壱:虚ろなる亡者 -2-



 舌を噛み切ろうとした元就の顎を掴み、元親は無理やり引っ張り上げた。
 元々、力の差は歴然としている。下顎を取られて元就は苦しげに喘いだ。振りかぶったはずの上の歯が、虚しく舌を撫でる。

「誰の許しを得て死のうとする?」

 吹雪のような声音が耳元に降り注いだ。僅かばかりに怒気を孕んでいるようだ。
 現実を直視できずに思わず瞑った瞼を引き上げ、元就は元親を見上げた。淀んだ眼差しが依然としてそこにある。

「なぁお前、自分が今誰の物なのか分かっているか?」

 嘲笑いを浮かべながらも、元親の目は笑っていない。勝手に死のうとした元就を責め立てているようにも思えたが、現状を理解していないことに苛立ちを感じているようにも見える。
 元就は顎を押さえられたままなので、答えを返すにも上擦ったような掠れた声が漏れる。大きな元親の手を放そうとしてもがくものの、力の入らぬ細い指先が彼の肌に傷をつけるだけに終わった。
 不健康な元就の肌の白さとは違い、血の通った白さを持つ元親の肌に薄く赤い筋が幾つも浮かんだ。
 それを視界の端で捉えていた元親は、まるで女を抱いた時のような淫靡な傷跡のように感じる。自らの思考が突飛なことに苦笑を覚えつつも、元親は舌なめずりしてしまう己の本能を押さえつけることはできなかった。

「我は我だっ!」
「それは日輪の申し子? 中国の守護者? それとも、毛利の駒か?」

 息苦しさを覚えながらも途切れ途切れで答えれば、さも可笑しげに元親は、間髪入れずに更なる答えを要求した。
 元就の双眸が見開かれ、苦しげに伏せられることを見越して彼は尋ねた。
 ――そうだ。こんな顔だって、できる。
 自分だけが自分を知っていればいい、と泣き出しそうに答えた元就の顔を思い出した。元親はその時、彼が必死に凍えさせていた心に皹を入れてしまったことを自覚している。繊細な彼を傷付けた。
 本当は、言われなくたって分かっていたことだろうに。
 元親はそれを切っ掛けにして、必要以上に毛利に踏み込むことを止めた。自分という存在が、元就の歩んできた道を食い潰しそうで怖かったからだ。
 だが元親は、焦土と化した中国を見て知ってしまった。元就のことが、何を捨ててでも、誰から奪ってでも、手に入れたいものなのだということを。
 恋というには激し過ぎて。愛というには優しくなくて。
 辛くて苦しくて、それでも甘美なその感情を元親はあの時知ってしまったから。

「あんたの太陽は地に没したよ。国も、家も、兵も、民も――闇に焼かれた」

 衝動的にでも、冷静な智将であるはずの元就が無意識に死を求めたほど、毛利の鎖は何よりも重い。だからこの呪詛をゆっくりと吹き込むことは、元就を壊すことにも成りかねない。
 それでも構わなかった。鎖を断ち切り、己の籠の中へと捕らえられるのならば何でも良い。
 もう失ったと思うことは――耐えられないから。

「嘘だ……貴様の言葉は信じない」
「嘘じゃねぇさ。魔王は一族全てを皆殺しにする。有名だろう? 戦が終わっても残党狩りは何ヶ月も続く」

 弱々しく震える元就の小さな手を取り、元親は甲に口づけを落とす。
 もはや動揺していることも隠せない元就は、呆然と見開いた瞳で虚空を見つめたまま震えるばかり。
 もうすぐ手に入る。
 いと高き場所で孤独に立っていた佳人を、この鬼の手の内に引き摺り落とすことができる。
 元親は微笑んだ。最終通告を告げる死神のように作り物のような薄っぺらい笑みで、もう一度先程と同じことを繰り返す。裂けた傷を押し広げるようにして、深く刻み込むように。

「皆、死んだのさ。今度こそ本当に一人ぼっちになったんだぜ」

 今度こそ元就は怯えた。白い喉元を引き攣らせ、元親が握ったままの手は固く強張ったまま動かない。
 煌く日差しの色を湛えていたその瞳が、自分だけを虚ろに見つめていることに元親は満足感を覚えていた。
 今、彼が言い放った言葉は、かつて元就に告げたものと同じだ。あの時酷くうろたえた様に声を荒げた元就を、元親は間近で見ていた。

 揺れた氷の仮面は綺麗で――欲しい、と。一瞬で心が奪われた感覚が、全身を駆け巡った。
 きっとその時から自分は、元就を求めていたのだろう。一目惚れのように甘酸っぱい感情ではないのだろうけれど、心の淵に彼が住んだのはあれからだった。
 それが、今目の前に横たわっている。
 深淵で轟くどす黒い感情が、内部でごそりと動いた。平静ならば気が重くなるだろう感覚が、この瞬間に限っては堪らなく感じる。酒に酔った時のような、身体が浮かんでいく高揚感に似ている気がする。
 楽しくて、可笑しくて、自制が利かなくなる。

「独り、だ」

 断定めいた口調で強く繰り返す。取ったままの手の感触を楽しみながら、何度も何度も。
 元親は引き攣った眼差しのままで、瞬きを忘れた元就の瞳を覗き込む。長い睫。端整な顔立ち。小さな呼吸を重ねる薄い唇。
 どれも欲しかった。どれだけ懸想していたことだろう。
 うっとりと微笑んだ元親は、下から聞こえてきた言葉にはっとした。驚愕といってもいいだろう。

「我は一人で構わぬと、以前言った筈だ。それは今も変わらぬ」

 先程まで震えていたはずの声は、戦場で朗々と響く号令の時と同じもののように聞こえた。脆いはずの彼が纏う鎧の一つでしかなかったはずのそれが、彼が心の奥底で隠し持っていた清廉な刃であるかのよう。
 全部失ってしまったはずなのに。守るべきものも、理由も、場所すらないというのに、己の矜持だけは捨てていない。
 それは武士としては当然の誉れなのだろう。
 だが、元親にとっては許せないものに感じていた。鎖をようやく断ち切れたというのに、元就は砕けたそれを見つめたまま動こうとはしない。
 彼は、萎びることを知らない高嶺の花のまま。このままでは自分の手を、決して掴み返してはくれないのだ――。

 隻眼に灯った空洞を見て、元就は肩を揺らした。
 死者達のように生気のない目が、不気味に輝いている。あの、幽鬼のような片目が自分だけを見つめている。
 呆然と開かれていた口元は、裂けるかように嘲笑の形へと変わっていった。ゆるゆると笑む元親は、両手で元就の頬を掴み上げた。

「――変わらない? お前はもう変わっちまったんだぜ?」

 執拗に言い募る元親に、慄きを感じながらも元就は瞼を伏せた。
 自分に何度も何度も言い聞かせようとするこの鬼が、何だか哀れな生き物に見えてしまった。

「貴様は、我をどうしたいのだ」

 再び尋ねる。
 元親はやはり、別人のような笑顔で答えた。けれど、掠れた声はまるで苦しげだ。

「お前は俺の物だ。俺の、もの、だ」

 捕らえたのは自分のはずなのに。どうしてこんなに弱々しい言葉しか出てこないのか。
 元親は視界が歪んだ気がして顔を伏せた。
 狂気に走り出してしまおうかと思えば、元就の言葉で正気へと引き戻される。堕ちる場所も見つけられず、宙を彷徨う自分の心。
 元就を見つけた時に彼を手に入れたのだと、他の物は何もいらないと思ったはずなのに、理性を捨て切れない人間としての己がその天秤を平均に保とうと足掻いている。
 ――手に入れたはずだ。手に入れられたのに……。
 自分のだと言い聞かせなければ不安になるのは、元就がいつまでも美しいままだからなのか。


 だとしたら。


「そうだ……そうだな……」

 俯いたまま黙り込んでしまった元親は、不意に低い呟きを言い放つ。
 頬を包まれたまま仰け反らされていた元就は、首の疲れを感じながらも暗い部屋に漂う陰湿な気に気を張っていた。
 警戒心が限界まで張り詰められている。ここにいてはいけないと、脳裏で警笛が聞こえてくる。なのに、こうして素肌を触れられているというのに拒絶しきれないのは、力の差を自覚しているせいだけなのだろうか。
 元就はただ、元親を見上げていた。
 何かを耐えるようにきつく結ばれていた唇が綻び、呟きを聞いた時には彼は首を絞められていた。
 一気に引き絞られた喉元に痛烈な痛みを感じる間もなく、圧迫感と共に血管が沸騰しそうなくらい熱くなった。
 無意識にもがいて抵抗しようとする元就の指先が、再び元親の手に爪跡を残す。
 先程抱いた妄想を現実にしようと、元親は酸素不足で弛緩した細い身体へと手を伸ばした。急に絞められ気が遠くなった元就は、首から手が放されたことにも気付かずに咳き込む。荒い呼吸音が耳元をくすぐり、元親の中に孕んでいた熱もまた容赦なく上がっていく。
 晒された首筋を眺め、元親は自分がつけた絞め跡を舐めた。肌の味を覚えようとするように何度も。
 嘆息を吐いたのは、どちらだったろうか。
 元親は夢の中に描き続けていた白い肢体に、赤い鬱血を作り上げていった。いつか見た、東北に降る白く青い新雪を踏み荒らしたかのような快感が駆け巡る。

 戻れない。戻る気も、もうない。

 いつだって痛烈な美しさを保ち続ける彼を、汚す事しか方法が浮かばない。
 ――堕ちろ。穢れろ。汚れてしまえ。
 居場所を失くした亡者に成り下がってもなお、萎れないその心。脆くて弱くて、我慢して立っていたはずの心。それなのに、本当はこんなに強くて――。
 こんなもの砕けてしまえばいい。もう自分以外にこの花を見る者はいないのだから



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(2006/09/14)



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