光の丘へ -1-
上座に座る男に平伏していた諸大名は、一斉に顔を上げる。
彼らの多くは男の若さに驚き、或いはその顔に見覚えがあった。しかし共通していた事は、誰もがその晒された右側の目元に息を呑んだということだ。
それに対して政宗は皮肉げに口元を弧にするばかりで、寧ろ今にも抜刀しそうなほど激怒の念を抱いたのは傍にいた小十郎の方だった。
肩を竦めてそれを制した政宗は顔を巡らせて各々の顔ぶれを確認していく。
全国を平らげて天下人となった政宗は、諸国の者達と顔合わせをする際に、眼帯を外して挑むことを決めていた。
反対もあったが政宗はそれを拒んだ。これは自分なりのけじめであるのだと、皆に言い聞かせ。
政宗は右目を晒すことを厭わなくなっていた。いまだ拭えない恐怖心は何処かに残ってはいる。それでも政宗は、自身の闇に光を当てることを選んだ。
伊達の家中でさえも、時折この右目に眉を寄せる者は少なくない。小十郎でさえそうなのだ。右目を切ったという罪悪感と、そこに刻まれた政宗の悲しい過去に心を痛めているのだろう。
それが嫌だとは思わない。
けれど、少しばかり悔しかった。
気の合う連中である彼らには負い目を背負わせ、見ず知らずの他人はこの目を見て嫌悪や居た堪れなさを感じる。病の毒が右目を侵食してしまった瞬間から、きっと自分を直視する者は一生現れないのだろうと、悔しさを感じながらも半分は諦めていた。
でも、そんな稚拙な拘りはもう捨てたのだ。
世界中でたった一人でも構わない。政宗から目を逸らさずにいてくれた存在が、確かに胸の中で息づいているのだから。
――何を言われても真っ直ぐ立ち続ける彼の人のように、強くなりたかったから。
「政宗様?」
困惑した様子で成実が小さく声を掛けた。
ぼんやりしていたのだろう。そんな自分に苦笑し、政宗は視線を前へと動かす。
すると気拙そうな隻眼の男と目が合う。他の者と同じように地味な衣を纏っているため一瞬分からなかったが、それは元親だった。
彼は口をきつく結んだまま、視線だけを斜め前に逸らす。そちらを見ろと促されているようだ。
不審に思いながらも促された方向へと目を向ける。
そこに座っていたのは何処かで見たような面差しのある歳若い青年。何処の者かと家紋を見やれば、見慣れた一文字に参の星。
政宗はじわりと落胆が広がることを感じた。
そうして今度は自嘲が湧き上がる。もしかしたら彼がいるなどと、希望を持ってしまった己の浅ましさが愚かに思えた。
優しげな顔付きの青年は求める人ではない。きっとそこに座っているのはあの人の息子なのだろう。
元親が言いたかったことは何となく分かる。視線を周りに這わせていたのは、彼の人を探す素振りに見えたのだ。
隣に座る小十郎と成実が、困ったように目を伏せたのが横目で視認できた。事情を知っている者から見れば、自分はそれほど滑稽なまでに平伏した人々を見回していたのだろう。そう思うと微かな羞恥心が込み上げる。
だがそこまでしても彼の人は――元就は、いないのだ。
無意識の内にでも追い求めてしまっている自分の心に蓋をし、政宗は前を見据えた。
終わった季節を未練がましく想うことは止めたはずだ。もう自分はかつてのように我侭を振り翳せるほど子供ではいられない。
天下人として、この場所を選んだのだから。
謁見を終えた政宗は、成実を連れて自室へと戻った。
何か用事でもあったのか、小十郎は先に何処かへ行ってしまった。成実に行き先を尋ねてみたものの、言い難そうにしながらはぐらかされるばかりだ。
今も堅苦しい正装を脱ぎたくて部屋へと急いでいるというのに、成実は慌てたようにもう少しゆっくり歩けだの何だのと、しきりに隣で喚いている。
「一体さっきから何なんだよ、成実」
「いや、あのーそのー……」
困り果てている成実に首を傾げながら、政宗は戸を一気に開いた。
一瞬驚いた風に見開かれた隻眼は、じろりと中にいた人間を不審そうに見つめた。
「何してんだぁ、小十郎?」
「お気になさらず」
いつものように平然とした顔で、政宗の部屋にいた小十郎は立ち上がった。
納得のいかない応答に眉を寄せる。
成実が引き止めようとしていたのはこういうことだったのだろう、と隣に立つ男を横目で見やった。
困ったように乾いた笑いを浮かべた成実は、さっさと政宗を立たせたまま部屋の中へと入っていく。主君の部屋だというのに勝手な奴等だ、と政宗は呆れたような溜息を出した。
小十郎の足元には、今朝敷きっ放しだった布団が畳まれている。侍女がさっさとしまっているだろうと思っていたのだが、小十郎辺りが出しておくように命じたのかもしれない。
だが政宗が一番不可思議に思えたのは、その隣にもう一式寝具が置かれていたことだ。
胡乱気に小十郎を見上げれば、憮然めいた表情と出会う。
政宗はつり目がちな片目を更に鋭くし、小十郎をきつく睨んだ。
「Ha! 天下を取ったらさっさと世継ぎでも作れってか?」
笑いながら軽い調子で言い放つ政宗だが、微かに感じる怒気に小十郎は内心怯む。だがそれを顔に出すことはせず、ただ黙って彼の言葉を身に受けた。
返答が返らないことに苛立った政宗は、奥から戻ってきた成実の手の中にあった四角い包みを乱暴に引っ手繰り部屋を出て行った。
足音が遠のき、気まずい沈黙が残された二人の間に流れる。
「……小十郎、やっぱりちゃんと言った方が良いんじゃねえの?」
「俺から言っても仕方ねえだろ。垣根は取っ払った。後は、あの二人の問題だ」
嘆息を吐き出し、小十郎は政宗が去っていた方向を眺めた。
行き先は分かっている。
そして追いかけるべきでもないことを。
「そんなことよりさっさと鬼庭殿に、政宗様の部屋をもっと広い所に変えるよう言って来い」
「へいへい」
肩を竦めた成実は、小十郎も大概素直じゃないよなと笑い声を上げた。
小十郎はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
がらんとした客間で頬杖を付いている政宗は、ぼんやりと外を眺めていた。
居慣れない京の中で、自分が一番違和感なく見ることのできる庭がそこに広がっている。向こう側には厩があり、塀を越えた幾許か先にはなだらかな丘が一つ見えた。
大きく広げた手の中には、己の右眼を覆う眼帯が握られている。
身に付けないことを決めたが、過去の自分を全て否定してしまうような気がして捨てることは出来なかった。今では政宗の懐中にお守りのようにひっそりと存在している。
それをぐっと握り締め、政宗は庭から視線を背けた。
仰向けになって見上げた天井の染みは、ここを離れたあの日から何ら変わっていない。寝返りを打つように廊下とは反対側を見れば、そこに掛けられている赤い羽織が目に入る。
政宗はそれをじっと眺め、腰を上げた。
何年経ったのか、正確な時間を政宗は覚えていない。
ただ天下を取ったのだと自覚した瞬間、込み上げてきた歓喜と叫びたい衝動に襲われた。声を上げて喜びたかったけれど青臭いことなんてしたくなくて、鼻でせせら笑うことで精一杯の背伸びをした。
同時に胸に描かれた波紋がそうさせたのかもしれない。
――死ななかったよ、元就さん。
もう鳥のいない籠にそっと語りかけ、政宗は再び京へと戻ってきた。
元就に自分を引き摺って欲しくなくて渡さないままだったが、けれど結局は政宗も捨てられずに赤錦の羽織を政宗は今でも大事にしている。時間に忙殺される日々の中、思い出したように広げて記憶に刻まれた温かくも哀しい思い出に浸った。
それだけでは飽き足らず、以前借りたこの屋敷にも羽伸ばしと称して度々訪れている。
思い出だけで生きていける。愛しいと想える気持ちが胸に生き続ける限り、約束は死なない。
政宗がそう考え、元就と別つ道を選び取った事を近臣の者の殆どは知っている。だからお目付け役の小十郎も、一人で出掛けたがる政宗を無理に引き止めたりはしない。行き先は分かっているのだ。育まれた優しい記憶の生きる場所へ向かうことを。
許されていることをありがたく思いながらも、いつまでも引き摺る自分が不甲斐無くて家臣達に申し訳なさが募った。
そうすると先程の悶着が脳裏に過ぎるのだが、相手の言いたい事は最もなのだとそれは理解できている。
政宗はもう、伊達の当主というだけの存在ではない。天下を統べる時の人だ。
野望は叶ったが、同時に背負った荷の重さはその比ではない。戦乱がようやく治まり出した今日この頃、本来ならばこのように私情で時間を潰す暇などないのだ。
分かっていた。分かっていて、望んだのだ。
だから今更中途半端で投げ出すことはしない――けれど。
「俺もまだまだnaiveだな」
苦笑しながら羽織の裾を掬い上げた政宗は、そっと口付けを落とす。
元就はこれを一度しか着ていなかった。当然、彼を思い起こさせる匂いが染み付いているはずもない。
それでも鼻先に感じた香りに政宗は目を細める。
太陽の、匂いだ。
彼の愛した優しい木漏れ日の匂い。
ざわめく心を抑えながら、政宗は俯いた。
羽織から温かな匂いが耐えないのは、小十郎が良く日の当たる縁側に出してくれているからだ。政宗を迷わせる存在がいたことを忘れさせてしまえば良いというのに、彼は黙ってその作業を続けている。最初は困っていた政宗も何も言えずにいた。
本当は忘れたくなんてないのだ。
あれだけ惹かれていた人を簡単に忘れ去ることが出来るほど、政宗が抱いていた想いは軽々しいものではなかった。
だから政宗に、わざと元就の存在を思い出させるような小十郎の所業を止めることも出来ずにいた。黙認したまま、こうして屋敷に来る度に羽織を共に持ってきてしまう。
自分の天下の地盤を強くするには。後継者がいるということも重要なことだ。
けれど政宗の心が向いている方向には、今でも元就がいる。直接は口に出さずとも、小十郎はそれを知っているはずだ。
――なのに何故。
元就のことを思い出させるようなことをしておきながら、結婚を急かすような真似をしたのだろう。
自分がそんなに分別の無い、頼りない者だと思われたのか。手にした天下を不意にしてまで叶わない恋へと身を投じる、そんな浅ましい男だと思われたのだろうか。
薄暗い気持ちを払拭するように首を振り、政宗は縁側へと歩み寄った。目の先に見えるあの丘に二人で祈った日々を思い起こしながら、政宗は柱に寄りかかって瞼を閉じた。
ここにいる時だけは、あの人のことしか考えたくなかった。
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