壱:虚ろなる亡者 -1-



 ぬかるんだ地面に横たえられたのは、いつだっただろう。
 危うい時間感覚を感じながら、明かりの灯らぬ暗い天井を見上げる。
 随分と長い間目を閉じていたらしいが、暗闇の中だというのに視線の先の褪せた木目がはっきりと見えた。暗さに慣れてしまった瞳を微かに巡らせ、それから元就は軽く息を吐き出す。
 全身から感じる痛みや敷かれた布団の温かさに、自分はまだ生きているのだという、落胆にも似たような思いが浮かぶ。

 そう――落胆しているのだ。

 家を守るために這い蹲ってでも生きてきた。だが今はもう、生き残りたいという気持ちはなかった。むしろあの場所でどうして死ななかったのだろうと、苦々しい思いを抱く。
 この抜け殻の身体を、拾った奇特な輩が誰かは問題ではない。本当ならば、自分という存在はあの場所で天寿を全うするはずであったのだ。誰であろうと、最悪織田側の人間であったとしても構わない。この忌々しいほど細い首には、もはや何の価値も無いのだから。
 いっそ、今すぐにこの舌を噛み切ればいいだろうか。
 そう考え奥歯に力を入れようとしたが、顎に力が入らない。昏睡してから随分と時間が経ってしまったため、意思の伝達を身体が受け付けないようだ。
 元就は軽く身じろぎ、重く吐息を漏らした。喉に何かが詰まってしまったように、漏れた声は酷く乾いている。戦場では朗々と響かせて駒を動かしていたそれが、今では見る影も無い。
 自嘲が思わず浮かんだ。鋭い眼もまた、歪んだ。

 盤上の駒でしかなかった彼らはあの時――初めて自分の言葉を追行しようとはしなかった。愚か者めと罵ろうとも。馬鹿な奴だと怒鳴ろうとも。清々しいほどの笑みを映して、彼らは元就を庇った。
 既に自分の血族は逃した後だ。焦土と化していく故郷に、自らの骸を投げ出しても構わなかった。国がなくなろうとも、毛利の血は絶えない。血脈が続く限り、家は何度だって蘇ろう。
 そう覚悟の上だった。
 だからこそ、最後の最後まで戦場に立ち続けた。捨て駒の兵達と共に殿に残ったのは、最も重要なその役目に自分という囮の駒が必要だった。悪鬼の如き織田も、中国の総大将の首に眼が眩むだろう。その隙に、少しでも背後の者達が遠くへと逃げてくれることを願った。

 どうか、どうか――。

 暗い雲の上に存在するであろう日輪に、そんなことを祈ったのは初めてだった。
 ――いつからこんな思いを抱くようになったのか。顔に貼りついて取れなくなったはずの仮面は、何処に行ってしまったのだろう。
 考えるのは、分厚い殻を叩き続けた馬鹿な鬼の姿。誰もが遠巻きにしていた元就の前に突然現れた、愚かな男。
 踏み込むなと拒絶を示しても、からからと笑って深く深く掘ったはずの溝を飛び越えようとした。差し出されかけた手を振り払ったのは、拒絶よりも驚愕が大きかったように思える。
 元就の周りにはそんなことをする人間が今までいなかったから。いないと、思っていたから。
 彼に出会ってから、ふと気付いた。振り返れば、溝の向こうで困ったように自分を見守っている姿があった。見下ろしてみれば、溝を渡りきれずに落ちてしまってもなお、這い上がろうと自分を仰ぎ見ている目があった。視界を少し変えると、どうやって橋を架けようかと考えている人影が見えた。

 本当は、ずっとずっと傍にいたのだ。
 それが見えなかったのは、元就自身が目隠しし続けたせいだった。

 身勝手だと思っていた彼の言葉が切っ掛けを作り、真実に気付いたのは、あの地獄のような負け戦の最中だというのが皮肉なものだ。
 あの時、高松城で聞いた嗚咽に元就は瞠目した。嫌われているかと、憎まれているのかと思い続けていた思考は一気に砕かれてしまった。いつもなら他人の涙など冷ややかに見下せるのに、思わず元就は頭を垂れていた。
 ――切腹なぞするな。最後まで足掻き、生き延びよ。毛利は死なぬ。今は沈もうとも、そなた達が生きる限り、日輪の如く何度でも蘇ろう。
 息子と付き従う家臣達に言い残し、元就は戦場へと出て行った。
 父上、と。元就様、と悲痛に叫んだ声音を背中に受けながら、とうとう元就は振り返りはしなかった。

 そうして、死を覚悟していたというのに。
 この体たらくは何なのだろうか。
 生き恥を晒し、落ち延びた者達の足枷になるのならば、己の命だろうとも容赦なく摘み取ろう。多くの命を死なせた罪を背負っている。だから死は怖くなど無い。
 怖いのは、大切だとようやく気付けた者達を失くすことだけ。

「起きたか」

 音もなく襖が開かれ、頭上から聞き覚えのある声が降り注いだ。
 続きの間から現れた姿を見とめても、元就は大して驚くようなことはなかった。
 身動ぎもしない白い顔を無表情のまま見下ろし、元親はじっと枕元に佇んでいた。暗闇の中にぼんやりと彼の銀糸が浮かんでいる。まるで鬼火だと元就は思った。
 感情豊かにころころと変わっていく元親の面は、出来の悪い人形のように貼り付いた笑みをただ映している。

 ――鬼。
 元就は掠れた声で呟いた。

「気分はどうだ? 痛い所は無いか?」

 優しげに問う元親の言葉は、以前出会った時のように自分の内心へと深く響き渡る音色を確かに持っている。なのに、冬海の色を灯した片目は飢えた獣のように、爛々と元就を眺めていた。戦いの相手として見ていた時とはまるで違う。
 元就が先程まで思い描いていた長曾我部元親は、そこにいなかった。
 部下達に明るく笑いかける半面で、頑なな元就を寂しげに見つめていた男は、今薄暗い微笑みを浮かべるばかり。仲間に囲まれながら世界を夢見る瞳は暗く翳り、対照的な琥珀の目を可笑しげに覗きこんでいる。

「我をどうするつもりだ?」

 様子が全く違う男に微かな怯えが過ぎるが、元就は平素と変わらぬ固い口調で淡々と尋ねた。
 元親がいるとなればここは十中八九で四国なのだと予想が付く。どういった意図で自分を連れてきたのか、どうして戦乱の熱が冷めぬ中国に――織田の手中となってしまった毛利の地に訪れたのか、それが分からない。中国が攻められた今、次に狙われるのはこの国かもしれないというのに。
 冷たい視線で見据えてやれば、元親が鼻で笑ったような気配がした。お前の考えていることは知れているのだと言われた気がして、思わずいつものように怒鳴りつけそうになった。
 だがここで冷静さを失ってしまってはいけないと思い直す。ただでさえ目の前にいる長曾我部の当主は、妄執を抱いた狂人のような目付きで自分を見ているのだ。真意が全く読めない。
 元就の感じた微かな恐れを感じ取ったのか、元親は不意に右目を細めてみせた。そのままゆっくりと屈みこみ、布団に横たわったままの元就に顔を寄せる。
 覆い被さる影と間近に感じる呼吸音。底冷えする鬼の隻眼に、石化したかのように元就は固まった。
 動けば、喰われそうだった。

「どう、すると思う?」

 突き付けられた言葉を繰り返し、嘲笑う元親。愉悦や歓喜を含みながら、暗く陰湿な闇を纏う笑顔。
 冷や汗が元就の米神に浮かぶ。血の気が一気に下がっていく感覚がする。
 ――これは誰だ。

「我は、織田に首を取られ損なった亡者ぞ。毛利を手にする駒としても、中国はもはや魔王の物。貴様に何の利益があるというのだ」

 震えそうになる声をどうにか押さえ、元就は続ける。

「それとも貴様は哂うか? 捨て駒を扱い、挙句に戦に敗走した愚か者だと」
「俺はっ!」

 戦場で相対した時のように冷笑を浮かべて見せれば、元親は急に声を荒げた。彼を直視しないようにと瞼を伏せていた元就は、驚いて思わず見開いた。
 寒々しかった隻眼に光が戻っている。猛々しく灯る焔は、出会った時と同じもの。初めて自分という存在を真正面から見据えた、眼がそこにあった。

「俺は、あんたを哂ったりなんかしねぇ。哂えることなんざ何もありゃしない」

 逆様の元親の顔は、酷く焦燥感に駆られているように見えた。
 では先程までは何を笑っていたのだ、と元就は問いかけようかと口を開きかけた。しかし制するように、元親は強く口調でさらに言い募った。

「毛利は立派に戦った。俺はそんな奴等を哂いやしねぇ」

 布団の端を掴んでいた元就は、拳に力を込めた。紡がれた言葉は胸に響くのにどうしてだろう、急に不安が透り過ぎた。
 ――奴等。
 元親は言った。自分と話しているはずなのに、彼は確かにそう言った。
 狂ったような禍々しい笑みを浮かべていた元親を見た際に感じた恐怖とは違う、蝕むような恐れが元就に襲い掛かった。
 今度こそあからさまに身体を強張らせた相手に、元親は気付く。すると彼の隻眼が再び濁った。鮮烈なまでの真っ直ぐな輝きを失った瞳は、狂気を孕み元就を眼中に捕らえる。

「――……そうさ。お前が亡者となったというのなら、もはや毛利は何処にもいない」

 瞬きすら忘れて元就は動かされる元親の唇をただ凝視する。
 脳裏で、怨念めいた悲鳴が響き渡った。己が見捨てた数多くの兵士達の無情な啜り泣き。焼かれた土地で悶える民達の悲痛な呼び声。それらが重圧のように、元就に覆い被さった。

「お前はもう一人だ」

 鬼の腕が伸ばされた。薄い肌に温い体温が伝わり、価値の無い首に両手がかかる。
 細かく伝わる焦燥した鼓動が元親には感じられただろうか。満足そうな笑顔を映し、彼は残酷な笑い声を上げた。
 元就は青褪めた肌のまま、心の中で叫ぶ己の声が遠く聞こえていた。
 言うな、言うな、やめろ。
 ――この男の口から、そんなことを聞きたくなんてない。

「皆、死んだぜ?」

 力が篭らなかったはずの顎を動かし、元就は衝動的に歯を噛み締める。首に添えられた鬼の手が、自分の命を絶とうとするよりも早く。
 ――今ならまだ、殻を守ったまま死ねるから。



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(2006/09/08)



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