序:赤黒い空の下
一面の焦土を眼下に捉え、元親は絶望を覚えた。
都に巣食う魔王が、東国への領土拡大に手間取っているという話は何度も間者から聞き及んでいたが、掌を返して西国へと侵入を開始したという情報には、衝撃を受けていた。
西側の織田領を治めているのは悪名高い明智だ。明智軍と地続きで隣接している中国は、開戦を余儀なくされた。そこへ信長率いる本隊が押し寄せたため、被害は計り知れない。
東軍を抑えているのは前田軍が中心だが、東国には甲斐の虎や三河武士といった日の本に名を馳せる猛者ばかりだ。本隊が西へ方向転換するなぞ、予想できなかった。
戦局の変化を察知できなかった浅はかな己に、憤りを感じながらも、元親は戦火で荒れた隣国の土地を見回した。
――魔王の歩いた道には何も残らない。
その噂は本当のようだった。信長は自分の統治しやすい国を再びそこに作り出すため、元々あった古きものをことごとく粉砕していく。民が、領主が、国主が愛した土地になぞ何の概念も浮かばないのだろうか。
唇の端を噛み締め、元親は空を仰いだ。
どんよりと重苦しい薄灰色の雲が天上を覆い尽くしている。
高松城は水攻めされたという報が入っていることから、先日までこの辺りは連日雨続きだったことだろう。そのため放たれた火はすぐに鎮火したらしく、何とも皮肉めいている。
彼の人は信仰する日輪の輝きを拝めずに、あの美しい面を討ち取られたのだろう。そう考えると、腸が煮えくり返るような思いがした。
あれは俺のだ、と己の中に巣食う鬼が唸りを上げている。
取られる前に取っておけば良かった。いずれ誰かに奪われるというのなら、最初から自分の物にしておけば良かった。
そうやって膨れ上がる気持ちを必死に押さえつけながら、元親は歩き続けた。
遠くに荒れた城跡が見える。落ちた高松城。総大将として立っていたのは城主の清水ではなく、この中国全土を治めるには細く小さな男だった。氷を思わせる能面を被り、その剥がし方を全く忘れてしまった哀れな人。
白魚のような手が采配を取り、兵士を死地へと容赦なく送ったのだろう。自らも刀を取り、駒と称して戦ったはずだ。
初めて彼と相対した時、自分はその思考を理解することができなかった。
彼に従うのは駒ではなく個とした命。儚いそれらを命令一つで見殺しにできる彼を、元親は悲しく思い、また憎しみにも似た怒りを募らせた。
自分だけが己を知っていればそれでいいと。泣き出しそうに歪まれた佳麗な眼差しを、元親は間近で見ていた。そんな顔が出来るというのに何故、と元親は奇妙な焦燥感に駆られた。
――今なら分かる。やっと今になって、分かった。
冷たい言葉と態度は彼の脆い鎧。捨て駒だと配下に告げながらも、彼自身が戦場に出なかったことなど一度も無く、戦場から目を逸らすことも決して有り得なかった。自ら決して攻めることはしない彼が、全力を持って守ろうとしているのは国や家だけではない。兵や民も例外なく、あの薄い肩に乗せていたのだ。
元親と、同じように。
だから彼らは、外部から見れば下克上しても可笑しくないだろう棘のような言葉の数々を真摯に受け止めていた。傍から見れば不思議なその絶妙な関係を保っているからこそ、毛利はあれほどまでの大国を抱えていられるのだろう。
理解していたつもりだった。けれど、そんなものは彼らの間にある見えない絆を見通すには浅はかなもので。元親は今、心底彼に謝りたかった。
自分は何て軽々しい台詞を放ってしまったのだろう。
繊細な心を溶かそうとして、皹を走らせてしまっただろうに。
ごめん。
ごめんな。
焦土を見渡す片目を瞑り、元親は俯いた。
失ってから初めて知った。何か半身がすっぽりと抜け落ちてしまったような虚脱感が襲ってきていた。
どうしてもっと早くに気付かなかったのだろうか。
――きっと、好きだった。
頑なに閉ざそうとする琥珀色の双眸に、本当は自分だけを映して欲しかったのだ。
元親はそうして後悔の念を抱きながら、とうとう合戦跡地に足を踏み入れた。首の無い死体や捨てられた無縁仏の数々。折れた槍や踏み荒らされた旗が、戦闘の激しさを生々しく表している。
未だに死臭が立ち込める周囲を見回し、織田軍の遺体の数の方が多いと分かった。元々、魔王の軍勢の数は中国や四国の比ではない。ならばこの現状から分かることは唯一つ、毛利軍は凄まじい抵抗を見せたということだ。
きっと彼らは主を守るため、必死の交戦をしていたのだろう。
毛利の血がある限り、一族は何度でも蘇ることを兵士達は信じている。きっと彼は守られるだけの立場に甘んじることなぞ出来なかっただろう。篭城も限界が必ずある。破られていく陣へと、戦いの渦中へと、彼は日輪を讃えながら突き進んだに違いない。
返り血を浴びながらも決して諦めない強い眼差しを思い浮かべていた元親は、ふと視線を動かした。
焼かれた木々の合間に、土肌が剥き出した崖が見えた。そこには折り重なるように兵士の死体が固まっている。火を放たれたのだろう、一番外側の者は無残にも焼かれている。動けなくなり、身を寄せ合ったのだろう。よく見てみれば体中に傷がある。原型を留めている骸は死に安堵を求めたのだろうか、憎悪や恐怖といった表情は一切浮かべていなかった。耐えながらも、己の死が意味あるものだと信じているような。そんな誇らしげにも見える顔だ。
嗚呼、ここにも。
彼の人の号令で戦場へ出て、彼の人を思いながら死んでいった者達がいる。
本当の彼らの思いなぞ、海を隔てた自分が推し量れるものではないけれど。ただ分かるのは、きっと彼は一人ではなかったのかもしれないということ。彼を遠巻きにしながらも支え、支え合うことがあったのかもしれないということ。
真実を知るのが遅過ぎた。己の気持ちに気付くのが遅過ぎた。
そうすれば、あの冷たい横顔が切り落とされるなんて、最悪の結末は違う形に変わってしまっただろうに。
元親は折り重なっている毛利の兵士に軽く手を合わせた。もう戻れない時間を思い、唇を噛み締める。伏せた視界には、物言わぬ遺体の山と濡れた土が見えるだけで――。
隻眼を瞬かせた元親は、冷たい汗が背中に伝うことを感じた。
少し見ただけでは分からないが、微かに死体と土肌の間に隙間が見える。夜であれば、または雨が降っていたのならば気付けないだろう。この奥にはどうやら小さな横穴があるようだ。
折り重なっている兵士は偶然ここに集まったのだろうか。隠されるようにして存在する横穴を、元親はじっと見つめた。
――隠す。……守って、いる?
海賊としての直感だったのだろうか。元親は微かに瞠目をし、それから勢いよくその山に手を伸ばした。死後硬直している兵士の身体は酷く重い。薄皮を剥がしていくように、物言わぬ死体を元親は黙々と一人ずつ退かしていった。
三人、四人と厚い人の壁を通り越し、ようやく空間が目の前に広がる。元親の背の半分よりもさらに小さな薄暗い穴は、あと一歩も入れば行き止まりだ。予想と違い、そこには何も無かった。
元親は自然と安堵の息を吐き出す。兵士達はやはり、動けなくなったものが身を寄せ合っていたのだろう。殺到した全員が、死神の放った地獄の炎に苦しむ時間さえ与えられず焼け死んだのか。
醜いその光景を思い浮かべ、元親は眉を顰めた。そうして踵を返そうと足元を見る。
そして、今度こそ息を呑んだ。
ぐったりとしたまま動かない人間が、肢体を投げ出して倒れていた。
我が目を疑った元親は、油の切れたからくりのようにぎこちない動きで手を伸ばす。泥で汚れた白い肌は冷たい。乾いた髪が、指の間でさらさらと零れ落ちた。睫の長い瞼は閉ざされたままで、力なく開かれた口元に手をかざすと、微かだが呼吸の感触がした。
元親は、己の中に迫り上がってくる衝動に身震いをした。自然と唇が弧を描く。
手に入れられる。奪える。今度こそ、失くさずにすむ。
――コレハ、オレノダ。
もはや周りは見えていなかった。
命に守られたその人を抱き上げ、元親は哂う。先程まで哀悼の念を抱いていた洞窟の守人達には目もくれず、来た道を悠々と戻り始めた。
曇天はいつの間にか裂け、薄暗い空が広がっている。魔王の所業によるものか、はたまた鬼の狂気が呼び出したのか、赤々とした太陽が月に喰われていた。
凶兆の証が照らし出した地上の戦場に残るは、世界を嘲笑うかのような鬼の高笑いのみ。
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(2006/09/03)
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