弐:頼り無い誓約 -3-
一通りに食い尽くされた後、ぼんやりと元就は天井を見上げていた。
夜半の時刻。室内には、先程元親が灯した炎が一つだけ点いている。弱い光が一層闇を濃く深く見せており、自らが殺した亡者の群れに縋られる夢を思い出させた。
目が覚めるたびに、彼らはもういないのだと自覚する。自分が見殺しにしたせいだ。
元親に犯された最初の日、彼が言っていた言葉は毒のように今となって全身に回ってきたようだ。
自分は一人。
夢を見た時から、冷たい指先を突き付けられたような気がした。
かつて戦場で似たようなことを言った元親は、少しばかり哀れんだような視線で元就を見ていた。子供のように無邪気に感情を露わにしている彼が、耐えるような悲しい眼をしていたことは覚えている。
あれからどれ位経っただろうか。
元親は同じことを言うけれど、浮かべる表情は狂気と虚無の狭間の笑顔ばかり。泣きそうに歪んでいたり、苦しげに翳りを背負っていたりする無表情な隻眼。
霞むように脳裏に過ぎるのは、もっと明るいもの。それはまるで――太陽のような。
「珍しいな。まだ起きていたのか」
つらつらと取り留めなく漂わせていた意識を、男の声が現実へと引き戻した。
元親は明かりの側で何かを書いている。いつもなら元就が使っている卓の上で筆を真剣に走らせている。
どうしても終わらない仕事が残っていたのだろうか。元就を閉じ込めている部屋に来る際には、必ずといっていいほど政治的なものを――寧ろ、他人という存在を感じさせるもの全てを――持ち込まない彼が。
珍しいこともあると、元就は思っていた。そんな相手に急に話しかけられて、僅かばかりに瞠目する。首を巡らせてみると、元親の背中が目に入った。細く薄く、およそ前線で戦うには恵まれていない元就の身体とは正反対の、誰かを守れる逞しい背中。彼はそこに元就が守れなかったものを、本当なら守ってやりたかったものを、一つも零さずに背負っている。
羨ましいと、出会った時には思っていたのかもしれない。
彼の言葉はどこまでも正論だった。強ければ当然出来るはずのことだった。
だが脆い己を自覚していた元就は、全てを凍えさせることでしか自身と周りを包むことができなかった。掌から溢れてしまうものは一切切り捨てて、中心で抱えていた毛利という居場所を必死で失わないように駆けていた。
元親は違う。違うからこそ、持つことを許されなかったあの笑顔に惹かれた。
そう――惹かれていた、のだ。
何とも遅い自覚だ。元就は唖然として、元親の崩された足の下にうろうろと視線を這わせた。
はっきりと元親に告げられたことはない。自分のものになれ、と彼は言ったけれど、真意は定かではないと思っていた。時折戯れのように優しく触れられる手は、同時に暴力を振るう拳だった。
虚ろに自分を見つめる顔は、狂ったように笑い出す。だが、次の瞬間は正気の光が灯っていて悲しげに俯いている。
この男が分からない。分からないまま、ここまで来てしまった。
――期待することは怖い。裏切られてしまうから。
――信じることは嫌いだ。誰しも約束を破っていく。
そんな見返りばかりを求める、浅ましい自分とは違う元親は、いつだって手を広げて待っている。伸ばされる手を掴むため、常に差し出されているその手を。
取らない相手に、彼は無理強いをしない。現に元就が一度振り払ってからは、元親が積極的に関わってきたことはなかった。
なのに、自分が死んだと思ったこの鬼は――心底泣きたくなったのだと言った。
嘲笑や心を抉るような言葉を、何度も浴びせかけられた。なまじ肉体的な暴力よりも、長曾我部元親という男の声が鋭い刃物のように襲い掛かってきた。
眩しい光と伸びる影。その対比を最初のうちは恐れたが、今となってはそれも、彼を構成する一つの部位に過ぎないと判断できた。
何せ、彼の本質は以前と違わないのだ。
己の溝を飛び越えて来た、馬鹿な鬼。一度諦めたはずなのに、更に遠くなったはずの二度目も、軽く壁を越えて元就の懐までやって来た馬鹿な男。誰とも違う、学習能力の無い馬鹿な奴。
必要とされなくなった自分を見て、欲しい、とただただ切願した愚かな者なのだ。
「今夜は冷え込んでいるからな。いくら四国が温暖だからって、そのままじゃ風邪ひくぜ?」
頭だけ振り向かせた元親は、筆を置いて立ち上がった。
行為が終わって皺だらけになった布団に近づき、力が入らずに仰向けになったままの元就の肩まで掛け布団を引き上げてやる。
見上げていた暗闇の天井に、元親の銀髪が光る。相変わらず笑ってはくれない彼の白い顔を仰ぎながら、元就はされるがままだった。
「仕事か」
常なら疑問を投げることも、意見をすることも禁じられていたのだが、この日は元親に何か話しかけたい気がしていた。
もちろん、談笑など殆どしたことの無い元就は、そういった事務的な言葉しか思いつかなかったが。
外のことに気が向くと、元親は酷く機嫌が悪くなる。殴られるのだろうなと思いながらも、それでも元就は尋ねた。
「気になるのか?」
外のことが、と後に続いていたはずの聞き慣れた台詞。共に過ごすようになってから起伏が乏しくなった元親の声音は、いつだって不機嫌なように低く掠れている。高らかと、戦場で響いていたあの頃の方が好ましかった。
そうして相手の容姿だとか声帯だとか、どうでも良いものばかりを今更気にしている己に、胸の内でそっと苦笑が浮かぶ。冷静に考えれば、これは完全に恋慕ではないだろうか。
そろそろきっと拳か平手か、何かが罵倒と共に降って来るはずだ。元親の機嫌を損ねることは最近無かったため、きっと痛いのだろうなと、元就は他人事のように考えた。
だが今日は予想外なことが起きた。
「俺のことが、気になるのか?」
丸く開かれた隻眼が見下ろしてきた。
戸惑ったような表情を怪訝に思いつつも、殴られないことからよほど機嫌が良いのだろうかと元就は思った。元親は嬉しそうに、少しだけ上擦った声でもう一度尋ねた。
拍子抜けをしていた元就は切り返すことも出来ず、黙って僅かに頷いて見せる。すると元親は、ゆっくりと顔を綻ばせた。嘲りを含んだようなものではなく、照れ臭げな、むず痒いような、小さな微笑。
――太陽の下で見た、あの綺麗な眩しい笑顔の片鱗だ。
久しく目にしたそれは一切の翳りもなく、憧れ続けた強い輝きを保っていて。
大きく、鼓動が跳ね上がったような気がした。
どことなく満足した様子の元親は、再び卓へと戻った。筆を取り、やりかけていた書き物を手早く終わらせる。
互いに無言。いつだって刺すような空気が漂っていたが、それがこの一月で全く無くなっていた。
元親が元就の側にいることは当たり前だった。慣れてしまったという残酷な事実に、元就は始め恐怖した。だが、それすらもいつからか麻痺している。自覚をしてしまえばその理由も、自ずと理解できた。
こつり、と硯に筆の柄が当たり、静寂に波紋が描かれる。
元親は書きたての文字を乾かしているのか、少しだけ背筋を丸めて卓を見下ろしていた。
墨の乾く時間さえももどかしいような彼を眺め、元就は口の端を思わずつり上げた。音のない動きなので元親は気付かない。笑ってしまってから元就は、慌てて平素通りの素知らぬ顔を装った。
「元就、手を貸せ」
伸ばされた手に、おずおずと布団の中から腕を伸ばす。
温まってきていた元就の手と、外気に晒され続けていたのだろう元親の冷たい手が触れ合った。
普段ならば温めてもらう側である自分の体温が、今だけは彼を温められるのだろうかと思う。女々しい考えが浮かぶのは、惹かれているからこそか。
大人しく差し出された手を、元親は恭しく受け取った。
こういった動作が、自分を大切にしたいのだという彼からの本心を伝えてきて、元就はいつも戸惑う。
白い肌と白い肌が触れ合い、元親はそっとその親指に口付けた。指先への愛撫はされたことがあるが、こんな静謐なものとは違う。微かな驚きと共に観察を続けていると、元親は指を口に咥えた。ゆっくりと甘噛みをされ、痺れのような波を感じる。その感覚だけは情事を思い起こすもので、元就はぎゅっと瞼を瞑って耐えようとした。
次の瞬間、鋭い痛みが走り抜けた。
元親の方を見れば、彼は自身の口元を舐め取っていた。元就の指先からは緋色の雫が零れている。噛み切られたのだ。
血液が滲み出る元就の指を取ったまま、元親は空いている手を卓へと這わした。そして先程書いていたのだろう紙を、元就へと突き付けた。
「俺もこんなものは子供騙しだと思っている」
押し殺すような元親の声音は、震えているように聞こえた。
怪訝に思いながらも元就は目を凝らした。闇の深まる部屋の中、灯りに透ける一枚の紙切れを見つめる。
それは誓約書、だった。
一方的に愛を語るたどたどしい文章は、捩れた元親の狂気を表しているというのに、その裏に幼い子供のように真っ直ぐで純粋な想いがひっそりと込められている。
それすらも元就は好ましく思えた。贔屓目なのか、もはや脳内が短絡的になってしまったのかは分からない。
「もうすぐ織田と開戦する」
元就の肩が引き攣る。それは久しく耳にする戦の話だった。
毛利の地を蹂躙し尽くした、禍々しい魔王の名。脳裏に浮かぶのは泥と血と、自分の名を叫ぶ死者の群れ。
外部の情報を一切持ち込まなかった元親は、俯いた元就を見とめ眉を顰めた。
「元就は俺のものだ」
まるで自分に言い聞かせるように元親が呟いた。強い口調なのに漂う気配は不安に彩られていて、元就は思わず顔を上げる。
「でも俺は単純だから、証がなければ不安だ。いつだって形を求めている」
露呈された弱音に目を瞠り、元就はただ紡がれる声を聞いていた。
誓約書なんて紙切れ一つだ。愛を誓うための血判なんて稚拙で愚かしいと分かっている。
けれど、いくら元就の瞳に自分しか映らなくなったとしても、いつか失うのではと思うと堪らなく恐ろしい。生死という絶対的な垣根ならばまだしも――中国を訪れた日のように諦めることはできた――互いに命あるうちの別離など、考えることでさえ身体が震える。
嘘も虚勢もない悲しい言葉。好きだと言いながら、心の内で血を吐く鬼。
彼に、必要とされているのなら。
誰からも要らないのだと捨てられたこの抜け殻でも、必要としてくれるのならば。
――もうそれだけで、構わなかった。
暗い漆黒の闇に飲み込まれた部屋。灯火が落ちて、真の夜が支配する。
微かに血の匂いの漂う卓の上には、一つの書が丁寧に置かれていた。儚い誓いの言葉。赤で書かれた鬼の名と、少し字体の違う彼の愛しい人の名前。
自らの意思で押した、病んだ血判状がそこにあった。
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(2006/10/03)
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