弐:頼り無い誓約 -2-
――モトナリサマ。
(嗚呼、来ないで)
群がる亡者。泣き叫ぶ髑髏。求める不気味な黒い手。
何処までも闇だけが続いている。赤黒く染まった水溜りが足元まで浸っている。土の臭いがする。雨の匂いがする。焼けた肉の、焦げた人の、腐った命の香りがする。
――モトナリサマ。
(分かっている。知っている。だから、だから)
追ってくる声。縋る手。一層大きくなる叫びと悲鳴と嘆きと。ほの暗い、眼球の無くなった眼差しが己を容赦なく刺してくる。
――マタ、殺シタ。マタ、殺サレタ。
――貴方ノタメニ、我々ハ何度死スレバ良イノデスカ。
――我等ヲ死地ヘト誘ッタノニ、ナゼ貴方ダケガ生キテイルノデスカ!
「――っっ!」
引き攣る喉元に掻き消える悲鳴に飛び起き、真っ暗な天井を見上げる。
荒い息を吐く度に、枯れた喉が酷く痛む。起き上がれるほどの体力は残されておらず、元就は視線を隣へと這わした。
静かに眠る銀髪の男。
元就が気を失うように床についた後、元親は残滓の処理をして元就を抱き締めたまま就寝する。自室に帰ることも時々あるようだが、それは次の日に用事がある場合だけだ。
未だに荒れる呼吸を整えることさえ忘れ、元就は鬼の顔をじっと見つめた。
今ここでこの男の命を絶ってしまえば、自分は檻から抜け出せるのだろうか。
幾度も浮かんだ考えは、隙の無い隻眼に阻まれて儘ならなかった。こうして無防備に見えるこの時でさえも、元親は元就の一挙一動に神経を張り巡らせているはずだろう。
舌を舐め取られるたびに、噛み切ってやろうとした。首筋が晒されるたびに、歯を突きたててやろうかと思った。幾度もその忌々しい一つ目を抉り出そうかと考えた。
――だが。
たとえ檻を出たとしても、戻るべき場所は既に無い。探す術も無いに等しい。
織田の残党狩りの凄まじさはよく知っている。よしんば中国へ渡ることができたとしても、戦場から消えたこの首を魔王は喜んで屠ろうとするだろう。逃した人達も今頃は――。
元就は唇を噛み締めた。
このまま恥辱を受け続けるよりも誇りを守ろうと、自害する気持ちはまだある。しかし戦場でもない場所で、囲われたまま無駄死にすることは嫌だった。子供らの安否の分からない今、毛利の血が確かに流れるこの身を安易には殺せない。
だから耐えるしかなかった。耐えるしかできない無力な自分が、一層愚かな人間に思えた。
そのまま布団の中で蹲り、元就は押し寄せる嗚咽を殺す。元親の方なぞ見られるはずもなく、背を向けて瞼を瞑った。
その様子を薄目で眺めていた一つ目に、気付くことなく。
+ + + + + +
眠ることが恐怖となり、夜明けが訪れることを望まなくなり、僅かばかりに差し込んでくる斜陽の朱色が物悲しく感じるようになったのはいつからだろう。
元就は縁側に座ったまま、紫に染まりかけた空を見ていた。
長曾我部の御旗の色だ。しかし、戦場で嫌になるほど見たその旗がもう霞んでしか思い出せない。
元親と厳島で戦ってから、それほど長い期間が空いているわけでもない。
故郷を臨むことも出来ない土佐に連れ去られてからは一月しか――一体何日過ぎたのか、元就は正確に分からない。気絶や失神など日常茶飯事となったため体内時計は狂ったままだったし、元親は刻限すら教えてくれない――経っていないはずだ。
智将と謳われていたはずの元就が旗の色如きを忘れかけてしまうほど、彼は戦場という場所から遠のいていた。
戦に負けて、元親に助けられ四国に囲われたという事実だけではない。元就自身の居場所そのものが、現実からあやふやに溶けてしまっているのだ。
会うのは元親ただ一人。言葉を交わすのも、目に映すのも彼のみ。
やることもなく、考えることも許されず、ただ息をするままに生きるだけ。殴られた時に感じる痛みが、自分はまだ生きているのだと実感させてくれた。抱かれた時に感じる苦しみが、自分はまだ死んでいないのだと教えてくれる。
時々に感じる奇妙な甘さだけが、ここに存在していいのだと伝えてくれているような気がする。
ずるりずるりと、元親の闇へと導かれている自覚はあった。
初めに突き落とされたときから続く恐怖と絶望と、屈さぬと決めた意志は、確実に彼の元へと引き摺られている。
元親が乱暴をするだけ、独占欲や優越感を満たしたいだけであれば、意味無く存在である自分など、さっさと自ら殺していただろう。どれだけ阻まれようとも、舌に歯を突き立てることを諦めなかったはずだ。
そう出来ないのは、元親のあの顔とあの手のせいだ。
泣き出しそうな子供の顔。切なく想っているだろう視線。彼は時折、そんな様子で元就を窺っている。傷を抉る拳が優しい掌となって、意識の飛びかけた身体を摩ってくれることもあった。
最近では見慣れてしまった狂気に憑かれた暗い表情が、戦場で垣間見た明るい笑顔の片鱗を見せることもある。穏やかな空気が双方の間に偶然流れた際の、ほんの一瞬の出来事だ。次の瞬間には、怒気を孕んだ鬼の目が、自分を冷ややかに見下ろしていたりするのだけれども。
戦場で彼と言葉を交わしたあの日。煩い、と無様に喚き散らして元親を睨み付けていただろう自分は、一体どんな顔をしていたかと今更思う。
踏み込んで来ないで欲しい。これ以上入ってこないで欲しい。けれど本当は誰かに、知って欲しかった。
――元親は、その場所に来てくれたのだ。
弱い自分の本性を思い出し、元就は両手で身体を抱え込んだ。
虫唾が走る。震えが止まらない。瞬きを忘れたままの双眸で、薄暗い部屋の畳みを呆然と映し続ける。
家のために生きてきた。国のために生きてきた。父が、兄が、甥が死して、残された民のため、残された家臣のため、矮小な己をそれでも慕ってくれた家族のため、生きてきた。
なのに、もう何も残っていない。
――この手にあるのは、大きな影を足元に縫いつけた鬼だけ。
はっとした元就は、冷や汗で濡れた両手を凝視する。
今何を考えた。何を思った。
――誰を、想った?
脳裏に過ぎったのは元親の笑顔。海風に吹かれて煌く銀髪を揺らし、痛々しくも見える眼帯の下で浮かべた、無邪気で豪胆で綺麗な笑顔。何処へでも自由に行くことができながらも、己に課せられたものを笑いながら背負っていた、広い背中。
嘲笑いながら毛利に縛られる自分を壊す、恐ろしい男の隻眼。
元親だけが今、空っぽとなってしまった自分が唯一触れられる存在。その空恐ろしい事実に、元就は戦慄を覚える。
同時に守らなくても良い心地良さが、重く沈む胸の内に痺れを感じさせる。
あの鬼は強い。大きな両手で守ると決めたものを必ず守り、遠くの水平を映す深海色の目が、広い世界を真っ直ぐと見つめている。
ちっぽけな場所で必死にもがいていた自分とは違う。違い過ぎるから。
「……長曾我部」
久方ぶりに紡いだ彼の名は、こんなにも甘い響きを持たせていただろうか。
連れて来られた時に元親が尋ねてきた問い掛けを、元就は思い出した。
お前は誰の物だ、と。
日輪の申し子。中国の守護者。毛利の駒。どれもがお前にとっては脆い鎧でしかなかったのだと告げられ、その上で鬼は聞いた。
魔王に滅され、既に何もかもが塵と化した。肩書きに縋って形を保ち、それすらも失ったお前は一体誰の物なのだと。
日の見えぬ部屋。奪われた国。焼けた土地。狩られた一族。依り代を失った人形は、何のためにあるのだろうか。
そんな中身の無い容れ物を、俺にくれ、と元親は切望した。
囲って隠して、痛めつけて啼かせて。穢し尽くしても足りないかのように、元親は元就を放さない。何が不安なのか分からないが、ただ無心なまでにも元就を求めているのだということだけは伝わっている。
抵抗を示せば容赦なかったが、最近では従順を示せば静かに隣にいるということが分かった。それでも抱かれないわけではなかったが、元親はまるで壊れ物のように元就を扱った。
あの清々しいまでの笑顔は全く見せてくれないが、静かな空気が流れている時間は、言葉に出来ないほど心地良かった。
本当は認めなくなんか無い。
けれど、元親が元就という存在だけを必要としてくれるのならば。きっと自分に絡んだ毛利の鎧は、いとも容易く脆く崩れ去ってしまうのだろう。
それは恐ろしくも甘美な、ひたひたと迫り来る未来の形。
元就は、再び暮れていく空を見上げた。
もう既に藍色に染まり、何度目かの夜が訪れを告げていた。眠れない闇の時間が巡ってくる。
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(2006/09/24)
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