参:蒼穹の狭間 -3-
――視線で殺されるというのはこのようなことを言うのだろうか。
信親は父の冷たくも獰猛な瞳に、本能的な恐怖を感じ取っていた。今までこんなにも憎悪に満ちた視線を投げられたことは無い。
鬼、だ。
皆が恐れる父の異名に納得してしまい、信親は逃げ出すという選択を完全に放棄した。
「何をしていると聞いたんだ。答えてみせろ、信親」
再び元親の声音が降り注ぐ。
尋ねながらも元親は扉をしっかりと閉め、大股で室内を横断した。着いた場所は見るまでも無いだろう、唯一僅かに明るさを保つ縁側だ。
元就は相変わらず虚ろな横顔だったが、信親のことを忘れたかのようにじっと元親の挙動を見つめている。
どうにか声を出そうと信親は口を開くが、言葉が出ない。何を言えば最良となるのか、聡明な信親にも全く分からなかった。
信親が戸惑っている間に、破裂音にも似たような乾いた響きが縁側から聞こえた。俯きかけた顔を慌てて上げた先には、恐ろしい光景があった。
「お前が引き込んだのか元就? 俺以外を見たのか?」
信じられないほど淡々としながら、暗い笑みを浮かべている元親の様子に、信親は声も出ない。
抵抗もしない痩身の相手に、躊躇することなく手を上げている。女子供を苦手としながらも、不器用な優しさを持っているような父が。
そんな父が、信親の目の前で容赦なく元就を叩いていた。
思わず噛み締めた唇から血が滲じみ、見開いた瞳は瞬きを忘れる。くぐもった呻き声が漏れ、自失しかけていたようやく信親は正気に戻った。
ぐったりと身体を弛緩させた元就は、胸元を元親に無理やり引っ張り上げられている。無表情の隻眼が、歪んだ青白い顔をしばらく眺めていたが、部屋の中に敷かれっ放しだった布団にそのまま物のように投げた。
「お止め下さい! 何故このようなことをなさるのですか」
あまりの痛々しさに信親は声を荒げた。人形のようにされるがままの元就も、獣のように荒ぶる元親も、そのどちらもがまともに直視することが出来ない。
元親は少なからず鬱憤を晴らしたのか、横たわる元就を見下ろしただけでそれ以上は何もしなかった。
微かに冷静になったらしい父親の視線に気付き、信親は身体を強張らせる。言及しているのだ。隠し事や嘘を言っても無駄だと言わんばかりの鋭い眼差しに、信親は思わず平伏した。
「勝手に入った私が悪いのです。その方はただ、お座りになられていただけで……」
きっと他の誰かであれば、元就は振り返りもしなかったろう。だが彼は、元親が部屋に訪れたのだと信じていた。返ってきた声が似ているのに少しばかり違ったため、純粋に驚いていただけだ。現に元親が部屋に入ってくるなりに、元就は彼ばかりを見つめている。
――元就は、端から元親しか目に入れていなかったのだ。
「下女達には何もなさらないで下さい。罰は、私が受けます故」
信親は自分の言葉が言い訳めいているということを感じつつも、これで真実だけを並べているのだから仕方が無いと諦めた。ともかく、非が自分以外に飛び火することだけは避けたかった。信親は深く頭を垂れ、何卒、と繰り返す。
沈黙を保ったまま元親は息子を見ていたが、しばらくすると重い溜息を吐き出した。
驚いた信親が顔を上げると、元親が部屋の隅から木箱を持ち出してきた。未だに蹲ったままの元就の傍まで近づき、腰を下ろす。唖然とそれを見送っていた信親を手招きし、元親は木箱の引き出しから薬と包帯を取り出す。
「……水と手拭いを貰って来い」
おずおずと近づくと、元親はぽつりと呟いた。
怒りを買うだろうと覚悟していたため呆気にとられたが、これ以上機嫌を損ねるようなことをするわけにもいかず、信親は慌てて廊下へと出た。
程無く帰って来た信親は、きちんと布団に寝かされている元就の髪を撫でている父の表情を見て言葉を失くした。
彼は優しく笑っていたのだ。
凄まじい豹変振りに、信親は思わず後退りしそうになったが、意を決し進み出る。元親の隣に座り、水に手拭いを浸して絞る。
言わずとも望んでいる行動を先に読んでくれる信親に、元親は困ったように笑んだ。出来た息子だと、彼はいつでも信親を誇りにしていた。何でもそつなくこなす息子に、少しは手を焼かせてくれと言っていたのはいつのことだろう。
普段と変わらない様子で豊かな感情を見せる元親は、尊敬する父に相違ない。
――だからこそ余計に空恐ろしかった。
信親は手拭いを元親に手渡した。元就の腫れた殴打の痕を冷やすのだろうとは分かっていたが、きっと自分が触れたのならば彼は激怒する。
差し出された手拭いを無言で受け取り、元親はそっと元就の頬にそれを当てた。その動作は、まるで愛しい者を慈しむように柔らかかった。
「ごめんな、元就。お前は俺の帰りを待っていてくれたんだろう?」
にこりと元親は隻眼で微笑んでみせる。真っ黒な感情を映し出し、無表情で佇んでいた彼とは別人のようだ。
元親に見つかってから始終青褪めていた信親は、枕の上で亜麻色の髪が上下に動いたことを見て、ますます血の気を退かせた。元就はまだ思考がおぼつかないのだろう。ぼんやりとした瞳が、それでもやはり元親を納めたままじっとしている。
彼が何をされたのかは、先程の凶事から薄々察すことは出来た。だが、ただの暴力だけで屈する人ではないはずだ。誇りを穢されるのなら、家の足枷となるのなら喜んで死を選ぶような人だった。
それに目の前で見詰め合う二人の間には、そんなものを軽く超越するような何かがあると感じるのだ。
嫉妬交じりの罵声を浴びせ、今はこうして優しく寄り添う元親。
空気に解けてしまいそうなのに、元親から目を逸らすことを決してしない元就。
――どうしてだろう。
対照的であるのに何処か似ている二人のあり方に、急に哀しい気持ちが込み上げてきた。
「信親も、すまなかったな」
不意に話しかけられ、信親は視線を横へと転じた。
自嘲を浮かべながら元親が頭を垂れた。予想外の言葉に、どぎまぎしながら信親は再度謝った。
「いいえ。私の方こそ差し出がましい真似をして」
「咎めは無しだ――が、口出しは一切するな。これは俺の問題だから」
突き放すように言った元親は、信親の中に湧き上がっていた奇妙な感情をそのまま映したように、哀しそうに笑ってみせた。
元就の頬に当てた手拭いを何度か冷やし直しながら、嬉しそうに世話を焼いている。
甘んじて受けている元就も、笑うことはなかったが緊張している様子もなく。静かに時が過ぎていく。
それは言葉を交わさない拙い睦言のようで。
嗚呼そうか、と信親はこの部屋に来て半刻ほど経った今ようやく納得できた。
ここにあるのは歪んだ愛の形。傷つけ合った果てに生まれてしまった、物悲しくも離れがたい絆なのだ。
執拗でありながらも脆くて幼いその絆が、いつ壊れてしまうのか怖くて仕方が無いのだと、少なくとも元親はそう思っている。だから不安を拭おうと、必死になって暴れてしまうのだろう。臆病を隠す、子供の癇癪のように。
「追求は致しませぬ。ですが、後悔はないのですか」
止めることは叶わないだろう。元親も元就も、引き返せない一線を既に越えてしまっている。
だから信親が一欠けらの望みを託して言い募るものの、答えは覆るはずもない。元親の決定に、信親は息子として家臣として頷くことしか出来なかった。
その気遣いに申し訳なく思ったのだろう。元親は、ありがとう、と小さな呟きを返した。
「……一つだけ、お前に頼みたいことがある。共通の秘密を抱える度胸がお前にはあるか?」
真っ直ぐと己を見つめてくる鬼の隻眼に、信親は頷く。
織田と開戦するという話は既に耳にしているし、城に同盟国である伊達が来訪したということも無論知っている。
島国であることから比較的に平和な四国だが、魔王に掌を返せば戦火が散らばる危険性も十分考えられる。何しろ、まず長曾我部の当主である元親自らが本州へと出陣しなければいけないのだから、嫡子である信親には国を支えて軍の後詰を送るという大事な役目がある。
言われなくとも、自分に課せられる使命を彼は知っている。
留守役の大義を任されるということは、すなわち四国に居残るということ。
元親が言っているのは留守中に攻められることの憂いではなく――無論、国主として考えていないわけではないだろうが――置いていかなければいけない元就のことだろう。
肉親であっても、自分以外の他の者の前に晒されたことで自分を見失っていた元親だ。決して連れて行こうとは思わないはずだ。元就は織田との戦いで行方不明になっている。再びそのような戦場に赴かせることを、断じて許すはずがない。
「別邸にはもういられないだろう。今日みたいなことがまたあれば、俺はきっともっと酷いことをしちまう」
利き手を見下ろしながら元親は呻くように零す。
自覚はあるのだ。だが衝動に逆らうことが、元親にはどうしてもできない。
信親は深淵に片足を浸しながらも、人として性を捨て切れていない父親の姿が切なく思えた。自分にしてやれることは多分無い。元親が、そして元就が動こうとしなければ、永遠に平行線のままなのだろうと無力感に襲われる。
それでも出来ることがあるというのなら、それは。
「分かりました。海岸沿いに昔頂いた私の別荘がございます。そちらで構いませんね」
二人に、時間を与えてやることだけだ。
+ + + + + +
瀬戸内の海とは逆側の海岸に、元親と元就は連れ添って立っていた。
それを遠くで信親は見ている。楽しげに話している元親と、詰まらなさそうにしていながらも耳を傾けている元就の声が波音に混じって聞こえてきた。
「どうだ? 瀬戸内もいいけどよ、俺はこの何処まで続いているか分かんねぇ海も好きなんだ」
「無駄に広いな。外つ国はどれ程遠いのか」
青い海と青い空に挟まれた二人。
きっとこんな時代でなければ、違う形でこんな穏やかな会話をしていたことだろうに。
それでも、信親は黙って彼らを見つめ続ける。
己の義務だと言わんばかりに、戦地に赴かなければいけない父の背を、外に出られたというのに自らを囲む檻へと戻らなければいけない父の想い人の背を、焼き付けるように眺め続けた。
雁字搦めの鎖で繋がっているはずなのに、別れを不安がっている二つの背中が悲しく思えたから。
蒼穹の狭間で信親は祈る。
たとえ今は、このような道を選ばなくてはいけなくとも。
いつか、しがらみを解いた二人が隣合って笑っていますようにと。
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(2006/11/01)
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