肆:回り始めた物語 -1-
戦はすぐに終わる。
終わらせて、やる。
心にそう決めて、元親は四国から出陣していた。
本当ならば一刻一秒でさえも、元就の傍から離れたくなかったのだ。――離れたくないというには、少し語弊がある。要は己の五感が届く場所にいないと、元親が不安で仕方が無いのだ。
目にしていないとまた消えてしまう。手が届かなければきっと救えない。声が聞こえなければ身体が震える。
それは全て、自分のためだと元親は深く認識している。
どんな相手であっても、信念を伴わない利己的な考え方には反吐が出た。だが今の自分はどうなのだろうか。信念や志などはまるで関係なく、私利私欲のために元就を追い詰めて縛り付けているのではないか。
陣を布いた山から攻めるべき敵を見つめていた元親は、ぐっと拳を握り奥歯を強く噛み締めた。
彼とて分かってはいるのだ。このままではいけないのだということに。
元就を求める恋しい気持ちは軋んで歪み、既に異形な姿に変貌している。一方的な感情を押し付け、その枠に相手を嵌め込み、動けなくなったものを箱に閉じ込めて大切に抱く。
こんなものが、綺麗な想いのわけがない。
こんなもので、彼を壊わしてはいけない。
理性は承知しているはずなのに、元親は己が得てしまった一番安心できる場所から動くことはできなかった。
失うよりは。失ってしまうよりは。
――醜いままでも、構わない。
「魔王も覇王も消えちまえばいい。俺からあいつを奪おうとする奴は全部」
瞑った瞼から解放された一つ目には、かつての煌く雄大な海を思わせる青は既に無く、ただ冷めた色を灯した蒼がある。
知る人が見れば、その眼を氷だと評するだろうか。それはかつて、元親が嫌った元就の瞳と同じ色彩。大切なもののために心を凍らせた、寂しそうにも見える目。
元親は、元就と血判を結んだ日に決意していた。通り名のように心身共に鬼となろうが、妖になろうが。
もう誰にも、元就を渡さないと。
織田と豊臣の攻防は近畿各地に戦を飛び火させ、京の周りは俄かに騒がしくなっていた。
東側にいる前田は武田と小競り合いが続いており、救援には来られないらしい。むしろそこを突破されてしまえば、甲斐の虎がこの乱戦に乗じて上洛を果たしてしまうことはどの陣中でも暗黙の了解だった。
前田は援軍には来ない。それだけは確実だと分かっているため、長曾我部・伊達連合が狙う織田本隊への攻め込みの軍議はすぐに終わった。
援軍に来ないとはいえ、いつ武田が看破して来るかは分からない。または戦況が一転二転と変化して、前田がもしかすると武田を打ち破るかもしれない。明智を竹中が、織田本隊を豊臣本隊がぶつかり合っている今、とにかく短期決戦を挑むだけだ。
「正面からは戦えねぇのは百も承知だ。乱入するとなりゃ、さっさと敵将の首を貰うだけだ」
「Oh……楽しみがないねえ」
いつになく真剣な表情で地図を見下ろしている元親に、政宗は軽く肩を竦めて見せた。
二人とも好戦的な性格であるため、戦いを楽しむ節がある。天下の大勝負に乱入するのだから、当然政宗はそれなりに暴れ回るつもりだった。
だが元親は、すぐにでも戦を終わらせたいようだった。微かな焦りが何となく伝わってくる。同時に、織田に対する憎悪にも似た感情が燻っているのは気のせいだろうか。
政宗は以前から元親の様子が可笑しいと察していた。
全ては中国が滅んだあの日から。厳島で出会ったという、毛利元就が消えてしまった時からだ。でなければ元親が、友好関係であったはずの織田に対して、これほどまでに憎しみを抱くだろうか。
元親から受け取った文の中に度々現れた、中国の守護者の名。彼はどんな想いを抱いて、いつもその名を書いていたのだろうか。
元親の話を聞く度に興味が湧き上がり、政宗は一度だけ毛利領へと出向いたことがある。
最初は単純な好奇心だった。西海の鬼があれほど気にかけている相手は、冷血で名高い知将だ。仲間を第一に考える元親とは相容れるはずのない存在。寧ろ嫌悪の対象になっていたはずだった。
それなのに元親は戦に決着も付けず、かといって同盟を組もうともせず、瀬戸内の向こう側に想いを馳せてばかりいた。
毛利元就は如何なる人物か、政宗が詮索したくなるには十分な理由だった。
厳島に参拝するという名目で瀬戸海を訪れた政宗は、偶然同じように島に来訪していた元就を見ることが叶った。
たおやかな姿は公家を思い起こさせ、彼の高貴さをまざまざと見せ付けた。だが軟弱な貴族では決して得ることの無い鋭い眼光が、冷たく海を睨んでいる。誰も寄せ付けないような、清廉な刃を思わせた。
政宗は感じた感覚に、胸を震わせていた。それは同族を見つけた時の喜びに近いものだったかもしれない。
――わざわざ巣穴から出てきたのか、独眼竜。当主自ら敵情視察とは、伊達はよほど人手が足りぬと見えるな。
気付かれていたことにさして驚きはしなかったが、その惹き込まれそうになる琥珀の瞳に直視されて、不意打ちのように鼓動が跳ねたことを覚えている。玲瓏な声音は静かだが十分威圧的だった。だが、そんなもので怯む政宗ではない。
――あんたが噂の毛利の守護者かい。敵情視察とは言ってくれるねぇ。俺は宣戦布告をしに来たんだぜ?
挑戦的な笑みを返せば、元就は政宗を嘲笑った。
底冷えする光が、瞳の奥から刺してくることに政宗は気付いている。毛利は天下に興味はないが、自国を侵そうものならば容赦ないという噂は違わぬようだ。
――竜如きに、我が国が喰らえるか。
彼はそういい残し、船を出して行ってしまった。
細い背中を見送っていた政宗は、上等だと口の端をつり上げる。
短い会合は、潮騒と共に彼の中に何かを生み出していた。
元就と直接相対した元親が、政宗の感じていたもの以上の感情を抱くようになったとしても不思議ではない。
もしもその情念が高まり、自覚した時に彼が喪失を体感していたのならば。想い焦がれた反動が、元親を負の感情へと走らせているのだろうか。
行方不明だと聞いた時の衝撃と落胆を、政宗自身も良く覚えている。元親が受けたものは更にそれを上回っていることだろう。
だが政宗には、傷心である元親を哀れむことよりも――はっきり言えば、敵わないだろうと軽い敗北感を少しは感じていたのだが――酷い引っ掛かりを覚えていた。
四国で見た暗い笑み。
あれは一体、何に向けられていたのだろうか。
政宗は戦前だと、頭を振って湧いてくる疑念を払おうとした。
相手が相手だ。戦力面も戦術面でも、楽観視しながら戦えるわけがない。ましてや本格的に中央の二大勢力に反発するのだ。負ければ、家が絶えることすら覚悟しなければならない。伊達を守る者として、それだけは避けたい。
気を取り直して顔を上げた政宗だったが、地図をじっと見下ろしていた元親の横顔に思わずぎくりとしてしまった。
政宗とは逆側の隻眼が、どろりとした黒い焔を抱いていた。その表面は何の表情も窺えない無慈悲な氷上のようで。
元親の、引き攣るように嘲笑う口元が視界の端に映る。嫌な汗が額に滲んだことを感じながらも、政宗はただ黙っていることしか出来なかった。
流動的だったはずの海が、凍りついている――。
そうまでして、元親は一体何を望んでいるのだろうか。
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(2006/11/22)
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