光の丘へ -2-
政宗への目通りを終えた人々が行き交う騒がしい城門から、元親は一人で出てきた。考え事をしたいと言って、従者達は先に屋敷へと帰してある。
立派な門の柱の側に佇み、元親は先程の政宗の様子を思い返していた。
公衆に晒された端正な顔には、大人になろうとしてなりきれない痛々しさが滲んでいた。以前から大人ぶってはいたが、自身でそれを楽しめるような余裕が彼にはあったような気がする。
政宗は、天下という重圧に見合う竜になろうと必死なのだろう。元就との別れを選んでまで望んだ道に、相応しい者になれるようにと。
己に縛られた生き方をしないようにと二人は離れた。だが見えなくなった影を追い求める気持ちが、流れた年月の長さの分だけ余計に焦がれているのではないだろうか。
二人の決意を無為にすることは出来ない。
だから元親は動けないでいる。普段だったら思うがままに行動しているのだが、結果的に政宗も元就も傷付けるのではないかという思いが臆病にさせていた。
どうしようもないのだろうか。
――二人は、このままでいるしかないのだろうか。
「長曾我部殿っ!」
不意に後ろから名を呼ばれ、彼は振り向いた。
少しだけ息を切らした青年が城内から早足で歩み寄ってきた。
「隆元。何か俺に急用でもあんのか?」
元親が足を止めたことに安堵の表情を浮かべ、毛利隆元は息を整えた。
背後に付き従うように立っているのは両川の弟達だ。彼らはゆっくりと頭を垂れ、軽い礼をする。兄の隆元もまた同じように頭を下げた。
既に再び中国は毛利領に復帰しているため、互いに主従関係は解消されている。そのため元親はたじろいだ。
「おいおい、どうしたんだよ」
「お願いがあって参りました。屋敷の方までお越し頂けますか」
顔を上げた隆元の眼差しに宿った光は、父親に良く似ていた。何としても成し遂げようとする強い意思がそこにある。
元就がらみなのだろうと、元親は即座に理解した。そして断る理由が見当たるはずもなかった。
真剣な顔付きになった元親は、口を噤んでしっかりと頷いた。
毛利の大名屋敷の縁側に通された元親は、見慣れた薄茶の頭を見下ろした。
隠居ということになっている元就だが、毛利の実権の半分は依然として彼が握っている。しかし当主はあくまで隆元であるため、乞われてここまで来たものの政宗に拝謁するわけにはいかなかったのだと言う。
そんな建前を聞きながら、元親は先程その隆元から話された内容を思い出す。それから、城に居た政宗のことも。
「謁見の時、政宗があんたを探していたぜ」
零した言葉に元就は目を瞠り、そしてすぐに伏せた。
側に置いてあった粗茶を飲んだ元親は、憂いを帯びた横顔を見つめながら返事を待った。
「それを我に告げてどうするのだ。天下人と隠居が会う理由が見当たらぬ」
「恋しく想い合う奴等が会いたいって思うことは、普通の事じゃねぇのか?」
起伏の無い声に思わず言い返すと、元就は眉を寄せて元親を睨み上げた。きつい眼差しはそれでも彼の感情を示すように揺れていて、居た堪れなくなった元親が先に視線を外した。
そんな普通の事が出来ないからこそ今もなお二人は苦しんでいる。
軽率な発言に謝罪を呟き、元親は元就が見ていた外の景色を眺めた。
「……こっからお日さん、見えねえんだな」
時刻は既に、昼下がりから夕暮れに差し掛かる頃。
西へと傾いた太陽は連なる屋根と山に阻まれ、輝きだけが空を覆い始めている。夜明けは綺麗に見られるだろうが、日の入りには適さない方角に屋敷は建てられているようだ。長曾我部の屋敷はここから反対側に位置するため城の影となる。やはり斜陽は拝めない。
不意に元就は立ち上がり、羽織る物を持ってくるよう下女に命じた。
急な行動に驚いた元親を無視して、元就は廊下を歩き出す。
「我は出掛ける。貴様は隆元の客人だ、ゆるりと過ごすが良い」
縁側に取り残された元親は、困ったように溜息をついた。
政宗が去った後も彼の側にいたがどうにもうまくいかない。元々口が巧い方でもないのだから仕方が無いということもある。
それに政宗も元就も、己で感じたことを一番信じる性質だ。こればかりは他人が口出しできる問題ではない。
「やはり無理でしょうか」
「いっそ、政宗が攫いに来てくれりゃ問題ないんだがなぁ」
出て行った元就と擦れ違いにやって来た隆元に苦笑を返し、元親は少々物騒なことを口にした。
冗談交じりの中に本心を紡ぐ彼へ、元就の息子は微かに笑った。
+ + + + + +
包みに入れた漆塗りの箱をしかと抱き締め、政宗は夕暮れの帰路に着いていた。
大名屋敷が集まるこの道は、午前中に登城を終えてしまっているためか静まり返っている。早々に国へ帰った者もいれば、屋敷内で穏やかな時間を過ごしている者もいるだろう。中には政宗を良く思ってはおらず、引き摺り下ろそうと企んでいる者も存在する。
この手で掴んだ物を簡単には取られたりはしない、と政宗は不敵な笑みを浮かべた。
天下を取って早々に、不穏な事を考えてしまっている自分に苦笑し、政宗は人目を避けて細い裏路地を歩いていく。
しばらく行くと、梅の木が咲いているこぢんまりとした屋敷の前に出た。
華美な設えで己の権力を示そうとする大名屋敷が多い中、この屋敷はどちらかというと質素だ。だが職人の腕が悪いわけでもなく精練された美しさが備わっているように見える。
足を止めて屋敷を眺めていた政宗は出入り口の表札を視界に捉える。書かれている氏を見るなり、政宗は足早に門の前を横切った。
鼓動が煩いくらいに高鳴り、たった数十歩の距離がとても長く感じる。
「ん? 政宗じゃねぇか?」
扉が軋みを上げて開いた。
驚き思わず硬直してしまった政宗を、屋敷から出てきた元親が不思議そうに見つめた。
立ち去りたい気分だったが、相手に妙な勘繰りをされても溜まらない。政宗はぐっと奥歯を噛み締めて振り返った。
「……こんな所で何してんだよ」
「それはこっちの台詞だぜ。天下の伊達様が一人で無用心じゃねえか」
お互い様だと共もつけずにいる元親に皮肉を返し、政宗は視界に入った表札を意識の外へと追い出そうと微かに俯く。
相手の様子に気が付いた元親は屋敷を見上げ、それから再び政宗に隻眼を戻した。
「元就に会いたかったのか」
「っ違う!」
元就、と。親しげに紡がれた名前に、目の前にある時の流れを感じる。
政宗は居た堪れなくなり、思わず叫ぶように否定した。けれど余計にそんな自分が幼く思え、足元に視線を這わせる。掠れ気味の声で重ねて否定を口にしても、本心は逆方向を向いてしまっているため言葉に真実味が帯びない。
会いたいと認めてしまえば、あの日の辛い決意が何だったのかが分からなくなってしまう。
伊達と毛利を天秤に掛け、政宗は伊達を、元就は毛利を選ばざる負えなかった。
――自分は彼を選ばなかった。そして彼は、政宗を選ばなかった。
この事実はどう足掻いても変えられない。
政宗が竜として飛ぶには、元就が鷲として立つには互いは枷でしかあり得なかったから。
元就が元就らしく生きてゆける道を、政宗は望んだ。
他に、どうすれば良かったというのだ。
「どの道、あの人は此処にはいないんだろ。……今更、どの面下げて会えってんだ」
顔を抑えながら政宗はぽつりと零した。
天下を制した政宗と当主の座を退いた元就の間には、かつての日々の中でさえ感じていた透明な線よりも分厚い何かが横たわっている。
きっと元就とは二度と会えない。
会わないことを、望んだから。会えなくても構わないと別れたから、今更求めても詮無きことなのだ。
なのに会いたいと微かな願望を抱こうとする己の小ささに、反吐が込み上げた。
「二刻前まではいたぜ、元就。夕陽の話をしていたら突然出て行っちまったけど」
暗い空気を纏う政宗に、あえて軽い口調で元親は告げた。
元就の名に反応したのか、それとも彼が向かっただろう場所に検討が付いたのか、勢い良く政宗は顔を上げた。
そんな年下の男に笑いかけて元親は屋敷へと視線を投げる。
「どうしても、って隆元達に説得されてここまで来たらしいが、隠居ってことになっている元就が登城するわけにはいかねぇから城には来なかったんだと」
元親の話し声が遠くに聞こえる。
やはり自分達の間には大きすぎる溝があるのだ。この屋敷の重圧な扉のように明確に、それでいて無言で立ちはだかっている。
元就は何を思ってこの地にやって来たのだろう。
約束通りに生きて天下を取った自分を、どう思ったのだろう。
頭を掻き毟りたい衝動に駆られ、政宗は視線を目の前の鬼へと無理やり移す。
自分は、やはり馬鹿だ。
別れて、会えないと分かっていて、分厚い隔たりがあることも理解しているというのに。考えることは元就のことばかりだ。大人になれたと思っていたのに。自分は足掻いても足掻いても、泣き虫だった梵天丸の影を払拭できないでいる。
欲しい物を諦めているくせに、本当はどうしようもないほど渇望していて。現実を知る度に、自分の愚かさに嘆きたくなる。
――何にも、変わっていない。
「それを俺に言ってどうするんだ。如何にもなんねぇだろ」
暴れる心中を押し留め、政宗は自嘲を浮かべた。
肩を竦めた元親は呆れているのか、愛想が尽きたのか。とにかく彼はもう自分の屋敷に帰っていくだろうと考え、政宗は踵を返して歩き出した。
元親は呼び止めたりはしなかった。だが独り言のように言葉の続きを紡いだ。
「元就は知らねえんだけどな、あいつを伊達家へやるように毛利は決めたらしいぜ」
政宗は耳元に通り過ぎていった言の葉に、思わず足を止めた。己の心の臓の音が全身で感じられる。血流の速さが、まるで自分を急かしているようだ。
そんな話は一切聞いていない。そもそも隠居の話さえ、政宗は知らなかった。彼を思い出さないため、意図的に毛利家中の話題を避けていたからだ。
小十郎達が無理やりにでも聞かせようとしたことはあったが、それさえも政宗は逃げていた。
「後は本人の気持ち次第ってことで、それとなく説得してくれと隆元に言われたんだがなぁ」
「伊達は、応えたのか」
立ち竦んだまま震える声を絞り出した政宗に、元親は目を細めて笑う。
振り向かずとも元親が頷いた気配がした。
「表向きは政の相談役で、一応毛利への人質として。本音は――権力だとか政事だとか関係無しに、お前に会わせてやりたいそうだ」
勢いよく振り返った政宗。その驚愕に色を失った顔を、元親はじっと見つめてきた。
政宗の中で様々な思いが交錯する。
そして辿り着くのは、沈黙を保ったまま佇む小十郎の姿だった。
あの時は頭に血が上ってしまい冷静に考えることができなかったが、いくら夫婦といえども同じ部屋で寝起きするということは有り得ない。しかし寝具は寄り添うように並べてあった。他人との境界をはっきりと線引きしている政宗が、そうして隣り合って眠ることを許したのは今までたった一人しかいない。
――元就だけだ。
「さっきの話の続きだけどよぉ。建前上は城に来なかったが、ならなんで元就はこの地にまで来たんだろうな」
元親は頭を掻きながら話を続けた。
答えなんて政宗には見えてしまう、わざとらしい謎掛け。
元就を好いている元親だから分かっただろう事柄が、政宗に分からないわけがない。息子にせがまれただけで動く男ではない。元就は、何かをするためにここまで来たのだ。
何かに――誰かに、会いたいと想う気持ちで。
それは自分だと自惚れても許されるのだろうか。
弾かれたように走り出した政宗の背中を後押しするように、元親は最後の切っ掛けを手渡した。
隣を、青い風が横切る。
慌しく駆けていった男を追うことはせず、元親は静かに自分の屋敷の方へと歩き出した。夕陽が落ちて行く。西の空には細い弦月が昇り出していた。
長く伸びる影を見つめながら、互いを忘れようとして忘れられずにいた二人のことを思う。
この空の下で彼らは今、何を感じているのだろう。
願わくは。
流した涙が示した物語がもう一度紡がれんことを。
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