壱:虚ろなる亡者 -3-
――ぱしっ。
それは、奇妙なほど乾いた音だった。
何をされたのか一瞬分からず、呆然と元親は自分の頬に手を当てた。熱が篭った自分の肌が、棘が無数に刺さったかのようにじわじわと痛み出す。
組み敷いた元就の身体を下から見上げれば、きつくつり上がった目とかち合う。薄い肩口から伸びるしなやかな腕が、振り下ろされたままの形で布団に投げ出されている。掌を彩るのは頬と同じ赤み。
抵抗されたのだと理解する前に、元就の袂へと潜り込ませかけていたもう片方の手が、勢い良く首元へと伸ばされていた。無意識の産物。衝動的な動作。だがそれは、元親が感じている苛立ちを最も良く表しているに過ぎない。
薄い絞め跡をなぞり、同じように両手をそこへと埋める。再び気道が絞まり、元就が苦しげに口を開けた。
求めるものを与えようとはせず、元親は先程よりも更に力を込めて白い喉を押さえ込む。
どうしてどうしてどうしてどうして――。
繰り返す問答。欲しい言葉はいつまでも手に入らない。
やがて力なく宙を掻いていた元就の手が、支えを失ったかのようにだらりと垂れ下がった。繰り人を失った人形のように、音もなくぱたりと落ちる腕。
元親は荒い息を吐き出しながら、ようやく力を緩めた。今度は元就も咳き込まなかった。喉元からは掠れたか細い呼吸音が繰り返され、生きているのか、死んでいるのか分からないほど胸は浅く上下している。
その身体を、元親は恐怖を伴って眺めていた。
――どうして、手に入らないのだろう。
また、諦めなければいけないのだろうか。
そうして再び、あんな生き地獄のような心持ちで彼が失う瞬間をこの目で見ることとなるのだろうか。
自問自答に正しい答えを指し示す光もなく。青褪めた唇に誓いめいた口づけを落とし、朦朧としているであろう元就をそっと抱き寄せる。
「もうあんな思い、沢山だ。なぁ、俺の側に、いてくれよ……」
返事が返らぬまま、元親は続ける。
聞こえていないだろう相手へ、続ける。
「お前がたとえ一人でも、俺が必要とするから。俺が必要としているから――」
泣き声のような言葉が届いたのだろうか。元就はふと瞼を開いた。ぼんやりと虚空を見つめる瞳を見下ろしながら、元親は今度こそ全く身動ぎも出来なくなった相手の身体を貪り始めた。
冷たく白い肌に朱を散らし、噛み跡を残していく。いたるところを味わう自分は獣のようだと、頭の隅が奇妙なほど冷静に自分を観察している。
元就は呼吸が整わぬうちに身体を弄ばれ、ただ感じる痛みを耐え続けた。苦しさを代弁するかのように、琥珀の眦からは生理的な涙が落ちていく。彼自身が流そうとしたものではないそれも、元親は神聖なもののように感じて大切に舐め上げた。
抵抗はあった。欠片でも残された自尊心が、気高き精神が、精一杯に自分を侵食している存在を否定しているような気がした。
その度に、元親は拳を振るった。
幾度となく繰り返される暴力に、赤い鬱血は紫に変色していた。激痛と鈍痛を行き来する元就を、無理やり引きずり出される快楽の波が襲う。元々体力の無い元就は、青白い顔色のままその行為を受け続けた。失神しかけても元親は許さず、弛緩した身体を殴った。
容赦の無い所業に痛むのは、どちらの心だったろう。
元就が気絶してもなお、元親はただひたすら彼を喰らい続ける。それしか知らないかのように、自分を包み返してくれはしない温い身体を抱きかかえた。
自分の温度が移っただけで、死に掛けていた元就の体温は決して高くはならない。その事実は仕方が無いことだと分かっているというのに、自分を受け入れてくれない元就と重ねてしまい、憎しみにも似たような気分になる。
憎悪を伴った情欲に煽られ、元親は再び元就を無理やり起こす。
意識を失い、一時の安穏を手に入れたであろう彼へと現実を突き付け、元親は行為を再開する。弱りきった身体に枯れた声。いつもなら浮かんだであろう憐憫の情は、一切現れなかった。
高みを目指し、突き落とされ、そうして再度浮き上げさせられる。
その、繰り返し。
元就は今何を思っているのだろう、と元親は考えても仕方の無いことを想像する。
憎いだろうか。苦しいだろうか。悲しいだろうか。虚しいだろうか。
どれもが正しいような気がして、どれもが間違っているようにも思えた。
いと高き場所に咲く花。
辿り着くだけでも険しいというのに、誰かが隣にいることも許さない。ただ物欲しげに下から仰ぎ見る者を哂う、罪深き花。
けれどどこか危うくて、風に吹かれて消えてしまいそうな儚い色で揺れる花。
いつか誰かに手折られる前に、自分が摘んでしまえばそんな心配もなくなる。たとえいつか、萎れて枯れてしまうことになっても。
それでも構わない。
――もうそれしか、望まないから。
「俺に、くれよ」
狂った闇の褥の中で続く、終わりが見えない蹂躙。踏み躙ってやればきっと手に入るだろうことを信じて、元親は続ける。
歓喜が、狂気が、自らの身体を蝕んでいることを感じた。ようやく自分の物だという証を彼に与えられるのだと、感極まる思いもする。
それでも何故だか元親は涙したくなった。
切ないほど、苦しかった。
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(2006/09/15)
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