光の丘へ -3-
松風と夢吉を連れた慶次は、のんびりと午後を過ごした遊郭街から出てきた。
朱色に暮れていく街並みを楽しみながら歩く。狭い路地を慣れた様子で何度も曲がり、喧嘩仲間の家へと向かう。泊まりに来いと寝床を半分強制的に提供されているのだ。
最近の京は、若き天下人の話で持ちきりだ。
そんな伊達の殿様と一応知り合いである慶次は、噂好きな人々の間で引っ張り凧である。大方相手もその話を聞きたいのだろう。
「知り合いって言っても微妙な仲だよなぁ」
小首を傾げる夢吉に話しかけながら、慶次は松風の手綱をゆるゆると引いた。
最初に出会ったのは気紛れに訪れた北の国。二度目はこの街。話した事があるのはそれだけだ。本当に顔を知っている程度の関係である。
だがその時のことを思い出した慶次の脳裏には、政宗の歪んだ表情が過ぎった。
恋を知り愛に嘆き、辛そうに俯いていた彼は竜ではなく一人の男だった。誰かを本気で好きになっている、哀しい横顔をしていた。
――あれから政宗はどうしただろう。好きな人にそのことを告げられたのだろうか。
ぼんやりと考え事をしながら角を曲がろうとした時、慶次は鈍い衝撃を全身で受けた。反動を持ち堪えることが出来ず、そのまま道端へと腰を打ち付ける。
誰か急に向こうから出てきたのだろう。相手もどうやら転んだようで、荷物を落とした音がした。重箱の蓋らしき小気味の良い音が響く。
前方不注意なのは慶次も同じなのだが、夕暮れ時に人気の無い路地裏を走るなんて後ろめたいことでもあるのだろう。叔母のように叱ってやろうか、と慶次は顔をおもむろに上げた。
「――伊達政宗?」
慶次は驚き、思わず相手の顔をまじまじと見返す。額から汗をかきながら乱れた呼吸を繰り返しているのは、先程まで考えていた政宗その人であった。
突然の再会に政宗も唖然としていたが、すぐに用を思い出したのか転がってしまった荷へと手を伸ばした。
包みの中から転がり出てきた漆塗りの箱から、赤い布が零れている。
普段から舞妓など見慣れている慶次には、それがすぐに錦の織物なのだということが分かった。政宗はそれを拾い、軽く砂埃を払う。手付きは優しいが酷く忙しない。
必死な形相を取り繕うことなく無言で政宗は作業を続け、それから再び駆け出そうとした。
一連の動作を眺めていた慶次は、開きっ放しであった口をぐっと噤んで立ち上がる。常に斜めに構えながらも自制を失わない、歳の割には理知的な政宗が荒い呼吸を繰り返して走ってきたのだと思うと信じられない。
初めて見る政宗の右目に思わず息を呑んだが、それよりも開かれている左目に宿っているものが慶次の心を動かした。
恋煩いなんて粋じゃないと。
こんなことで悩むなんて自分らしくない、と。
かつて苦しげに募る想いを話した、あの時と同じ顔を政宗はしている。天下を制した竜の目ではなく、恋に思い悩む歳相応の青年の瞳で。
行かなくては絶対に後悔する。
そんな決意を孕んでいる彼の目に、過去の自分が重なったような気がして、慶次は強く拳を握った。
「松風を貸すぜ。急いでいるんだろ?」
手綱を無理やり押し付けるように渡すと、僅かに政宗が瞠目した。
困惑しているのだろうと分かったが慶次は茶目っ気たっぷりに片目を瞑って笑顔を返す。
「天下の独眼竜が惚れ込むような、いい人なんだろ? 暗くなるまで待たせちゃあ伊達者の名が廃るぜ?」
政宗は残されている片目を瞬かせ、少しだけ目を伏せる。
だがそれも一瞬のことで、彼は急いで跨り松風の腹を叩いた。嘶きが上がり、名前の通りの早さで松風が走っていく。雷のように風を切りながら、政宗は慶次へと一度だけ振り返った。
「Thank!」
切羽詰った声で捧げられた礼の言葉が慶次に届いた時には、その姿は既に遠かった。
珍しいものを聞いたな、と慶次は夢吉に語りかける。晴れやかな笑顔を浮かべながら、彼は道端に残されたままの箱と包みを拾い上げた。
「これ返しに行く時に、根掘り葉掘り聞いても罰は当たんないよな」
嫌がりそうな政宗の様子を想像しながら、慶次は彼が向かったであろう郊外へと思いを馳せる。
間に合えばいいと切に願う。
自分には無理だったこと。失ってしまってからでは何もかもが遅いという事実から、ずっと逃げていたこと。向かい合う決意をした後も、大切な人は戻ってはこなかったけれども少しだけ前向きにはなれた。
だからというわけではないけれど、政宗達はきちんと立ち向かえていけられればと思う。
世は政宗のおかげでようやく落ち着き出している。
そんな彼が、好きな人と少しでも幸せになれればと思うことは、我侭なんかではないはずだ。
丘の上に生えている一本の木の下。盛り上がった土の上に、大きめの石が乗せられている。
もうすぐ夕陽が沈む。
一段と伸びた自身の影法師を見下ろしながら、元就はしゃがみ込んだ。
季節が変わったばかりの風はまだ冷たく、この場から動かずにいる元就の身体を容赦なく冷やす。それでも立ち去ろうとは思わなかった。
日輪が姿を隠す時まで、ここにいなくてはならなかった。毛利の屋敷からでは日の入りが良く見えないのだ。常ならば西の方角へ手を合わせるだけで済ませるが、この都にいる時はどうしても斜陽をこの目で拝みたかった。
政宗が共に手を合わせてくれた墓のあるこの丘で。
温かみの無い石を慈しむように指を這わせ、久方ぶりに再会した愛馬を思い出す。そして、政宗に奪われていった約束を――。
瞼を閉じていた元就は顔を上げ、闇に閉ざされていく空を見た。
死んだということになっていた元就の代わりに毛利を支えていた隆元は、彼が帰ってきた時に一度当主の座を返した。波乱に満ちた中国を建て直し、再び平穏が訪れた事を認識した元就はその座を自ら退いた。
完全に隠居しているわけではないが、そうして元就の背負っていたものはいつの間にか随分と軽くなっていた。
だから、考える時間は沢山あったのだ。
自分のこと、国のこと、家族のこと、元親のこと――それから政宗のこと。
名前の分からない感情を持て余したまま別れた彼のことを想うたびに、胸が熱くなった。傍にいた日々の中で感じていたものよりも、その重みは増して切なさを帯びていた。
政宗が天下を取ったという知らせを耳にした瞬間に、その想いの正体を元就は知った。
駆け巡ったひり付くような痛みは愚かな自分に科せられた罪。
気高き竜に懸想してしまい、諦めたはずなのにいつまでも未練がましい心を持て余すことへの罪。
自分の愚かな願いで家を潰させることはできなかった。元就も、政宗も、個としては生きられない世界に住んでいたから。
けれど軽くなったこの背なら、彼がいるだろう高き天の近くを飛べるだろうかと考えても仕方の無いことばかりを思う。
一緒にいたいと。せめて別れる前にでも素直に口にしていれば、まだ痛みが軽かっただろうか。言葉にする勇気があった政宗は、どれ位の苦しみを味わっていただろう。
失くしたくないと、彼の元へと行けたあの夜明けの時のよりも二人の間にはもっと大きな空白が空いてしまっている。
住む世界が違うから離れた。
だからもう二度と会えるはずがない。そうなるように、望んだのだから。
美しい日輪のような赤い羽織がこの手の中に残っていれば、少しでも竜の片鱗を感じていられただろうか。忘れたくないと必死に思い出に縋りつく焦燥感も、多少なりとも薄れたのか。
考えてみるものの最早叶わぬことだ。
羽織だけではなく彼へと伝えずに終わった想いも、全て政宗の元へと置いて来てしまった。取り返したくとも傍らへ行くことも望むわけにはいかない。
夕暮れの中、蹄の音が遠くで響いていた。
誰もこの丘には来ないはずだ。ここには元就が封印した思い出が眠るばかり。
徐々に近付く音源を確かめるべく、重苦しい吐息を吐き出して元就は立ち上がる。
そして、声を失いかけた。
「ま、さ、むね?」
息を切らせた男が、手に錦を掴んで佇んでいる。
記憶に深く刻まれたその顔を見てしまい、元就は喉元から溢れてくる何かを留めるように口元を手で塞ぐ。
――どうして此処に彼がいるのだろう。これは夢の続きなのだろか。
けれど近付いてくる彼の生身の気配は、偽りでも幻でもないのだと分かる。それくらいに傍にいた。心を委ね合ったのだ。
赤く滲む空を背景に立つ男は、記憶よりも背が伸びていた。はにかむと案外幼かった顔立ちは精悍な大人のそれに近づいている。
けれど必死な表情で元就を見つめてくる隻眼は、あの頃と何ら変わってはいない。温かさと冷たさと、溢れて零れてしまうくらいの想いを募らせているたった一つだけの瞳は。
変わってなんかいなかった――。
どちらともなく二人は駆け寄り、広げた腕で互いの温度を抱き取った。存在することを確かめ合って顔を見合わせる。
どうして、と思わず呟いてしまった元就に政宗は困ったように眉を寄せた。
「おいおい、ここは俺が見つけたsecret placeだぜ? それに俺だってこいつの墓参りを時々している」
石で出来た墓を視線で指しながら、いつものように格好つけて笑おうにも口の端が歪んだ。紡ぐ声が震えていないかどうか気遣うことももう出来ない。
元就の冷たい身体を温めるように、政宗は手にしていた羽織を彼の背へ乗せた。弾かれたようにその色を見やった元就は揺れる瞳で政宗を窺う。
自分がこれを着ることで政宗を不安にさせた事を覚えているのだろう。目を閉じて緩やかに首を振った政宗は、錦ごと相手を腕の中に囲った。
「怖いさ。今でも怖くて仕方がねぇ。でもこれはあの夕陽と同じで、今アンタを温めている。もうそれでいいんだよ」
耳の奥にじんと響き渡る低い声音。
目の前に政宗が確かにいる。感じた事実に目元が熱くなったが、元就は奥歯を噛み締めてそれを突き放そうとした。会えただけで僥倖なのだ。これ以上は求めることは叶わない。長く共に居ていてしまえば、離れ難くなってしまうから。
身じろいだ元就の想いが伝わったのか、政宗は腕に込めた力を強める。引き止めようとする行いが理解できず――勘違いさせられてしまいそうで怖く、元就は男を睨み付けようとした。
だが出来ない。
無表情を作ろうにも、不機嫌な顔になろうとしても、積もり積もった感情をどうにか表に出さぬように我慢することしかできなかった。
智将と謳われた自分は何処に行ったのだろう。
取り繕った氷は海に晒され、月明かりで溶けてしまった。もう取り戻せない。
「貴様はもう天下を統べる竜ぞ。我のことなど放っておけばよいものを」
「そんなことできねぇよ。危なっかしくて、ずっと忘れられなかった。アンタはどうだった?」
無邪気に微笑む政宗に対して、元就は巧く回らない己の口を忌々しく思う。
いつだってそうだ。言いたいことを言えなくて。相手に言わせてしまうばかりで。相手が消えてしまってから、後悔ばかりが押し寄せる。
元就の葛藤などきっと政宗は分かっているのだ。現に今も、彼はただ静かに黙って優しく笑んでいる。
ゆっくりでいいのだと教えてくれた彼は言った。
少しずつでも、ちゃんと聞くからと。
その見守るような眼差しに、このまま口を噤むことは何だか悔しかった。もうきっと本当に会えなくなる前にせめて政宗へと伝えなくてはいけない。
ようやく拾い集めることのできた、かつて捨てたはずの温かな感情の名を。
元就は絶え絶えながらも思い浮かぶ単語の羅列を、自分の心と照らし合わせて連ねた。
「忘れた日なんて、一度も無かった。日を拝む度に、隣にそなたがいないことが苦しくて」
「……うん」
「考える度に掻き乱されてばかりいたのに、それが嫌では、なかった」
「うん」
幼子の話を聞くように、政宗は一言ずつに相槌を返した。聞いて貰えているのだと切なく思えば、喉元から込み上げてくる音は堰き切るように溢れ出す。
それを耐えられないことは弱さだと思っていた。
今は違う。告げなくてはならない言葉を呑み込まずに吐き出すことの方がよほど辛いのだと知った。諸刃の刃となって相手も自分も傷付けるとしても、声に出さねば伝わらないと分かっているから。
「――我も、会いたかった」
一目会えば耐えられないと、元就は分かっていた。
あの時言えずに封じてしまった言葉を止める術は何処にも無く、切なさばかりが押し寄せた。
揺れる瞳で見上げてくる元就を、政宗はさらに深く抱き締める。
言葉はもう要らない。
相手がいて、自分がいる。離れて、別れて、二人の間を隔てていた時間は取り戻しようもないくらい広がっているけれど。再び出会えた。出会うことを、許されたのだから――。
「ここまでお膳立てされりゃあ、もう俺はbrakeかける余裕ねぇぜ……」
こうなるようにと我策していたのだろう人々の顔を思い浮かべ、政宗は口調とは裏腹に幸福そうに微笑んだ。
不思議そうにそれを見つめ返す元就に、政宗は顔を寄せた。
「I love you. ……いや、違うな」
別れた日のように異国語を唱えた政宗は、苦笑いを浮かべてそれを取り止める。
そして代わりに、これから治めていく母国の言葉を口にした。
最後の勇気を振り絞るように。
「愛している、元就。俺の傍にいてくれねぇか?」
安っぽい告白だと思ったけれども、彼が懸命に紡いでくれたものと同じ言葉で自分の気持ちを逸らすことなく伝えたかった。
驚いて目を瞠った元就は、その言葉の意味を理解するなり慌てたように政宗を睨み返す。口の端を弛ませている男の真摯な隻眼を受け止め、その頬が微かに赤く染まった。
「っだから! 先に言うなっ!」
憤慨したように叫んだ元就を、政宗は笑い声をたてながらもう一度きつく抱き締めた。
照れ隠しの手が背中を何度も叩かれたが、もう離す気なんてない。
暮れて行く斜陽の刻限。西には薄闇に埋もれそうなほど頼りなくとも、目を惹き付けてやまない弓張り月が輝いている。
夜と昼とが溶け合う空の下――あの日出会った三日月の夜と、同じ空の下で。
二人は今、確かにここにいる。
- END -
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別れることは最初から決まっていたのですが、ここまで長々と回り道しているのに離れるのはあんまりだと思い(政宗が可哀想過ぎる…)ある一つの未来としてこの話があります。
思えば身体も重ねていない二人ですが、ここに来て、これから始まります。
読了ありがとうございました!
そして本当に最後のカーテンコール→オマケ(※コメディ?かっこよい政宗様はおりません)
(2007/04/07)
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