終:残された籠を手に -3-



 小さな花がいくつか咲く安芸の街道を、多くの馬が駆け抜ける。土煙が舞い上がり、やがて消えていった。
 遠くなっていく青い背をいつまでも見送るように、元就と元親はその場から動こうとはしなかった。
 別れの余韻は、一向に醒めない。
 元親は政宗の行ってしまった方向へ、数歩足を進めた。俯き加減の元就の旋毛を通り過ぎる。

「行っちまったなぁ」

 元就にかける言葉も見当たらず、元親は困ったように西へと視線を投げ続けた。
 またの再会を願わずにはいられない、同じ独眼の王。
 次に会える時は、友人として彼の前に立てるのならばそれも良いだろうと元親は思う。その時泰平が訪れていれば、とも。

「おい、背を貸せ」

 ずっと黙りこくったままだった元就が、開口一番にそう言った。
 不審そうに振り返った元親は、彼の足元の影が少しばかりぐらついているように見えた。
 怪我がまだ完治していない元就は、本来ならば馬か輿に乗らなければ郡山城に帰ることができない。命にかかわるほどの重体では無いにしろ、やはり無理をして長時間動くことが憚れる位に傷が深い。
 立っていることが辛いのだろうかと思い、迎えが来るまで何処かで休ませなくてはいけないのではと元親は焦った。この草木ばかりが続く街道には、民家の一つも見えやしない。
 逡巡する相手のことを意にも介せず、元就は淡々とした口調で急かした。

「早くせぬか」
「へいへい。……ったく、丸くなったと思ったのに早速これかよ。先が思いやられるぜ」

 高飛車な物言いは出会った頃から変わらない。相変わらずな態度は、お願いされているのか命令されているのかさっぱり分からなかった。
 けれどもこれが元就なりの言い方なのだと、ようやく知ることができたからこそ、可愛いものだと元親は苦笑いを浮かべられる。
 呆れたような声を嬉しそうに紡いだ元親は、背中に思わぬ体重が乗せられたことに慌てた。
 せいぜい手の置き場にされるかと思っていたのに、寄り掛かられるなんて考えもしなかった。
 布地越しに伝わる感触は、元就の細い髪だ。彼は頭を押し付けるように、元親の背にもたれている。

「も、毛利? ……あ」

 驚いて思わず後ろに向きかけた元親は息を呑んだ。
 上げかけた腕は行き場を失い、静かに下ろされる。
 背中に添えられた元就の両手が、小刻みに震えながら元親の上着を握り締めていた。
 縋るものではない。怪我の痛みを耐えようとするものでもない。
 これは――。

「なぁ、お前、やっぱりあいつのこと好きだったんじゃないのか?」
「――分からぬ」

 ぽつりと呟いた彼が抱く何とも言えない感情を思いながら、元親は顔を上げた。
 街道には自分達以外誰もいない。
 それでも去って行った竜の姿を脳裏に描いてしまうのは、あの男が背中の人の心を綺麗に攫っていってしまったからだろうか。
 背中が熱い。重みを感じる辺りに、濡れた感触が広がっている。
 自分が今出来るせめてものことを思い浮かべながら、元親は空を仰いだ。

「俺は何も聞いていない。見てもいない。今ここにいるのはお前だけだぜ」
「……っ」

 そう呟きを落とした後、元親はぐっと口を噤んで黙り込んだ。
 青空が妙に眩しく感じるのは、片方しかない目が泣くのを堪えるように歪んだからか。
 彼の気持ちが伝わったのか、元就の感情の露出の方が早かったのか。潮風に乗って背後から微かな嗚咽混じりの声が、堰を切ったように流れてきた。
 積もり続けた心の底から吐き出すように――伝え切れなかった言葉を、叫ぶように。
 とうとう呼ばずに終わってしまった、大切な彼の人の名を。
 情が移らぬようにと、最後の砦として自制し続けた竜の名を。
 掠れ声であったけれども元就は確かに紡いだ。忘れたくないからこそ、声に出した。

「……政、宗っ……!」

 晴れ渡った空の下。
 繋がっているはずの、空の下。
 何に二人は、住む世界が違うのだと言って離れていった。甘い楽園から出て、それぞれの道を歩くことを決めた。
 それでも、元親は思う。
 矜持の高い元就の涙が密かに物語るように、二人の間にあったもの。



 ――それは確かに、恋、だったのだ。






 どれくらい時間が過ぎただろう。
 不意に元就は、元親から離れて後ろを振り返った。

「元就様ー!」

 聞こえてくる呼びかけに、迎えが来たのだと元親は理解した。
 窺うように元就を見やれば、幾分かすっきりとした顔がある。
 目元がまだ少しだけ赤かったが、それでも琥珀の瞳は輝きを忘れてはいない。

「迎えだな、行こうぜ元就」
「貴様と行かねばならんことが少々不満だが、な」

 にっと意地悪そうに笑った元就は、こちらへと走り寄ってくる者達の方へとさっさと歩き出した。
 不意打ちのような笑みに硬直してその場に残った元親は、唸りながら頭を粗雑に掻いた。
 反則だとぼやきながらも嬉しそうに、再会をした毛利の者達を穏やかに眺めた。

「父上、御無事で何よりです!」
「元就様、御会いしとうございました!」

 知らせを受けて郡山城から飛び出してきたのだろう、安芸に残されていた家臣達が咽び泣くように元就の側へと駆け寄った。
 知らせを持っていった元春や隆景の他に、飛び出してきたのだろう隆元の姿もあった。
 元就はそれぞれの顔を確かめるように見回す。

「全くしぶとい者共だ。相も変わらぬ駒としての働き、少しは期待しておこうか」
「ええ! 存分にお使い下さいませ!」

 いつもの言葉も、皆が笑って受け入れる。戻ってきたのだと思わせる、偽りのない温かさで。
 自然と苦笑を浮かべた元就は、彼らへと告げた。
 故郷に戻れたら言おうとずっと決めていた、五文字の言葉を。

「……ありがとう」


 生かしてくれて。支えてくれて。信じてくれて。
 生きていてくれて、ありがとう。

 そして――政宗と巡り会わせてくれて、ありがとう。




 + + + + + +




 勢いよく街道を駆け抜ける騎馬の足並みは、やがて平時のように緩やかなものとなっていた。
 先頭を駆けている者が速度を落としたため、後ろもそれに倣って速さを抑える。道には人気が全くなく、不可思議に思えるその行列を見る者は誰もいなかった。

「政宗様、宜しかったのですか」

 一番先頭を行く政宗に、小十郎が尋ねた。
 その隣には成実や延元といった面々が、小十郎と同じような神妙な顔付きになっている。
 それを横目で見やった政宗は、自嘲じみた笑みを滲ませながら腕を組み直した。

「おめぇら、揃いも揃って変な顔しやがって。伊達の戦に毛利も長曾我部も必要ねぇだろ? まだ天下は取っちゃいねぇからな」

 呆れ混じりに言ってみれば、家臣の面々は困ったように顔を見合わせた。
 素直ではない、と思われているのだろう。
 それすらも手に取るように分かる自分に、彼らとの付き合いの長さを思う。それは同時に、支えられてきた時間と同じ年数だ。
 政宗は空を見上げた。澄み渡った、彼の人の故郷の空を。
 きっと元就もようやく戻ってこられた自分の居場所に、そこに立つことを支えてきてくれた人々の笑顔に、再び出会えている頃だろうか。
 その時彼が笑っていれば良いと、政宗は自然と緩まった頬に気付いて馬鹿らしくなった。
 たった今、別れを告げてきたばかりだというのに。どうしてこうもすぐに彼の事を思い返してしまうのだろう。
 別れたのに。自分で決めて、選んだのに。
 もう誰もいない約束の籠を奪って呑み込んで、悔いがあるはずもないのに。

「これで、よかったんだ」

 言い聞かせるように、呟いた政宗はぐっと瞼を閉じた。
 迫り上がってくる熱い衝動をどうにか耐えようとして、顔が歪んだ。
 みっともないと分かっている。
 こんなことで醜態を晒すような自分じゃないはずだから。

「――……政宗様、我々は見ておりませぬ故、今くらい我慢めされるな」

 ――馬鹿、小十郎。
 そう言って許されてしまえば、抑え切れないだろう。
 子供の頃から政宗の感情の動きに機敏であった小十郎へと、心の中で悪態を吐き出す。それでも政宗は、奥歯を噛み締め続けることがどうしてもできなかった。
 未練はないはずなのに。
 どうして、こんなに泣きたい気分になるのだろう。

「ああ、畜生っ……!」

 政宗は己の手の甲で、必死に眼を擦った。
 流れ落ちる物だけは見られたくない。愛した人が認めた竜としての誇りがある。
 それ故に、政宗は元就と共にいることを望まなかった。
 でも、本当は。
 一緒にいたくないわけが、なかった。
 泣きたいくらい悔しくて。泣きたいくらいに哀しくて。それ以上に、彼が愛しかったから――。
 竜たる己を、伊達に生まれた自分を呪うことはない。
 右目を切り落とした瞬間から、家を継いだ時から、家族を遠ざけた日から――或いは、天下を狙う決意してから定めていた。
 仰ぎ見た青い空に翼を広げた黒い影が横切って行く。
 政宗は遠ざかる羽ばたきを見送りながら、自嘲じみた笑みを浮かべた。
 後悔はない。
 それでも一度くらい、叶いもしない願いを夢見てもいいだろうか。
 いつか彼と、同じ世界で隣り合って笑い合える日が来て欲しいと。巡り会える時が来世ででも訪れてくれたらと。
 自分らしくない、非現実的なか弱い望みだけれども。

「……次生まれてくる時は――」



 ――あの人と同じ、鳥になりてえな――。






鳥 籠

- END -







 終わってしまった物語。けれどもしも、解かれた糸がもう一度紡がれるとしたら――。
 これは数ある未来の内の、一つの可能性。
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(2007/03/30)



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