は内心どきりとしたが、余裕の笑みを貼り付けて手元の手裏剣を確かめる。
そして意を決して地上へと降り立った。
佐助の姿を確認した政宗は、小十郎を無言で制した。
「真田のところのか。大方、俺が動いたことに警戒して探りを入れてきたんだろう」
「正解ー。さすが旦那、慧眼お見それ致します。ついでに黙って逃がしてくれると嬉しいんだけど?」
いつも通りの飄々とした言い草をしながらも、佐助は困惑していた。
そこまで察していながら、政宗からは殺気や闘志が感じられない。以前戦場で出会った時とは違う、微かな暗闇を抱く俯き加減の独眼竜を見て、先程の独白を思い出す。
何か、ではなく――誰か、だ。
彼は誰かを、こんな顔を浮かべるほど必死に探しているのだと佐助は直感した。
「どこまで聞いていたか知らねぇが、さっさと失せろ。お前の事だから、俺がここにいる理由なんて当に知っているんだろう」
確信的な言い方に肩を竦めた佐助だったが、背を向けた政宗が何処と無く焦れったかった。抜刀したままの小十郎も、目を細めて政宗を見ている。
何があったのかは分からないが、彼らしくない、と思う。
政宗とは幸村と共に戦場でしか会ったことはないが、竜を思わせる存在感が確かに彼にはあった。だが今は、目の前の男は確かに伊達政宗であるというのに、そこにいるのは幸村と同じ十代の青年でしかないように感じた。
影でありながら、時折人間に戻ることがある自分のように。
だからだろうか。佐助は無意識の内に口を開いていた。
「……あんた、誰を探しているの?」
落とされた言葉に答える者は誰もいない。いなかったが、沈黙は肯定である。ちらりと佐助を見やった政宗は、再び顔を背けた。
「帰れよ。俺はまだ武田と事を構える気はねぇ。せいぜい前田の足止めをしておけと、真田幸村に伝えろ」
拒絶の背中を眺めていた佐助は、微かに俯いて森の中へと跳んだ。
闇の中に消えて行った影を見やりながら、刀を納めた小十郎は政宗に近づいた。
「政宗様……」
「構うな。織田と豊臣を潰す絶好の機会だ、あいつらが横槍を入れることはないだろう」
大将らしい言葉を紡ぎながらも、政宗の表情は浮かないままだった。彼は不意に元親がいるだろう山の方向を見やり、深く息をついた。
――もう手遅れなのだろうか。
海に浮かんだ氷が溶けることも、沈んだ日輪が再び姿を現すこともなく、天下だけが主を決めるべく無慈悲に刻々と時間を進める。
自分の六爪に触れながら、政宗は訪れたばかりの夜空を見上げた。
闇が、明ける日は来るのだろうか。
数日後――政宗の不安は杞憂となった。いや、まだ全てが決着をついたわけではない。だが、活路を見出したということにはなるだろう。
出陣した伊達軍は豊臣軍本隊とぶつかり合い、激しい戦闘を繰り広げた。今頃、長曾我部軍が織田軍を奇襲しているはずだ。
そんな中、波に乗っている伊達の陣へ政宗宛の矢文が放り込まれた。
訝しげに思っている小十郎を余所に、政宗はその手紙を隅から隅まできちんと読んだ。
「ったく、あそこの軍の奴は揃いも揃ってお節介な奴ばかりだぜ」
苦笑しながら呆れたように息をつくが、政宗は手紙を握り締めて遠くに見える山々を一つ目で見る。きっとずれ込んだ予定を取り戻すため、今頃森の中を必死に駆け抜けているだろう忍を思い浮かべながら。
「……Thanks」
政宗が文を受け取った前後から、戦場の状況は次々と変わっていった。
明智の反乱、前田慶次の横槍、長曾我部の参入、伊達軍の奇襲――。三つ巴どころか、四つ五つと混乱を極めた中央での戦いは、その規模から考えればあっという間に終わってしまった。
織田軍は明智軍に横から叩かれ、離散。残った兵では長曾我部の勢いを止めることは出来なかった。
竹中軍と豊臣軍は前田慶次という異種な存在によって撹乱され、統率は乱れた。これもまた伊達を止めることは出来ず、政宗は覇王を倒した。
だが元親は、魔王を討てなかった。勢力としては確かに長曾我部は織田を破ったのだが、元親自身が信長の首を取ったわけではない。安土城天守に辿り着いた時には、光秀と相打ちになっていたらしい。
目の前で死んだ仇に冷たい視線を送った元親は、恨みを晴らせない不燃焼な気持ちが渦巻いていたことだろうと、報告を聞いた政宗は思った。
前田もとうとう武田に敗れたところをみると、すでに向こうにも情報がもたらされたのだろう。
降服したか、士気が下がったところを看破されたか。
東国に意識を持っていきながらも、政宗の視線は瀬戸海の向こうへと定まったまま動かなかった。
――時間が無い。
織田を追って北上した長曾我部より、大阪付近で戦っていた伊達の方が港に近い。だが政宗が今から行く場所は、海を渡った向こうの国の、更に端の方だ。しかも長曾我部の本城が近い。最悪の場合、鉢合わせになるかもしれなかった。
けれど、迷いはない。
真実をこの目で確かめなくてはいけないのだから。
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(2006/11/25)
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