弐:頼り無い誓約 -1-



 良く晴れた縁側を、元親はのんびりと歩いていた。
 城では迫り来る織田の脅威と、背後の九州の動きへの警戒に対する話し合いが何度も成されている。
 ややこしい政事を比較的苦手――無論、彼とて国主の身である。苦手だからといって口を出さないわけにもいかない――とする元親は、航海中の船の上か、この別邸くらいでしか心休まることはなかった。
 中国の大毛利を滅ぼした織田だったが、どうやら東国が騒がしいようで、結局そのまま東へと大軍は返って行った。
 きっとあのまま四国にまで攻められていれば、一溜まりもなかっただろう。
 元就の国が傷つけられたことに怒りはあるが、あの堅牢な国があったからこそ四国にまで魔王の手が伸びなかったことは確かだ。国は元就を縛り付けていた憎き牢獄ではある。それでもこの事実だけは、元就が守護していて良かったと思えた。
 矛盾している浅ましい己の考えに自嘲を浮かべ、元親は回廊を進んだ。

 晴れ渡る空は青くて広い。禍々しい日食が彩ったあの日の空とは全く違う。東向きの執務室の障子を開けば、そこには煌く太陽の日差しが暖かに降り注ぐだろう。
 だが元親の足は、その部屋には向かわなかった。
 一つ手前の角を曲がり、向かうは屋敷の奥。夏でも常に日陰が覆い、温暖な土佐でも珍しいほどの涼しさで保たれている。ほんの昔までは、元親もその部屋に涼をとりに来ていたのだが、今では寛ぐために訪れているわけではない。
 この北西に位置する部屋には、元親の大事な宝物が住んでいる。彼は暇さえあれば、その宝物が本当に自分の手中に納まっているのかを確認するために室へと赴いていた。
 いつまで経っても安心が出来ない疑心暗鬼な自分を叱咤しながらも、この目で確かめなければ我慢ならないのだ。
 随分と臆病で、何と脆弱なのか。
 元親は自嘲を浮かべた。鬼と呼ばれながらも、鬼と変わらぬ所業をしようとも、もしかしたらその弱い姿こそが己の本質であるのかもしれない。かつて姫和子と嘲られた時のように――。

 最後の角を曲がった元親は、辺りに人気がないことをもう一度確認する。
 人目を憚る様子はまるで、囲った日陰者と逢引をするかのようだ。そう考えて、不意に足が止まる。軋んでいた床板の音が止み、静寂が訪れた。
 あの、気位の高い美しき人を陰間か妾のように思うことだけで、自分はとてつもなく愚かな罪人に思えてくるのは贔屓目なのだろうか。

 戦場で輝いていた参星。采配を揮い、自軍を導く強い光となり、冷ややかな眼差しで戦場を見据えていた毛利の守護者。

 彼が、見た目よりも随分と汚れた手を持っていることは知っている。泥水を啜り、這いずりながらも戦乱を生き抜いてきたことも。冷遇されて誰も信じられなくなりながら、本当は、本当なら優しさに溢れていた人だったのだろうということも。
 そんな彼を、文字通り身も心も引き摺り落としたのは間違いなく自分である。
 それを今更――世間から消えたその身は、亡者にも等しいのに――穢すような呼び方で呼ぶ事が憚られらた。惚れた弱味といえば綺麗に聞こえる。けれど、きっとそう単純な感情ではないのだろうという自覚はあった。

 誰もいない廊下を一瞥し、元親はそのまま奥の部屋へとそっと入り込んだ。
 室内は昼だというのに薄暗い。殆ど何も置いていないため、十六畳ほどの部屋は妙に広く感じられる。
 入り口から少し離れた位置にある、敷きっ放しの布団は空だ。横目でそれを見た元親は、大股で横切っていく。畳みが音を立てるが、向こうの縁側に座る人物は振り向こうとはしない。

「元就」

 淡い萌黄色の衣を纏わせた等身大の人形のように、呼びかけても決して動かない背中。
 それはこの部屋に来る度に見る、慣れた光景であった。
 元就はいつも縁側に座り、塀の向こう側に生えている木を眺めているか、何も無い空を見上げている。雨が降れば雫が滴る地面をじっと見ていた。
 一度、縁側に出すことを禁じたことがあった。すると元就は部屋の隅に座り込み、膝を抱えて畳みの目を数えていた。
 何もさせていないのは自分のせいなのだが、その様子がいずれ狂ってしまうのではないかと元親に危機感を覚えさせた。だから今は縁側に出ることを許しているし、書物や写経のための道具などを部屋に置いていた。
 元就は特に文句も我侭もいうことはなく、置かれている物は使って良い物だと解釈したのか、天気が良い日でも部屋で何かしら作業をしていることがあった。
 それでも縁側に座ることの方がもっぱら多い、と元親は思う。彼が訪れる際にたまたま外を見ているだけなのだろうが、その背中が無言のまま自分を責めているような気がしてきりきりと胸が痛む。
 再び名前を呼び、元親は痛む場所に気付かないふりをして縁側に座った。

「何か見えるか」
「何も」

 元就の方を見ずに呟けば、隣から間髪入れずに返答が返った。
 感情の篭っていない言葉は冷たい響きを持たせたが、元親は一つ頷くだけで何か思うことはない。

 ――縁側から何を見ているのか。
 この室に閉じ込めた際には、元就は反抗心を表すようにそれに答えた。
 ――枯れ木を眺めていた、鳥が留まっていた、雲の流れを観察していた、明日の天気を考えていた、塀の皹を見ていた、ぬかるんだ土を……。
 毎回のように元親は尋ねた。
 答えるたびに、元就は何かしらの形で折檻を受けた。何度も何度も難癖をつけられ、時には青痣が何日も消えなかった箇所もある。

 ――故郷を思っていたのか? 一族を思っていたのか? 過去を思っていたのか? あの日に死ねば良かったと思っていたのか?

 元親は傷口を抉り出すように、低い声音で迫った。薄暗い嘲笑を貼り付けながらも、何にでも理由付けしようとする子供の我侭のように元就を捻じ伏せる。傷つけたくはないと思っているはずなのに、歪んだ美貌の横顔を垣間見るだけで、精神が安定していくことを感じていた。
 傷つけることも、命を奪うことも、救うことも、自分だけに許されたのだ。
 そう考えるだけで自己満足に浸れた。


 ――なぁ。俺から逃げたいって思ったのか?


 幾度目かの無意味な答えを聞いた後、苛立ちを隠せずに元親はこう聞いたことがある。
 微かに瞠目した元就は、頭を垂れて黙った。元親がそのまま殴り、行為にもつれ込んだ為に返事は聞いていない。
 何が見えるかという問いに元就が答えを返し、その度に何度も行われている当然の流れだった。彼が言いたくても、玲瓏な声は熱い喘ぎと悲鳴に変わるだけで意味を成さない。元親は何も聞きたくなかったため、言わせないように一層愛撫の手を激しくしていた。

 だがその日から、元就は元親の問い掛けに対して、何も、と答えるようになった。
 だから元親の感情にも漣が起きることはなく、この数日部屋の中は比較的穏やかであった。
 衝動的に乱暴をして、その延長上にあった性行為も最近では全く行われていない。
 そのため、元就の身体の傷は徐々に癒えてきている。袂の隙間から盗み見れば、可哀想な位に変色していた殴打の跡も消え始めている。
 元親は安堵を覚えながらも、最後に抱いた日に残した赤い痕もまた掻き消えていくことに、無性に遣る瀬無さを感じた。所有の証である傷も痕も、元就の身体に何度刻んだはずなのにあえなく薄れていく。それが悲しくもあり虚しくもあり、独占欲もまた大きく膨らむ。
 不毛な堂々巡りだと分かっているのに。

 抑えられない想いを繋ぎとめながら、元親は元就の隣で外の世界を同じように見上げる。
 何も、見えないはずがないだろう。
 何も、思わないはずがないだろう。
 元就はぼんやりと首を上げて、晴れているため妙に高く見える青の天を眺めている。繋がっているだろう同じ空の下で、焦土と化した瀬戸内海の向こうをきっと悼んでいるのだろう。
 嫉妬が浮かぶが、元就はもう何も見ていないと言って、瞳の中には自分だけを納めてくれる。だから元親はぎりぎりの境界線の前で立ち竦み、振り上げそうになる拳を押し留めることができるのだ。
 拳だけではない。こうして太陽が決して見えない部屋に元就を閉じ込め、彼がずっと続けていただろう日輪への祈りも許さず、誰とも会わせず触れさせずにして、ようやく元親は元就の首を絞めることを止めた。

 不安で仕方がなかった気持ちも微かに治まり、自分の目から離れることにうろたえなくなった。
 だからこそ城へと向かい、諸処の政や周りの勢力への対応が出来るようになった。
 元就を連れて帰って別邸に放るまで、部下達も手が付けられないほどに元親は暴君ぶりを発揮していた。常の冷静でありながらも熱い主君を知っている彼らは、そんな元親をすぐに諌めることは出来なかった。
 そして、突如として元に戻った彼に安心するあまり、身辺に何が起こったのかまでは把握していなかった。
 故に、元就が四国にいることは元親しか知らない。
 別邸に勤める下働きの者は、元就が毛利の主であることなぞ露知らず、病に伏せた元親の知り合いを屋敷に住まわせている位にしか思っていない。
 元就はいつも一人だった。――それこそが、元親の望んだ結果だった。
 孤独になった彼には元親しかいない。
 たとえ心の何処かでは一族は生きていて、きっと家を復興させるだろうと信じているだろうが、現実では元就の周りには元親だけがぽつんと立っているだけだ。

 ――愛しい孤高の花。お前を摘み取った花瓶を見つめるのは、自分しかいない。

 凍えて誰も映そうとしなかった元就の双眸に、ようやくただ一人映される。夢にまで見た念願が叶いかけている。
 燻る喜びに元親は打ち震えた



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(2006/09/18)



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