参:蒼穹の狭間 -2-



 信親が別邸へ足を運ぶこととなったこの日、ある男が四国に来訪していた。
 東北の英傑、東の風雲児などと呼ばれ、同じく北の王者である越後の龍と肩を並べるもう一人の竜――伊達政宗である。
 元親は彼を相手に一度戦を仕掛けたことがあるが、似通った者同士で気が合うことが分かり、以後は遠方ながらも交流があった。
 中央に居座る魔王の脅威があちらこちらに飛び火する最中、こうしては当主自らが遥々四国にやって来てくれるのは奇跡にも近い。
 最も政宗の場合は、自分から動かねば我慢できない性質なだけだが。
 四国へと辿り着く間に上方の情勢も見られて一石二鳥だろう、と飄々と告げた政宗に、お目付け役の小十郎は頭が相当痛い様子だ。そうやっていつもながらの調子で城を訪れた政宗に、思わず元親の方が苦笑を浮かべてしまう。

 部屋に通された政宗は、本題に入る前にと前置きを置いた。
 二つの家の当主だけがいる室内には、奇妙な空気が漂っていた。久方ぶりにあった悪友同士の打ち解けたものではあるのだが、その影でうっすらと緊張感がなりを潜めている。
 元親は内心でそれを不思議に思っていた。戦続きで流石の独眼竜も苛付いているのだろうかと勘繰ってみるが、何となくそういったものとは違うようにも感じられた。
 そうこうしているうちに政宗が口を開いた。

「豊臣が織田を攻めたぜ」

 簡潔に告げられた言葉に、元親は瞠目する。
 中国を落とした織田軍が、取って引き返した理由はそこにあるのだろうと納得した。四国や九州を狙うよりも、足元である大阪からの攻撃に備える方がよほど大事だ。東側は乱戦状態であるから、西の軍をそちらに当てるしかない。元就の生死がはっきりと分からないままであるのに、あの疑り深い魔王が全軍を呼び戻したほどだ。豊臣の兵力も並ではないのだろう。

「とうとう覇王が魔王に喧嘩を売ったのか。上方も大変だな」
「東側もそのせいで兵士の士気があまり上がってなかったみたいだしな。今が好機じゃないのかい?」

 性質の悪い笑みを浮かべた政宗は、懐にしまっておいた書状を取り出す。
 織田と開戦だろうと考えていた時から、元親は政宗に手紙を送ろうと決めていた。同じように天下を見つめ、同じように外の世界へと目を向けているだろう相手だからこそ、自分の考えに同調してくれると踏んでいたからだ。

「挟撃の策、のってやるぜ」

 政宗は面白げに笑いながら、期待を裏切らぬ良い返事を返した。
 心強い返答に元親も自然と笑みを浮かべる。だが、それもすぐに潜められた。
 待ちに待っていた同盟の承諾の言葉。なのに、心底から喜べないのは我侭なのだろうかと自問する。
 瞼を下ろすと蘇るのは、冷血な眼差しで己を見下していた一人の男。


 ――きっと自分は。

 ――元就に、頷いて欲しかった。


 脆い紙切れの約束じゃなくて。愚かな暴力の束縛じゃなくて。家のためや利益のためだとかは関係なく、彼自身の意思で頷いて欲しかったのだ。
 そうすれば――こんな醜い己に気付かずに、彼の隣で笑えていただろうか。
 自嘲を浮かべたまま黙り込んだ元親を、そっと横目で政宗は見ていた。
 勘繰るように左目を細めて見るものの、相手は気付かない。
 同盟を組もうと言い出される以前、元親から受け取った文は何とも不安定な様子を醸し出していた。
 闊達な小気味の良い字体は読んでいても楽しいものだったが、それはある日を境に一転していた。その契機であった手紙を政宗は鮮明に記憶している。決して流麗とは言い難い文字だが伸びやかだった元親の言葉が、まるで何かに憑かれたかのように乱れていた。綴られる内容も、めでたいことなど一つも書かれていなかった。
 そして入れ違いのように、織田が毛利を落としたと報告が飛び込んできたのだった。

「Hey, 元親。中国の毛利がどうなったか聞いているか?」

 黙ったまま畳みを見つめていた元親が、はっと顔を上げた。焦燥の色が見え隠れする鬼の表情に、政宗の眉が顰められる。
 話しかけられた元親は、自分が今考えていることを読まれたのかと、内心冷や汗をかいていた。
 だが政宗が真相を知っているわけもなく――元親の反応に疑念を抱きつつも――言葉が続けられた。

「織田に攻められたのに首が上がっていないらしいな。離散した毛利の者達も見つかっていないようだったが?」
「ああ。残党狩りはしていたようだが、さっさと東に退いちまった。詳しくは俺にも分からねぇ」

 頷きながら元親は答える。
 中国は何万もの兵士が死に耐え、焦土と化しているところを確かに見ている。しかしそこまで攻め立てられたにも拘らず、上がっている御首の数が圧倒的に少なかった。
 きっと元就の功が成されたのだろう。負けると分かっている戦でも、彼は国を守るために諦めなかった。毛利の一族とそれに連なる重臣達を早々野に放ち、後の憂いを無くして戦いを挑んだはずだ。
 本当の彼は、そんな優しい人だったはずだから。
 ――だから、嘘を付いた。
 もう誰もお前を必要とする者はいないと。自分しか、いないと。
 残酷な刃物となる言葉を浴びせ掛け、作り上げた茨の檻の中に強制的に閉じ込めた。誇り高い彼が自害を企てようとするほど、それは酷く苦痛だったのだろう。
 それでも、誰の物にもならないと言い切った真っ直ぐな瞳が怖くて、自分を見てくれない目が悲しくて、先に耐え切れなくなったのは元親だった。
 湧き上がる激情の根にあるものは、いつだって喪失の恐怖。自分しか鍵を持っていないはずなのに不安で仕方がなく、鋭い眼光を失った元就に拙い制約を交わさせた。

 本当のことを伝えてしまえば、きっと元就は何の未練も無く毛利の鎖に囚われることを選んでしまうだろう。お前の守った人々は生きている、お前の愛したものはまだ残っていると言ってしまえば、ようやく掴めた手の中から容易く抜け出して行くだろうから。
 今の元親を最も震えさせるのは、元就がいなくなること。
 毛利の者達が生きているとなると、元就を取り戻しに来るかもしれない。彼らが生きていると知れば、去って行ってしまうかもしれない――。
 そんな不安がいつだって拭いきれず、元親の胸の奥を曇らせていた。魔王に反旗を翻す覚悟は出来ても、元就を失う覚悟だけはどうしてもできないのだ。

「……What do you conceal」

 歯切れの悪い元親をどう思ったのか、政宗は不意に長い異国の言葉を口走った。
 独り言の呟きに近かったのだろう。発音の早さに元親は首を微かに捻るばかりで、理解は出来なかった。
 それで構わなかったのか、政宗は肩を竦めて見せた。それから控えの間へと続く襖を開け、小姓に小十郎を呼ぶよう伝える。
 雑談はここまでだと語る背中に、元親もまた沈んでいた思考を引き上げさせる。肝心の挟撃についての詳細を決めなくてはいけない。これから戦が始まるのだから。
 ――元就を殺させないための、戦が。

 政宗のせいで不安を煽られたためなのか、元親は一刻も早く元就の部屋へ帰りたかった。
 視界に入れて抱き締めて、確かにそこにいるという体温を感じたい。琥珀色に輝く宝石が、自分を映しているのだと確かめたかった。
 目の前に座する竜は、それは偶像に過ぎないと手酷い諌言をするのかもしれない。元親はそれでも構わなかった。彼にとっては今この瞬間に、元就が手の中にいるという事実だけが本物だったから。
 元親の浮かべた暗い微笑みを、振り向きざまに見た政宗は静かに顔を伏せた。
 僅かな静寂の間に、小十郎の足音が響く。再び見やれば、元親は小十郎を連れてきた小姓に茶を持ってくるよう言い付けていた。
 何事も、なかったように。



 政宗一行が帰った後、元親は単身で馬を走らせ別邸へと急いだ。時間が経てば経つほどに、胸に燻る闇が大きく育っていた。
 元就がいなくなっていたのならどうしよう。また舌を噛もうとしていたらどうしよう。自分を見なくなっていたら。本当の意味で、壊れてしまっていたら――。
 根拠が何かあるわけでもない。なのに元親は元就のことを信じきれてはいなかった。
 ――違う。自分自身を、信じきれていないのだ。
 大丈夫だ、平気だ、自分は彼を守れるのだと、少しでも言い聞かせれば良いのにと思う。それでも、元親はそうすることが出来ない。
 元就と初めて出会った時も、彼の真意を知りもしないのに理解したつもりで傷付けた。次に精神的にも肉体的にも暴力を揮い、結局は醜い本能に従って白い肢体を蹂躙した。彼の前では常のように飄々としてはいられなかった。
 己の中に住む鬼という名の獣の存在に、元親は元就の側にいても良いのだろうかと幾度も幾度も自問する。対する答えはいつだって、闇夜の中にあって見つからないまま。傍らにいてはいけないという答えに行き着くことに怖がって、わざと見ない振りをしたまま。
 だから己こそが一番信じられなかった。

 こんなにまで身勝手な存在を、元就には知って欲しくないと願うこともまた罪だろうか。
 それでも元親は離れることが出来ない。放すことは、出来ない。
 誰が見ても異常だと後ろ指を指すだろうが、信用できない己の中でたった一つだけ揺るがないものがあるから。
 彼が愛しいという想いだけは――その想いだけは、真実なのに。


 別邸の下女達に教えられた事態に、元親は芯が冷えていく気持ちだった。
 馬から飛ぶように降り、通い慣れた屋敷の道を殆ど駆けるように足早に進んで行く。暗い部屋から声がした。自分以外の声。泣く事を堪えているような、若い声が。

「何をしているんだ、信親」

 閉められていた扉を音も無く開き、声を紡ぐ。やけに落ち着いた口調の中には、どす黒い感情が渦巻いていた。
 顔色の悪い元就の呆然とした目が、元親を映した。昨夜、平手を打ったせいでまだ炎症を起こしているらしく、肩頬は赤い。自分の残した痕を眺め確認すると、元親は入り口の側にいる息子を見下ろす。
 蒼白になった信親が、そこに佇んでいた。



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(2006/10/31)



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