参:蒼穹の狭間 -1-





 蒼穹の狭間に映し出された二人の背中は、何故だか哀しく見えた。
 本当にこのままで、彼らは幸せなのだろうか。ただそれだけが、信親の表情を曇らせていた。
 二つの人影は別れて行く。片方は戦場へ。片方は檻の中へ。
 ――嗚呼、どうしてこんな道しか選べなかったのですか。
 信親は黙って離れて行く人へ、声にならない言葉を投げかけていた。
 空が、海が、不釣合いなほど眩しかった。




 + + + + + +




 元親が別邸へと頻繁に立ち入っているという話は、下女達の噂で最初に耳にした。
 身寄りの無い知人が病にかかり、世話をするために屋敷に住まわせているのだと彼女らは言っていた。本当は殿に口止めされているのですが、と前置きまで添えて。
 溺愛している息子であり、世継ぎでもある信親だからこそ彼女達は教えてくれたのだろう。

 一番奥の薄暗い室。父親の知人が住んでいる場所は、客室としてはあまりにも不釣合いだった。
 日陰が覆うこの一角が夏の穴場なのだと、以前父は笑いながら自分だけに教えてくれた。だが別邸に向かうこともこの頃少なくなっていた信親は、その部屋の存在を忘れかけていた。
 たまたま屋敷の側で下女達の話を聞いたため、知人の方に挨拶でもしておかねばならないだろう、と生真面目に思っただけだった。
 一応は元親の所有であるとされている屋敷だが、昔から長曾我部家の別邸である。上がり込んだ信親を咎める者はいない。
 日差しの入らぬ室内は予想通り薄暗く、曇りの日であれば更に深い闇に落ちているのだろう。昼だから明かりを灯していないのだろうが、一日中このような場所にいれば治る病も治らぬのではないかと、信親は眉を顰めた。
 世話人も最低限の出入りしか許可されておらず、部屋の主とは話したこともないそうだ。
 姿を見たのも最初に元親が客を連れてきた時だけで、本当に部屋の中に住んでいるのかは、頻繁に訪れる元親を介してでしか察することができないらしい。
 暗い部屋を目にした瞬間に、それを思い出した信親の背筋を薄ら寒いものが通っていった。

 織田が中国を滅したという話を聞いてから、父はずっと可笑しい。
 一時期は自暴自棄となっていたのは、以前開戦したことのある毛利がいなくなってしまったのだからだと信親は感じていた。
 幻想的な厳島の神殿で、元親は敵の大将に熱心な言葉を語りかけていた。それが、冷血で有名な毛利元就であったということは知っている。真剣な眼差しで叫ぶ父の声音は、まるで慟哭のような気がしていた。
 信親は元親が荒れた訳を何となく理解できた。
 きっと、もっと彼と話したかったのだ。別の道もあったはずなのに、二度と会うことなく潰えてしまったことを後悔していたのだろう。

 だから、不気味だった。

 視察を理由に中国へと足を運んだ元親が、憑き物が落ちたかのように本来の大らかな男に戻っていた。皆が口を揃えて良かったと言う中で、信親だけが腑に落ちない気分に陥っていた。
 それはまるで、嵐の前の静けさに良く似ていて。
 船上で風が突然凪いだ時のように、不安感すら込み上げてきていた。
 その静寂の正体だけが不鮮明であったため、信親も下手な発言も出来ず、今日までを過ごしてきたのだが――。
 直感的に、この部屋にいる――意図的に隠されている客人が全ての起因なのではと感じていた。


 見開いた視界には、殺風景な室内が広がっていた。
 敷きっ放しの布団。几帳面な文字で綴られている写経の跡。重ねられた書物。微かに香る墨の匂い。
 別段可笑しな所は無い。
 彼はそっと足を踏み入れた。開いてしまった扉から引き返すことは出来ない。
 奥から陽光が僅かに差し込んでいる。縁側に続く障子は開かれていた。信親は四角く切り取られた淡い光の中に、薄く伸びる影があることに気付いた。
 薄い気配を纏い、柱に寄りかかりながら座っている人の後姿だった。ただそこにいるだけのように座する背中。
 確かに生きているだろうに。これでは、まるで。

「……元親?」

 佇んだまま動けなかった信親は、重く絡みつくような空気の中で初めて人の声を聞いた。久方ぶりに喋ったのだろうか、乾いた声音は擦れていた。
 聞き覚えのある声音に身体が硬直する。
 振り返らずに淀みなく呼ばれるということは、どれだけこの部屋に自分の父親だけが出入りしているのかを知らしめていた。
 縁側の後姿は返事が無いことにも頓着せず、ただ視線を外へと這わせている。
 何をしたのだ、と信親は憤りにも似た感情を覚えた。
 否、それすらも通り越して、言い得ぬ虚しさと悲しさを感じていた。
 ――何故、元就公がここにいるのです。
 ――何故、こんな御姿をなさっているのですか。
 その問い掛けは、目の前の人に対してなのか。ここにはいない肉親に対してなのか。
 信親は堪らず俯いてしまう。過ぎる記憶は、厳島で出会った冷徹な智将の姿だった。

 苛烈な言葉。朗々と通る下知。冷めた視線は敵を見据え、倒れた亡者には罵りを吐き捨てていた。
 父親について前線へと出る信親は、無論その辛辣な響きを聞いていた。思わず自身の耳を塞ぎたくなるほど、敵軍の死に際の叫びが哀れに思えた。
 白磁の端整な顔付きは、冷笑を浮かべて全てを見下していた。人を駒としか捉えていないような瞳が、恐ろしかったことを覚えている。
 けれど、それ以上に印象的だったことがあった。
 斬った将が零した言葉は、決してその人を賤しめるようなものではなかったということ。
 そして自由奔放である父が。自分の生き方に口出しされるのを嫌うように、他人の生き方に口を挟むことの少ない元親が。まるで己のことのように苦しげな表情で、血を吐くかのように懸命な言葉を投げかけていたことが鮮明に刻まれている。

 毛利元就という人は、信親から見ればそのような不思議な人だったはずだ。
 だからこそ柱に力なく寄り掛かっている儚い背中とは、うまくは結びつかなかった。
 凛と立っていて、毛利の家紋を背負って、死体の山の上で他人を見下しているのが元就だった。暗い部屋に閉じ篭っている病人などではないはずなのに。
 だが誰の聴覚をも攫い取ってしまえるようなあの声だけは、確かにまだそこに、ある。

「何が、何があったのですか」

 喉元が震え、無意識の内に声が出た。
 一度決壊してしまった音の羅列は止める術も無く、唇から紡がれていく。上擦ったようなそれが情けなく、今の自分がどんな感情に突き動かされているのか分からず、少しだけ信親は泣きたくなった。

「貴方と父の間に、何があったというのですか……」

 元親だとばかり思っていた元就は、久方ぶりに聞いた若い青年の声に背筋を強張らせた。
 恐る恐る振り向く様子は、やはり自尊心が高かった毛利の総大将だとは思えない。
 しかし信親を裏切るかのように、視線の先の相手の顔は見知った者で。健康とはいえない青白い頬が、僅かに赤く腫れていた。
 呆然としている双眸を見つめ返すことが出来ずに、信親は頭を垂れた。細い手に巻かれている新しい包帯が視界に飛び込み、自分の眉間に皺が寄ったことを感じた。



「何をしているんだ、信親」



 項垂れていた信親の背筋に戦慄が走った。
 気配に気付けなかったことよりも、呼んだ声の低さに反射的に身体が強張ってしまう。
 城で大事な会合があったはずだが、予定の刻限よりも随分と早くに切り上げてきたのだろうか。それとも隠していた客人を係わり合いのない第三者に見られたことに、胸騒ぎを感じてきたのだろうか。
 言い訳めいた考えばかりが浮かび、信親は決して疚しさを持ってこの部屋に訪れたわけではないはずなのに、自身が罪人のようにさえ思えた。

「――親父殿」

 焦りと怒りで目元はつり上がっているというのに、不気味なほどの静けさを保ちながら元親が確かにそこにいた。



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(2006/10/23)



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